関羽 美髯公

関羽(かんう)字は雲長(うんちょう)
司隷河東郡解良県の人(??~219)
劉備の臣。
元の字は長生(ちょうせい)。
幽州涿郡へ出奔し、同地出身の劉備が挙兵すると張飛とともに近侍した。張飛は数歳上の関羽に兄事した。
劉備が平原国相となると、張飛とともに別部司馬になりそれぞれ部隊を指揮した。劉備・関羽・張飛は同じ寝台で休み兄弟のように恩愛を掛けられたが、公の席では一日中そばに立って護衛し、劉備のために苦難をいとわなかった。(『関羽伝』・『張飛伝』)
「江表伝」に曰く、「春秋左氏伝」を愛好しほとんど暗誦できた。(『関羽伝』)
張飛の勇猛ぶりは関羽に次ぎ、程昱(ていいく)らは関羽・張飛は一人で一万人と戦えると称賛した。
関羽は兵卒に優しかったが士大夫には傲慢で、張飛は身分の高い人を敬愛したが身分の低い者に哀れみを掛けなかった。(『張飛伝』)
「傅子」に曰く。
劉備が曹操を頼った時、郭嘉は「劉備は人並み外れた才能を持っている上に人心をつかんでいます。関羽・張飛は一人で一万人と戦える英雄で、劉備のために決死の働きをします。災いになる前に殺しましょう」と進言したが却下された。
(※裴松之は「正史で郭嘉は劉備を殺せば人心を失うと全く逆のことを言っている」と指摘する)(『郭嘉伝』)
「蜀記」に曰く。
劉備・曹操が呂布の籠城する下邳を包囲すると、関羽は「呂布は配下の秦宜禄(しんぎろく)を使者に出しました。(戻らないから)その妻をめとりたい」と願い出た。曹操は許可したが、何度も言われたためさぞかし美人だろうと思い、自分の妻にしてしまった。(『関羽伝』)
「献帝伝」に曰く。
張飛は曹操に降った秦宜禄を「妻を奪った相手になぜ仕えるのか」と焚き付けて調略したが、心変わりしたため殺した。(『明帝紀』)
199年、劉備は徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺すと関羽に下邳を任せ、太守を代行させて自身は小沛へ帰った。
「王沈魏書」に曰く、関羽に徐州を治めさせた。(『関羽伝』)
董昭(とうしょう)は劉備を袁術討伐に出したと聞くと「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち、関羽・張飛は羽翼となってそれを助けています。劉備が何を企んでいるかわかりません」と危惧した。(『董昭伝』)
「呉歴」に曰く。
劉備は曹操に警戒されるのを恐れていたが、野菜を育てているところを曹操の密偵に見られると関羽・張飛に「私が野菜なぞ育てる男なものかと疑惑に思われる前に逃げるぞ」と出奔した。
(※裴松之は「曹操は劉備に袁術を討伐させるため外に出し、郭嘉らに諌められた。なんというでたらめか」と指摘する)
200年、劉備は曹操に撃破され袁紹のもとへ逃走した。関羽は捕虜となったが、曹操は偏将軍に任じ手厚く礼遇した。
しかし心服はさせられないと感じ、張遼に確かめさせると関羽は「曹公の厚遇はありがたいが、私は劉備に厚い恩誼を受け、ともに死のうと誓った仲で絶対に裏切りません。しかし手柄を立て曹公に恩返ししてから去ります」と答えた。
「傅子」に曰く。
張遼はそれを告げれば曹操は関羽を殺してしまうのではと危惧した。だが「曹公は主君であり父だが関羽は兄弟に過ぎない」と思い直して報告した。曹操は「主君に仕え根本を忘れないのは天下の義士である」と怒らなかった。
官渡の戦いでは張遼とともに先鋒を務め、白馬城を包囲する敵将の顔良(がんりょう)の旗印を見つけると馳せつけてたちまち討ち取った。袁紹軍に対抗できる者はなく、城の包囲は解かれた。
曹操は関羽が必ず去ってしまうと考え、漢寿亭侯に封じ、重い恩賞を与え引き止めた。しかし関羽は恩賞に封をして手紙を残し、劉備のもとへ帰った。追撃しようとした側近を曹操は「彼なりに主君のためにしているのだ」と止めた。
