管輅 三国一の占術師

管輅(かんろ)字は公明(こうめい)
冀州平原郡の人(209~256)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
占術師。
いかつく醜い容貌で風采が上がらず、素性の怪しい者とも構わず酒を楽しんだため、人々に愛されたが尊重はされなかった。
優れた占術師で多数の逸話が残されており、以下に列記する。
父が利漕を治めていた時、住民の郭恩(かくおん)が三兄弟揃って足の病にかかった。管輅は「飢饉の時におばを井戸に突き落とし、石で頭を割り米を奪った祟りだ」と占い、郭恩は泣いて悪事を認めた。
劉奉林(りゅうほうりん)の妻が正月に重病となり葬儀の用意がされたが、管輅は「八月辛卯の日中が寿命です」と占った。そんなに先まで保たないと劉奉林は思ったが、妻は快方に向かい、しかし管輅の予言した時刻に没した。
安平太守の頃の王基(おうき)に3つの怪異が起こったことを言い当て、しかし魑魅魍魎のいたずらに過ぎないと言い、障りは無かった。
信都県令の家で怪異が起こり、「屋敷の北西に矛と弓を持った2つの遺体がある」と占い、掘り出して移動させると治まった。
王経(おうけい)が官を辞して帰郷した時、管輅が訪ねてきた。怪事があったので占って欲しいと頼み、管輅は「夜に小鳥のような光が現れてあなたの懐に入り、ゴロゴロと鳴りましたね。あなたは上着を脱いでご夫人方を呼び、光を探させたでしょう」と的中させ、吉兆であり昇進すると見立てた。王経はほどなく江夏太守になった。
また郭恩の家を訪ねた時、鳩が飛んできてひどく悲しげに鳴いた。「老人が東から豚と酒を手にやってくるがちょっとした事故が起こる」と占った。はたして客人が現れ、郭恩は火事に気をつけるよう注意したが、鶏をしめようとして矢を放つと、外れて少女の手に当たってしまった。
劉長仁(りゅうちょうじん)を訪ねた時、カササギが差し迫った調子で鳴いた。「北東で女が夫を殺し、西隣の家の男に濡れ衣を着せたと鳴いています。日が沈むまでに報告があるでしょう」と占い的中させた。
王弘直(おうこうちょく)を訪ねた時、つむじ風が庭をうろついた。「東から役人が来て、父が子供のために泣きますがどうしようもありません」と占った。王弘直の息子が没したという報告が来た。
別の日には雉が家に入り、呼び鈴のある柱に止まった。「2ヶ月後に昇進します」と占い、王弘直は渤海太守に上った。
諸葛原(しょかつげん)は管輅を招き、燕の卵と蜂の巣と蜘蛛を器の中に隠し、何が入っているか占わせた。全て的中し皆驚きつつ喜んだ。
族兄の管孝国(かんこうこく)を訪ねた時、2人の客が来ていた。2人が帰ると「凶兆が出ており一緒に間もなく死ぬでしょう」と見立てた。数十日後、牛車が河に落ち溺死した。
当時、住処の周囲は治安が良く、人々は戸締まりをせず泥棒もいなかった。(※管輅の徳が高かったという意味)
清河太守の華表(かひょう)に文学掾に招かれ、さらに趙孔曜(ちょうこうよう)に冀州刺史の裴徽(はいき)に推挙され、文学従事となった。引見した裴徽は管輅を高く評価し、友として待遇した。刺史の役所が移動になったため鉅鹿郡へ移住し、治中別駕に昇進した。
裴徽に会う前に弟の管季儒(かんきじゅ)へ「古城を通る時に3匹の野良猫に会えば出世する」と言っていた。古城の隅に3匹の野良猫を見つけ、兄弟は喜んだ。
248年、秀才に推薦された。
同年12月28日、何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)に招かれ、夢占いをし、謙虚に努めるよう言った。鄧颺は「年寄りの言い草と同じだ」と文句を付け、管輅は「年寄りは生を超えた物を見られ、言い草の中には言葉を超えた深い意味が表れます」と答えた。何晏は「年が明けたらまた会おう」と言いお開きになった。
