闞沢  記憶力と徳行で世に出る



闞沢(かんたく)字は徳潤(とくじゅん)
揚州会稽郡山陰県の人(??~243)

呉の臣。

家は先祖代々からの農民で、学問を好んだが貧乏だったため、筆写の仕事で学費を稼ぎつつ、一冊を写し終えると暗誦できるほどの記憶力を身に着けた。
師を求めて各地で議論や意見発表を行い、多くの書籍を読み、暦の計算にも通じて名を知られるようになった。
孝廉に推挙され銭唐県長となり、郴県令に昇進した。(『闞沢伝』)

「会稽典録」に曰く。
赤ん坊の頃の丁固(ていこ)を見た闞沢は「この子は将来、必ずや位人臣を極めるだろう」と言った。丁固(※198年生まれ)は司徒にまで上った。(『虞翻伝』)

占術の名手の趙達(ちょうたつ)は秘訣を誰にも明かさず、闞沢・殷礼(いんれい)ら名だたる学者に聞かれても決して教えなかった。(『趙達伝』)

219年、孫権が後漢の驃騎将軍に任じられると西曹掾に招かれた。

「呉録」に曰く。
曹丕が帝位につくと孫権は「曹丕は年若く、長寿の点で私は太刀打ちできないかもしれない」と心配した。群臣が何も言えずにいると闞沢は「丕は分解すると不十、つまり十になりません。十年以内に亡くなります」と見立て、その通りになった。
(※裴松之は「孫権は曹丕より5歳上なだけなのにそんな心配をするだろうか」と指摘する)

229年、孫権が帝位につくと尚書に任じられた。(『闞沢伝』)

蜀の使者の張奉(ちょうほう)が尚書の闞沢の姓名を意地悪く解釈しからかったが、闞沢は言い返せなかった。すると薛綜(せつそう)が酒を酌してやりながら蜀の字を悪く解釈してやり返した。張奉が呉でやってくれと迫ると即座に良いように解釈し、張奉は返す言葉もなかった。(『薛綜伝』)

嘉禾年間(232~238)に中書令となり、侍中を加官された。(『闞沢伝』)

241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「闞沢らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)

242年、太子太傅となり中書令の職務も担った。
孫和(そんか)に書物や稽古を教え、闞沢が太傅、薛綜が少傅を務めた。(『闞沢伝』・『孫和伝』)

経書やその解釈は煩雑すぎ実用に向かないため、簡略化して孫和・孫覇(そんは)に教え、外出時や賓客と会う際の作法を制定した。他に「乾象暦注」を著し暦と季節を一致させた。
朝廷において重大事が議論されたり、経書について疑問が生じるといつも闞沢の意見が求められた。
儒学に励み功績があり都郷侯に封じられた。

謙虚かつ実直な性格で、身分の低い役人にも対等の礼をとった。他人の欠点を直接あげつらうことはなく、学問のありそうな容貌ではなかったがその見聞の広さは限界が無いようだった。
孫権に「経書やその注、あるいは散文や韻文で最も素晴らしいものは何か?」と尋ねられると、国家の治乱の原理を知って欲しいと考え、あえて「過秦論」と答えて読ませた。
呂壱(りょいつ)の悪事が発覚した時、火あぶりや車裂きの刑に処すべきだと意見が出されたが「盛んで輝かしい御代にそんな刑が行われてはいけません」と反対し、孫権も同意した。
官庁で不正が横行し、禁令や監視が議論されると常に「礼と律によるべきだ」と述べた。和をたっとびながらも常に正道を歩んだ。

243年に没した。孫権は数日も食事が摂れないほど悲しんだ。

「呉録」に曰く。
虞翻(ぐほん)は「闞沢は衆に抜きん出て優れ、前漢の揚雄と同じだ」や「儒学にも徳行にも優れ、現代の董仲舒だ」と評した。(『闞沢伝』)

「会稽典録」に曰く。
虞翻は会稽郡の人物について語り「太子少傅の闞沢は深く豊かで純粋な徳を持ち、学問は広く行いは立派で、帝王の学問係となった」と述べた。(『虞翻伝』)

陳寿は「厳畯(げんしゅん)・程秉(ていへい)・闞沢は一代に名を上げた学者である」と評した。

「演義」では赤壁の戦いで黄蓋の苦肉の計を後押ししたり、夷陵の戦いで陸遜を推薦したりと史実に無い活躍ばかりする。