毌丘倹  裏切りの名将



毌丘倹(かんきゅうけん)字は仲恭(ちゅうきょう)
司隷河東郡聞喜県の人(??~255)

魏の臣。
毌丘興(かんきゅうこう)の子。

父は反乱討伐で活躍し高陽郷侯に封じられ、没すると毌丘倹が爵位を継いだ。
曹叡の文学(官名)となり226年、曹叡が帝位につくと尚書郎、羽林監と昇進し大いに寵愛され、洛陽の典農に赴任した。
曹叡が宮殿造営に血道を上げると「呉・蜀を除き衣食を蓄えるのが急務であり、宮殿を立派にしたところで意味はない」と諌めた。(『毌丘倹伝』)

同郷の杜摯(とし)と親しく、彼は毌丘倹に仙薬を求める詩に託して推挙を求めたが、答詩で断られた。(『劉劭伝』)

荊州刺史に上り、青龍年間(233~237)に遼東で公孫淵(こうそんえん)が反乱すると、臨機応変の策が立てられるとして幽州刺史に転任し、度遼将軍・使持節・護烏丸校尉を加えられ討伐軍を率いた。烏丸の単于(王)らは降伏し、公孫淵を敗走させた。(『毌丘倹伝』)

面白いことに「正史」内で次のように勝敗が食い違う。

237年、幽州刺史の毌丘倹は諸軍と鮮卑・烏丸の兵を率い遼東の南境に駐屯し公孫淵を威嚇した。公孫淵は詔勅(降伏勧告)を拒否して挙兵し、毌丘倹は討伐しようとしたが10日も長雨が続き河が反乱したため撤退を命じられた。遼東の烏丸の単于らは降伏した。公孫淵は独立し燕王を自称した。(『明帝紀』)

公孫淵と交戦になり形勢不利になった毌丘倹は撤退した。公孫淵は独立し燕王を自称した。(『公孫度伝』)

毌丘倹は「陛下(曹叡)は即位以来いまだに記録すべき功業がありません。呉・蜀は険阻な土地で早急に平定できませんから、幽州のしばらく使っていない兵で遼東を討伐しましょう」と上奏した。
衛臻(えいしん)は「毌丘倹の述べたことは戦国時代の卑小な戦術で、王者のやるべきことではありません。遼東は海の彼方で生長し三代に渡り異民族を手懐け力を蓄えています。それを毌丘倹は一部隊で遠征し朝に到着し夕には平定するつもりのいいかげんさです」と反対した。討伐軍が催されたが上手く行かなかった。(『衛臻伝』)

238年、司馬懿とともに公孫淵を討ち取り、遼東を平定し安邑侯に進み3900戸を与えられた。(『毌丘倹伝』)

「志記」に曰く、毌丘倹は司馬懿の副将を務めた。(『明帝紀』)

正始年間(240~249)、1万の兵で高句麗を討伐した。句麗王の位宮(いきゅう)は2万の兵で迎撃したが連敗し、毌丘倹は都を破壊し4桁の捕虜と首級を得た。
高句麗の得来(とくらい)はたびたび位宮を諌めたが聞き入れられず「この地にはたちまちよもぎが生える(ほど荒廃する)だろう」と言い自害した。毌丘倹は得来の墓を荒らさず妻子も釈放するよう命じた。
位宮はただひとり妻子を連れて逃亡し、毌丘倹は凱旋した。

245年、再び高句麗を討伐し、逃げる位宮を玄菟太守の王頎(おうき)に追撃させ、沃沮(朝鮮半島北東部)から千里を超え粛慎(満洲)の南まで到達した。8千の捕虜と首級を得て、戦功により100人が列侯された。トンネルを掘り灌漑を行い民に利益をもたらした。(『毌丘倹伝』)

246年、高句麗・濊貊を討伐しどちらも撃破した。(『斉王紀』)

左将軍・仮節監豫州諸軍事に上り、豫州刺史を兼任し鎮南将軍に転じた。(『毌丘倹伝』)