裴松之は「関羽が留まらないことを知り、内心ではその志を称え、追撃もさせず道義を成就させた。王者・覇者の度量であり曹操の偉大さである」と評した。
劉備は荊州牧の劉表(りゅうひょう)へ身を寄せた。(『関羽伝』)
劉備が諸葛亮と親密になると関羽・張飛は不機嫌になったが「私に孔明が必要なのは魚に水が必要なようなものだ。二度と文句を言うな」とたしなめられ、二人は納得した。(※水魚の交わり)(『諸葛亮伝』)
208年、劉表が没し曹操は荊州へ攻め寄せた。劉備は長江を渡って逃げる計画を立て、関羽に船で先行させ江陵で落ち合うよう命じた。長坂坡で曹操軍に追いつかれたが、脇道を通って逃げ、関羽と合流し夏口に着いた。
孫権と同盟し赤壁の戦いで曹操を破り、江南の諸郡を手に入れると、関羽を襄陽太守・盪寇将軍に任じ、長江の北に駐屯させた。(『関羽伝』)
劉備が孫権を頼った時、群臣は孫権は劉備を殺すだろうと予測したが、程昱は「孫権は策謀に優れ一人で抵抗しない。劉備は英名があり関羽・張飛は一人で一万人と戦える。協力して我々に抵抗するだろう。そして危難が去れば分裂し、劉備はそれを利用して力を蓄え、もう殺せなくなる」と言い、その通りになった。(『程昱伝』)
「蜀記」に曰く。
かつて劉備が曹操と狩猟に出た時、関羽はそれに乗じて曹操を殺すよう進言したが却下された。夏口を流れている時、関羽はそれを思い出し「あの時に殺しておけばこんな目に遭わなかった」と怒った。劉備は「あの時は国家のために曹操を惜しんだのだ。それにもし天道が正義を助けるなら、この苦労も幸いになるかもしれない」とうそぶいた。
(※裴松之は「劉備は狩猟の後に董承(とうしょう)の曹操暗殺計画に加担しており、国家のために惜しんだはずがない。狩猟には曹操の部下も随行しており、もし殺せても逃げられないからやらなかっただけで、綺麗事を言っているだけだ」と指摘する)(『関羽伝』)
「江表伝」に曰く。
諸葛亮が同盟のため孫権を訪ねた時、劉備は孫権が勝てるのか不安に思っていた。周瑜に招かれると関羽・張飛へ「同盟のため行かねばなるまい」と言い、単身で会った。周瑜は不安を解いてやったが、劉備は油断せず兵を留め形勢をうかがった。
(※孫盛は「劉備は窮地に陥り呉を頼ったのに形勢をうかがうわけがない。呉を賛美するために書かれたものだ」と指摘する)(『先主伝』)
「袁子」に曰く。
孫権は諸葛亮を引き止めたが「孫権の度量では私の才能を認められても発揮させられはしない」と言い劉備のもとへ帰った。
(※裴松之は「諸葛亮と劉備の結びつきはその程度のものだろうか。関羽は曹操の捕虜となった時に手厚く遇され才能を発揮させてもらったが、それでも信義を守り劉備に背かなかった。諸葛亮が関羽に劣るとでも言うのか」とブチギレている。(『諸葛亮伝』)
赤壁の戦い後、襄陽を守る楽進は関羽・蘇非(そひ ※蘇飛と同一人物か)を撃破し、南郡の蛮族を降伏させ、劉備配下の杜普(とふ)・梁大(りょうだい)も撃破した。(『楽進伝』)
徐晃・満寵(まんちょう)は漢津で関羽と戦った。(『徐晃伝』)
劉備・周瑜は江陵を守る曹仁を包囲し、関羽に北道を断ち切らせた。李通(りつう)はそれを攻め、包囲陣を破り曹仁を救出した。(『李通伝』)
文聘(ぶんぺい)・楽進は尋口で関羽と戦い、その功績により文聘は列侯された。(『文聘伝』)
周瑜は「劉備は梟雄であり、勇猛無比な関羽・張飛が配下にいるからいつまでも他人の下にいません。劉備のために宮殿を建てて手厚くもてなして骨抜きにし、関羽・張飛は別々の地へ赴任させ私が指揮すれば、天下統一も可能です。劉備・関羽・張飛を一緒にしておけば、龍が天に昇るようにいつまでも池の中に留まっていません」と進言した。
