桓階  事の成否をわきまえる



桓階(かんかい)字は伯諸(はくしょ)
荊州長沙郡臨湘県の人(??~??)

魏の臣。
桓勝(かんしょう)の子。

「王沈魏書」に曰く、父・祖父は州郡の長官を歴任し、父は南方で名高い人物だった。

郡に仕官し功曹となった。太守の孫堅に孝廉に推挙され、尚書郎に任じられたが、父が没したため帰郷した。

191~192年、孫堅が荊州牧の劉表(りゅうひょう)と戦い戦死すると、危険を犯して遺体の引き取りに出向き、義侠心を買った劉表は返還に応じた。

200年、官渡の戦いが始まると劉表は袁紹に味方した。桓階は長沙太守の張羨(ちょうせん)に「道義に基づかない行動は失敗します。袁紹に道義は無く、それに呼応した劉表は災難を招きます。あなたは道義を明らかにし災禍を免れたいと願うなら、劉表に同調してはいけません。対する曹操には道義があります。4郡と3江を保持して味方すべきです」と進言した。
張羨はそれに従い、長沙と隣3郡とともに劉表の傘下から離脱し、曹操によしみを通じた。
しかし官渡の戦いから続く袁紹勢力との戦いは長引き、劉表は長沙を攻め、抗戦中に張羨は病没し、城は陥落した。
桓階は身を隠したが、実力を買う劉表に従事祭酒として召し出され、妻の妹の蔡氏(さいし)との婚姻を持ち掛けられたが、既に結婚していると断り、病を理由に官を辞した。

208年、劉表没後の荊州を制圧した曹操は、張羨の下での桓階の働きを知り丞相掾主簿とし、趙郡太守に任じた。(『桓階伝』)

「零陵先賢伝」に曰く。
赤壁の戦いに敗れた曹操は、桓階を長沙へ向かわせ付近3郡を守らせようとしたが「私は劉巴(りゅうは)に及ばない」と辞退された。劉巴も「劉備が支配しているから無理だ」と言ったが、曹操は援軍を出すと約束した。結局、劉備に敗れた。(『劉巴伝』)

213年、魏が建国されると虎賁中郎将・侍中となった。
当時、曹操の後継者争いは曹植(そうしょく)がリードしていたが、曹丕は徳に優れ年長であるから太子とするのが当然だと桓階はたびたび上申し、公にも内密にも推薦した。
「王沈魏書」に曰く、曹操は桓階が正義を貫いていると思いますます尊重した。

また毛玠(もうかい)と徐奕(じょえき)は剛直で仲間が少なく、(曹植派の)丁儀(ていぎ)に讒言されたが、桓階が弁護してやったため安全を保った。彼が人の美点を後押しし、欠点を補ってやった例は非常に多い。やがて尚書に上り官吏の選抜を担当した。(『桓階伝』)

桓階・和洽(かこう)の弁護により毛玠は処刑を免じられ罷免されただけで助かった。(『毛玠伝』)

219年、魏諷(ぎふう)が反乱し、楊俊(ようしゅん)が責任を取り辞職すると、曹操は「反乱を招いたのは、私の爪・牙となるべき臣に、悪事を留め企みを防ぐ者がいなかったからだ。諸葛豊(前漢の名臣)のような人材はいないだろうか」と後悔した。
桓階は「徐奕こそその人です」と推薦し、後任の中尉となった。
だが在職から数ヶ月で重病を患い、辞職して諫議大夫となり、病没した。(『徐奕伝』)

同年、樊城の戦いで曹仁が関羽に包囲され、徐晃が救援に向かったが包囲は解けなかった。
曹操は自ら遠征しようと考え、群臣に意見を求めると桓階だけが反対した。桓階は「大王(曹操)は曹仁らが事態に対処し、実力を発揮できると思っているのになぜ自身で出向こうとするのか。彼らが包囲の中にありながら二心を抱かないのは、大王が遠方から威圧しているからです。決死の覚悟で戦っている彼らが敗れるとなぜ心配するのですか」と言い、納得した曹操は豫州潁川郡郟県の摩陂に進出するだけに留め、やがて関羽も撃退された。(『桓階伝』)

「魏略」に曰く。孫権は魏へ臣従し、曹操に帝位につくよう求めた。陳羣(ちんぐん)・桓階も同意した。

「曹瞞伝」と「世語」に曰く。桓階は帝位につくよう勧め、夏侯惇は呉・蜀を滅ぼしてからでよいと言った。
裴松之は「桓階は夏侯惇より道義を踏んだ生き方をしており、でたらめだろう」と指摘する。(『武帝紀』)

220年、曹丕が帝位につくと尚書令に上り、高郷亭侯に封じられ、侍中を加えられた。(『桓階伝』)

「献帝伝」に曰く。曹丕へ魏帝即位を勧める書状に尚書令として連名した。(※王位についた時点で尚書令になっているようだ)(『文帝紀』)

「魏名臣奏」に曰く、尚書令の桓階は、崔林(さいりん)が尚書の才を持たないと判断し河間太守にした。
ただし本伝では呉質(ごしつ)に陥れられたと記される。(『崔林伝』)

222年、辛毗(しんぴ)・桓階は面従腹背する孫権に任子(※官位につける名目で子を人質にすること)を迫ったが断られた。(『呉主伝』)

重病になると曹丕は自ら見舞い「あなたに幼子を託し、天下の運命をあずけるつもりだ。頑張ってくれ」と励まし、爵位を安楽郷侯に進め600戸を与え、桓階の3人の子も関内侯に封じた。危篤になると太常に任じた。
そのまま没し、曹丕は涙を流して悲しみ、貞侯と諡した。
子の桓嘉(かんか)が後を継ぎ、弟の桓簒(かんさん)も列侯された。
桓嘉は公主をめとったが252年、東関の戦いで敗死し、壮侯と諡された。(『桓階伝』)

また弟の桓彝(かんい)は経緯は不明だが呉に仕えている。(『孫綝伝』)

「魏略」に曰く。
蜀から魏へ寝返った孟達(もうたつ)は親しくしていた曹丕・桓階・夏侯尚(かこうしょう)が同時期に亡くなったため不安になり、蜀への帰参を考えた。(『明帝紀』)

243年、建国の功臣の一人として曹操の霊廟の前に祀られた。(『斉王紀』)

陳寿は「成功・失敗の事例をわきまえ、才能は当代に広く行き渡った」と評した。

「演義」でも孫堅の遺体の引き取りをし、曹丕の帝位簒奪に中心人物として貢献した。