「戦略」に曰く、252年、孫権が没すると王昶(おうちょう)・胡遵(こじゅん)・毌丘倹は呉の討伐を上奏した。(『傅嘏伝』)

認められ王昶・胡遵・毌丘倹が三方から呉へ侵攻したが東関の戦いで諸葛恪(しょかつかく)に敗れ撤退した。
「漢晋春秋」に曰く、三人の処罰が検討されたが司馬師は「私が諸葛誕の言うことを聞かなかったからだ」と罪に問わなかった。

東関の戦いで敗れた諸葛誕と職務を交代し鎮東将軍・都督揚州諸軍事となった。
253年、合肥新城の戦いで文欽(ぶんきん)とともに籠城し諸葛恪(しょかつかく)を撤退させた。
「漢晋春秋」に曰く、蜀の姜維も連携して進軍していた。虞松(ぐしょう)は「諸葛恪は決戦に持ち込むつもりだから籠城戦で応じず、姜維には兵糧が少なく、我々は呉に気を取られて兵を回せないと考えているから急襲すれば勝てます」と進言した。司馬師は毌丘倹に籠城戦を命じ、姜維を郭淮に攻撃させ撤退させた。(『斉王紀』・『毌丘倹伝』)

254年、毌丘倹は合肥新城の戦いで呉の捕虜となりながら屈服せず殺された劉整(りゅうせい)・鄭像(ていぞう)を顕彰するよう言上し認められた。(『斉王紀』)

同年、夏侯玄(かこうげん)と李豊(りほう)が反乱未遂により誅殺された。
毌丘倹はその二人と親しく、また文欽は249年に誅殺された曹爽(そうそう)と同じ村の出身で、戦功の水増しを認められないことにも不満を抱いていた。毌丘倹は(仲間に引き入れようと)文欽を厚遇し、結託して司馬氏の討伐を企んだ。
255年正月、天文で揚州・荊州の位置にあたるところへ大彗星が現れ、毌丘倹らはそれを吉兆ととらえた。郭太后(かくたいこう)の詔勅を偽造し、司馬師の罪状を書き連ねた檄文を各地へ送って挙兵すると、淮南の官民を脅して配下にし寿春城に入れ、自ら5~6万の兵を率いて西進し毌丘倹は項城を守り、文欽は城外へ布陣した。

司馬師は自ら討伐軍を率い、諸葛誕に豫州から寿春をうかがう陽動をさせ、胡遵には青州・徐州から退路を断たせた。そして先鋒の王基(おうき)に南頓を占拠させると、全軍に出撃を禁じ防戦を命じた。
毌丘倹らは侵攻を止められ、寿春の守りも心配になり立ち往生した。淮南の将兵の家族は全て(人質として)北方にいたため降伏者が相次ぎ、従うのは脅された農民だけだった。(『毌丘倹伝』)

王粛(おうしゅく)が「呉は関羽との戦いで将兵の家族を奪い軍勢を瓦解させました。淮南の将兵の家族は全て内州(首都圏)にいるから同じことができます」と進言した。(『王朗伝』)

司馬師が出陣する必要はないという者もいたが、王粛と傅嘏(ふか)だけが出陣するよう進言し、傅嘏は従軍して策謀で貢献した。(『傅嘏伝』)

王基は反乱の行く末を聞かれ「淮南の官民が願って挙兵したわけではなく、脅されてやむなく集まっただけです。討伐軍が迫れば必ずや瓦解するでしょう」と答えた。
そして「毌丘倹らの動きが鈍いのは脅された人々が心服していないからです。討伐軍が攻撃をためらえば彼らは罪の意識から魏へ復帰しなくなり、呉がそれに乗じて兵を送れば淮南どころか東方が危機に陥ります。急ぎ要害の南頓を占拠すべきです」と言い、司馬師の命令を無視して占拠した。
毌丘倹も南頓の占拠に向かっていたが、王基に落とされたため撤退した。後に王基が毌丘倹を撃破した。(『王基伝』)