だが孫権は曹操に対抗するため多くの英雄が必要であり、劉備を引き止めるのも無理だろうと考え却下した。(『周瑜伝』)
「献帝春秋」に曰く。
孫権が劉備と協力して益州を制圧しようとすると、劉備は単独で益州を攻めるつもりだったため「曹操に対抗するため力を合わせなければならないのになぜ同盟国(益州)を攻めるのか」と反対した。孫権は聞き入れず孫瑜(そんゆ)の軍を派遣したが、劉備は関羽を江陵に駐屯させるなど抵抗したため諦めた。
212年、曹操が孫権を攻めると、孫権は益州に入っていた劉備へ救援要請した。
劉備は「呉はもちろん、楽進が関羽と対峙し、救援しなければ関羽も大敗するでしょう」と言い劉璋(りゅうしょう)へ1万の兵を借りようとしたが、4千しか与えられなかった。
劉備は主だった将のほとんどを益州制圧に駆り出し、関羽だけが荊州の守りに残った。
「傅子」に曰く。
劉備が益州を攻めると趙戩(ちょうせん)は「劉備は戦下手で、益州は堅固な土地だからすぐには陥落しない」と言った。
傅幹(ふかん)は「劉備は寛大で度量があり人の死力を振り絞らせる。諸葛亮は正道に寄りながら権謀がある。張飛・関羽は万人と戦える。劉備の智略を三人の英雄が補佐すれば必ず成功する」と見立てた。(『先主伝』)
周瑜が没し魯粛(ろしゅく)が後任として関羽と国境を接することになった。その途上、呂蒙の軍営を通りかかり挨拶した。関羽にどう対処するか聞かれると、魯粛は呂蒙を侮っていたため「その時々に応じて適宜対処する」と深く考えずに答えた。呂蒙は「孫権と劉備は今は一家をなしているが、関羽は熊や虎の如き勇将で、いざという時のため前もって計略を立てておかねばいけません」と言い、たちまち5つの策略を教えた。魯粛は驚き「あなたの才略がこれほどとは思わなかった」と称え交友するようになった。(※呉下の阿蒙にあらず)
「江表伝」に曰く。
呂蒙は関羽を「成人してから学問を好み、春秋左氏伝をほとんど暗誦する。あけっぴろげな性格で大事をなす気概があるが、自負心が強くしばしば人を人とも思わない態度を取る」と評した。(『呂蒙伝』)
後年、孫権は魯粛について「彼は関羽と戦おうとはせず、私には「帝王たるべき者が立つ時には、その先駆けとして群雄を追い払う者がいると聞きます。関羽がその先駆けだから戦う必要はありません」と言っていた。これは魯粛が自分では関羽に勝てないから空威張りしていただけだ。だが彼の指揮下では脱走する者や軍規を破る者はなく、落とし物を着服する者すらおらず、素晴らしかった」と振り返った。(『魯粛伝』)
214年、劉備は益州を制圧し、馬超が傘下に降った。荊州の軍事総督となった関羽は諸葛亮に手紙を送り馬超は誰に匹敵するか尋ねた。諸葛亮は関羽の負けず嫌いな性格を熟知していたため「一代の傑物で張飛と先を争うが、髯殿(関羽)の比類なき傑出ぶりには及ばない」と答えた。関羽は大喜びし、手紙を来客に見せびらかした。(『関羽伝』)
「山陽公載記」に曰く。
馬超は厚遇されるのをいいことに劉備を字で呼んでいた。関羽は腹を立て殺そうとしたが劉備は「追い詰められて私を頼ってきた者を字で呼んだだけで殺したら誰からも理解されない」とたしなめた。張飛は「それなら礼儀を教えてやる」と言い、翌日の会議では劉備のそばに関羽・張飛が近侍した。馬超はその様子から自分の無礼さを悟り心を改めた。
(※裴松之は「そもそも関羽は益州に立ち入ったことがなく、だから手紙で諸葛亮に馬超の評価を尋ねたのだ。それにどうして二人が近侍しているのを見ただけで無礼を悟れるのか。論理的ではない文章は腹立たしい。「献帝春秋」と「山陽公載記」の猥雑で虚偽誤謬に満ちた記事はいちいち指摘できないほど無数にある」とブチギレている)(『馬超伝』)