管輅が帰ってこのことを話すと、おじは言葉があけすけに過ぎると怒ったが、管輅は「死人と話しているのに何を恐れることがありましょうか」と言った。
10日余り経ち、年明けに何晏ら曹爽(そうそう)一派は粛清された。激怒していたおじは管輅に敬服した。
鍾毓(しょういく)と「易」について語り合った。管輅は「あなたの生没年を当てることもできる」と言い、占わせると誕生日を言い当てられた。鍾毓は「あなたは恐るべき人だが、死は天によって定められるもので、あなたが定めるものではない」と言い、没年は占わせず、代わりに天下は太平になるか尋ね、管輅は司馬氏の台頭を暗示することを言った。
鍾毓にはよくわからなかったが、曹爽一派の粛清で意味を悟った。
劉邠(りゅうひん)は印章を入れる袋と山鶏の羽毛を器に隠し、管輅に当てさせた。官舎で怪異が起きていることを相談すると「漢末の戦乱で流れた血が丘陵を汚し、奇怪なものが現れるのでしょう。あなたには高い徳と天の加護がありますから、それを活用してください」と助言した。
徐季龍(じょきりゅう)は配下を狩猟に出した後、どんな獲物が取れるか占わせた。山猫だと的中させた。さらに徐季龍は大きな箱に13種類の物を入れ、中身を占わせた。管輅はまず「13種類あります」と数を当て「鶏の卵、蚕の蛹」と次々と言い当てた。櫛を梳き櫛と間違えただけだった。
従軍し西へ行った時、毌丘倹(かんきゅうけん)の一族の墓の前を通り掛かると、木にもたれ悲しげに歌を吟じ、滅入った様子になり「2年以内に一族は滅亡する」と予言し的中させた。
倪太守(げいたいしゅ)を訪ねた時、日照りが続いておりいつ雨が降るか聞かれ「今夜です」と答えた。その日は陽射しが強く雨の降る気配は全く無く、居合わせた役人達も的中しないだろうと思った。しかし夜を告げる太鼓が鳴ると途端に激しい雨が降り出し、倪太守は管輅を手厚くもてなした。
255年、弟の管辰(かんしん)が「司馬昭様が目を掛けてくださるから富貴な身分になるでしょう」と言うと、管輅は長いため息をつき「私にはその資質があると知っている。だが天は才能と聡明さは与えてくれたが寿命はくれなかった。47~8歳で娘が嫁に行き、息子が嫁を取るのを見ずに死ぬだろう。もしそれを超えられれば洛陽県令となり、落とし物を着服したり、盗賊が現れたという太鼓が鳴らないような政治をしたいものだが、おそらく太山(冥界)で死者を治めることになり、生者は治められないだろう。仕方のないことだ」と言った。
管辰がなぜそんなことを言うのかと尋ねると、自身の人相に現れた寿命のしるしを次々と告げ「私はこれまで人相を占い、もうすぐ死ぬと見立てた者が百人を超えるが、ほとんど外れなかった」と言った。
8月に少府の丞となり、翌256年2月に没した。享年48。(『管輅伝』)
陳寿は医師の華佗(かだ)、音楽家の杜夔(とき)らとともに「方技伝」に入れ「まことに奥深く隔絶した巧みであり、非凡な優れた技術であった」と評した。
裴松之は管輅の大ファンなのか家伝の「管輅別伝」をほとんど網羅する勢いで紹介しており、「管輅伝」は「ちくま版」で55ページもあり、劉備の「先主伝(※47ページ)」より長い。
「演義」でも多くの逸話が紹介され、曹操に会い夏侯淵の戦死、魯粛の死、劉備の侵攻、吉本(きつほん)らの反乱を的中させた。ただし登場が早すぎて史実の生年だと当時10歳で、何晏の死を言い当てた逸話も採られ「演義」ではだいぶ長生きである。
また「正史」に載っていない趙顔(ちょうがん)の逸話も採られるがこれは「捜神記」に書かれているようだ。
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