諸葛誕も反乱に誘われたが使者を殺し、その非道さを訴えた。(※しかし諸葛誕もこれにより危機感を覚え2年後に反乱する)(『諸葛誕伝』)

鄧艾も使者を殺し、いちはやく楽嘉城を確保して根拠地を築き、遅れてきた文欽を撃破した。(『鄧艾伝』)

司馬師は鄧艾にわざと隙を見せて敵を誘い出すよう命じ、まんまと策に掛かった文欽は攻撃しようとしたが、夜間に司馬師と合流した鄧艾軍に仰天し、逃げるところを撃破され呉へ亡命した。
毌丘倹は文欽の敗走を知ると恐れて逃亡し、全軍は崩れ去った。配下は次々と見捨てて去って行き、慎県についた頃には弟の毌丘秀(かんきゅうしゅう)と孫の毌丘重(かんきゅうちょう)だけが従っていた。
だが水辺の草に隠れていたところを、民の張属(ちょうぞく)に射殺された。毌丘秀と毌丘重は呉へ亡命し、脅されて配下になった将兵は全て魏に降伏した。
子の毌丘甸(かんきゅうでん)は朝廷に仕官していたが、父の挙兵を察知すると家族を連れ山へ逃げたものの、追撃され毌丘倹の三族は皆殺しにされた。

「世語」に曰く、254年に曹芳が廃位されると毌丘甸は「父上は一方面の長官として重い職務に就いているのに、国家が傾き引っくり返っている時に落ち着き払ってじっとしていては、四海の人々に責められるでしょう」と父を焚き付けた。
毌丘倹が挙兵すると司馬師は屈𩑺(くつぜん)がどこにいるか尋ね、「彼が行かなければ何もできまい」と言った。(※文意からは屈𩑺は毌丘甸の別名とも読める)
毌丘倹は挙兵の際に毌丘宗(かんきゅうそう)ら4人の子を呉へ派遣した。280年に呉が滅亡すると兄弟は帰国を許され、毌丘宗は父の風格あり零陵太守まで上った。(『毌丘倹伝』)

「晋紀」に曰く、毌丘甸の妻の荀氏(じゅんし)も連座させられた。族兄の荀顗(じゅんぎ)ら一族が助命嘆願したため釈放されたが、その娘の毌丘芝(かんきゅうし)も、既に他家へ嫁いでいたが逮捕されていた。
荀氏は何曾(かそう)へ、自分が代わりに奴婢になるから娘を助けて欲しいと願い出て、同情した何曾は程咸(ていかん)に命じて審議書を作らせた。その中で「既に嫁いだ娘も連座させるのは、悪人の一族を殲滅したいからです。しかし男は他家の罪に問われないのに、女だけが嫁いだ後も実家の罪に問われるのは公平ではありません」と述べ、夫の家の罪にだけ連座するよう法改正させ毌丘芝を助けた。(『何夔伝』・『晋書 何曾伝』)

反乱の以前、占術師の管輅(かんろ)は毌丘倹の一族の墓の前を通り掛かると、2年以内に滅亡すると予言し的中させた。

習鑿歯は「毌丘倹は曹叡の遺命(※内容は不明)に感動し挙兵した忠臣である。失敗したが節義を尽くして正義に馳せ参じたのは自らの意志であり、時の運に恵まれなかっただけだ。忠義について「もし死者が生き返っても死者に対して恥ずかしい思いをしない」という言葉がある。毌丘倹は死者(曹叡)に恥じない人物だろう」と評した。(『毌丘倹伝』)

陳寿は「ずば抜けた才腕と識見を有した」と称えつつも王淩(おうりょう)・諸葛誕・鍾会ら各方面の司令官を務めながら反乱した人々とともに列伝し「名声を得て栄誉ある地位を勝ち取ったが、みな大きな野心を抱き、災禍を考えなかった。判断力が狂っていたのではなかろうか」と評した。

「演義」では反乱前の功績がほとんど描かれない。またなぜか宗白(そうはく)という者に殺されたと置き換えられている。