益州牧となった劉備を関羽・張飛・馬超が爪牙にあたる武臣として支えた。(『先主伝』)
諸葛亮・法正(ほうせい)・張飛・関羽に格別の恩賞が下された。(『張飛伝』)
魏の荊州刺史の傅羣(ふぐん)配下の楊儀(ようぎ)は関羽へ寝返った。功曹に任じられ、益州の劉備のもとへ使者として派遣されると大いに気に入られ、召し抱えられた。(『楊儀伝』)
215年、孫権は益州を制圧したのだから荊州を返還するよう要求したが、劉備は「涼州を制圧したら返す」とそれを拒否した。
孫権は返すつもりはないと思い南の三郡へ長官を送ったが全て関羽に追い払われた。立腹した孫権は呂蒙に命じて三郡を制圧させ、魯粛に1万の兵で関羽を牽制させ、自ら前線で指揮を取った。
劉備自ら5万の兵を率い南下し、関羽には3万の兵で益陽に入らせた。孫権は呂蒙・魯粛と合流し関羽と対峙したが、曹操が漢中へ侵攻したため、劉備は孫権と荊州を東西に分割して統治する案を出して和睦した。(『先主伝』・『呉主伝』)
呂蒙(りょもう)は零陵郡を守る郝普(かくふ)を降伏させるため「関羽は孫規(そんき)に敗れた」と偽った。(『郝普伝』)
魯粛は関羽との衝突を避けるため友好的に処置していた。
和睦にあたり関羽と一対一での会見を申し入れ、配下は百歩離れた位置で待ち、関羽・魯粛は一本の刀だけを身に着けた。(※単刀赴会)
魯粛が「孫権が慈愛をもって荊州を貸したのは、劉備が領地を持たなかったからです。それなのに益州を制圧しても返還せず、三郡だけで良いと言っても聞き入れなかった」と言うと、関羽の配下が「土地は徳のある者に帰するのだ」と野次を飛ばした。
魯粛は(普段の態度に似ず)声を荒げてその配下を怒鳴りつけた。関羽も刀を持って立ち上がり「これは国家についての議論で、この者の関知することではない」と言い、配下を退出させた。
「呉書」に曰く。
会見にあたり魯粛の配下は罠を恐れたが「劉備が我々を欺いたこともまだ問いただしていないのに、関羽が重ねて欺くことはないだろう」と魯粛は言った。
関羽は「赤壁の戦いでは劉備は自ら兵卒とともに戦ったのに少しも土地を与えられなかった。そのうえ今度は奪うと言うのか」と反論したが、魯粛は「そもそも好意から貸し与えられた荊州を返さず信義にもとるのは劉備殿のほうだ。一般人でも気が咎めるのに立派な主君のやることか。あなたも道理を明らかにし正義に依ることなく、兵を頼みに力で事を決しようとしている」と言い、関羽は返す言葉もなかった。(『魯粛伝』)
関羽は3万の兵を率いていると号し、5千の精鋭で浅瀬を渡ろうとした。甘寧は300の兵を持っていたが魯粛へ「あと500人加えてくれれば、関羽は私の咳払いを聞いただけで躊躇する。もし川を渡ったら捕虜にする」と豪語した。魯粛は1千の兵を与え、甘寧が出撃したと聞くと関羽は渡河を取りやめた。後世、当地は「関羽瀬」と呼ばれる。(『甘寧伝』)
曹操が漢中を制圧すると、劉曄(りゅうよう)は「劉備は英傑ですが益州は制圧されたばかりで安定していません。政治に明るい諸葛亮が丞相を、関羽・張飛が三軍に冠たる武勇で将軍を務め安定させる前に攻略すべきです」と進言したが却下された。(『劉曄伝』)
以前、左肘を矢に貫通されたことがあり、天候が悪くなると痛んだ。医師が「矢に塗られた毒が骨に沁みており、骨を削らなければ治りません」と診立てると、宴会中だったがすぐさま手術させた。血が大皿いっぱいに流れても関羽は平然と飲み食いしていた。(『関羽伝』)
219年、劉備を漢中王に推挙する上表に盪寇将軍・益寿亭侯として連名した。(『先主伝』)
漢中王に即位した劉備は定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取った黄忠を後将軍に起用しようとした。
