韓当 長江を股にかける男

韓当(かんとう)字は義公(ぎこう)
幽州遼西郡令支県の人(??~226)
呉の臣。
弓術・馬術に優れ体力もあったため孫堅に目を掛けられ、各地を転戦した。危険を冒して武功を上げ別部司馬に任じられた。
「呉書」に曰く。
韓当は目覚ましい活躍を見せたが下働きの身分で、英傑の配下に過ぎなかったため孫堅の代では別部司馬までしか上れなかった。
孫策の代でも三郡の攻略に貢献し、先登校尉に昇進し兵2千・馬50頭を任された。(『韓当伝』)
195年、揚州刺史の劉繇(りゅうよう)のもとにいた太史慈は偵察に出て孫策に遭遇した。太史慈の配下は1騎しかなく、孫策のもとには13騎ありしかも韓当・宋謙(そうけん)・黄蓋ら勇猛の士ばかりだったが、迷わず戦いを挑んだ。孫策は太史慈の馬を突き刺して手戟を奪い、太史慈も兜を奪う乱戦となり、双方の味方が駆けつけ引き分けとなった。(『太史慈伝』)
劉勲(りゅうくん)や黄祖(こうそ)の討伐でも活躍し、鄱陽の反乱鎮圧にあたって楽安県長を務めると、彼を恐れ山越は従順にした。(『韓当伝』)
「江表伝」に曰く。
孫策は自身を誹謗する許貢(きょこう)を殺した。狩りに出た時、彼を狙う許貢の食客3人に出くわした。素性を問うと韓当の配下だと答えたが、孫策は「韓当の配下は全員知っている。お前達など見たこともない」と言いざまに一人を射殺した。他の二人があわてて応射し、一矢が孫策の頬に当たったが、従者が駆けつけ二人を殺した。
(※裴松之は「新参の兵もいるだろうに総指揮官の孫策が全員知っているわけがない。ましてや見知らぬだけで射殺したとは論外だ」と指摘する)(『孫策伝』)
203年、孫権は韓当・周泰・呂蒙らに政情不安定な県を統治させた。(『呉主伝』)
208年、赤壁の戦いと続く南郡の戦いにも貢献し中郎将かに偏将軍・永昌太守に上った。(『韓当伝』)
「呉書」に曰く。
赤壁の戦いで黄蓋は流れ矢に当たって河に落ち、味方に救われたが黄蓋だと気づかれず便所に放置された。力を振り絞って韓当を呼び、声に気づいた韓当は泣きながら衣服を取り替えてやり、命拾いさせた。(『黄蓋伝』)
209年、張遼が揚州を荒らす陳蘭(ちんらん)の討伐に乗り出すと、孫権は韓当を援軍に出した。
臧覇(ぞうは)は別働隊を率い、韓当を続けて撃破し、撤退させた。(『臧覇伝』)
222年、夷陵の戦いでは陸遜・朱然(しゅぜん)とともに蜀軍を大破し、威烈将軍となり都亭侯に封じられた。
次いで曹真(そうしん)が南郡を攻めると城の東南を守り切った。
軍の指揮にあたると将兵を励まして心を一つにし、目付役の意見にはよく従い法令を遵守したため孫権を満足させた。
223年、石城侯に進み、昭武将軍・冠軍太守・都督となった。
敢死・解煩軍(いずれも特殊部隊)1万を率い丹陽郡の反乱を鎮圧した。
226年に病没し、子の韓琮(かんそう)が爵位と兵を継いだ。
同年、石陽の戦いに韓琮は父の喪に服すため従軍しなかった。韓琮はかねてから淫乱かつ無法で、孫権は父に免じて咎めなかったものの、韓当が没したため処罰を恐れていた。
227年、父の棺を車に乗せ、母や一族・兵ら男女数千人を率いて魏へ亡命した。(『韓当伝』・『呉主伝』)
「呉書」に曰く。
韓琮は兵が従わないことを恐れ、わざと兵に強盗を奨励した。そして処罰されると偽って亡命を促し、父の葬儀を名目に集めた姉妹や一族のおば、自分の妾を腹心の妻に与え、結束を強めた。
韓琮はその後、国境を侵して孫権を歯噛みさせたが、252年、東興の戦いで敗死し、首を孫権の墓に供えられた。(『韓当伝』)
陸機(りくき)は「弁亡論」で「韓当・潘璋(はんしょう)・黄蓋・蔣欽(しょうきん)・周泰らが国力を四方へ伸ばした」と記した。(『孫晧伝』)
陳寿は韓当を程普(ていふ)・黄蓋・蔣欽・周泰・甘寧・凌統・潘璋・丁奉らと同伝に収め「みな江南の勇猛な臣であり、孫氏が手厚く遇した」と評した。
「演義」では程普・黄蓋・祖茂(そぼう)に並ぶ孫堅の四天王格に昇進。孫家三代に仕え、史実では戦死しない焦触(しょうしょく)を討ち取ったり、一騎打ちで曹洪(そうこう)を破ったりと長きに渡り活躍する。
また子の韓琮ははじめから魏の将として登場し、韓当の子だとは記されない。
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