諸葛亮は「黄忠の名声人望はもともと関羽・馬超に及ばないのに急に同列にしたら、戦功を間近で見た馬超・張飛はまだしも関羽は納得しないでしょう」と諌めたが、劉備は自ら関羽に説明すると言いそれを退けた。(『黄忠伝』)
関羽も前将軍に任じられたが黄忠が後将軍だと聞くと「大の男が老兵と同列になるものか」と怒った。
使者の費詩(ひし)は「王業は一人では樹立できません。一時の功績で黄忠が高位になったとしても、王(劉備)の心中であなたが黄忠と同等のはずがありません。そもそもあなたと王は一心同体で喜びも悲しみも、災いも幸いもともにされる間柄です。官位や爵位の多少を気にすることはないでしょう。私は一介の使者ですから辞退されるならこのまま帰りますが、残念に思います。おそらく後悔されるでしょう」と諌めた。関羽は大いに反省し、任命を受けた。(『費詩伝』)
劉備は即位すると、関羽を前将軍に任じ節鉞を授けた。
関羽は曹仁の守る樊城を包囲し、救援に来た于禁(うきん)も河の氾濫により降伏し、龐悳を討ち取った。
梁郟(りょうこう)・陸渾(りくこん)ら盗賊に印綬を与えて蜂起させ、中原に動揺が広がった。(『関羽伝』)
龐悳は兄が蜀に仕えていたため忠誠を疑われていた。龐悳は「私は国恩に報い死を捧げる。私が関羽を殺さなければ関羽が私を殺すに違いない」と言い激しく戦った。関羽の額に矢を命中させ、関羽軍は白馬に乗る彼を「白馬将軍」と恐れた。
河の氾濫により孤立しついに捕らえられても跪かず立ったままで、関羽が「卿の兄は蜀に仕えている。私は卿を将にするつもりなのになぜさっさと降伏しなかった」と責めると「わっぱめ何が降伏だ。魏王(曹操)の威光は天下に轟き、凡才の劉備は敵対すらできない。私は国家の鬼となっても賊の将になどならぬ」と言い返し、殺された。(『龐悳伝』)
「三輔決録注」に曰く。
金禕(きんい)らは関羽が意気盛んであり、曹操が鄴に滞在していたのに乗じ許昌で反乱した。(『武帝紀』)
219年、孫権が合肥を攻めると、温恢(おんかい)は「合肥よりも荊州が心配だ。川の水かさが増えているのに曹仁は孤立し、危機に気づいていない。勇猛な関羽に攻められれば一大事だ」と話した。果たして曹仁は関羽に樊城を包囲され窮地に陥った。(『温恢伝』)
曹操は遷都すら考えたが、司馬懿・蔣済(しょうせい)は孫権に江南の領有を認めさせ、関羽の背後をつかせるよう献策した。
それより先、孫権は息子と関羽の娘の婚姻を持ち掛けたが、使者は怒鳴りつけられて侮辱されており、腹を立てていた。
また関羽麾下の糜芳(びほう)・傅士仁(ふしじん)は関羽に軽んじられていたため嫌っており、樊城の戦いでも物資を送るだけで救援せず、関羽は「帰還したら奴らを始末する」と言い、二人は恐れおののいていた。
孫権は糜芳・傅士仁を内通させ、さらに曹操は徐晃を援軍に送った。(『関羽伝』)
「呉録」に曰く。
糜芳は失火で軍需物資をいささか失ったことで関羽に叱責され、処罰に怯えていた。
魯粛が没し後任となった呂蒙は、関羽は荊州の呉の領地も併呑する気で、関係はいつか破綻すると考えていた。そして計略を立てると「関羽も配下も謀略と武力を頼みに各地で背信行為を働いています。彼らが侵攻をためらっているのは陛下(孫権)や我々が健在だからです。力のある今のうちに討伐すべきです」と訴え、孫権も賛同した。
呂蒙ははじめ、魯粛よりさらに友好的な態度で関羽を油断させた。関羽が樊城の攻略に向かうと「呉を警戒し多数の兵を残しましたが、病気がちな私が療養を口実に前線を離れれば、守備を緩めるでしょう」と献策した。はたして関羽は守備兵を戦いに駆り出した。
関羽は数万の于禁軍を捕虜にしたため兵糧不足になり、呉との国境の関所から勝手に米を奪った。(『呂蒙伝』)
陸遜は呂蒙を見舞うと「どうしてこんな遠くまで下がってきたのですか。関羽は向こう気が強く人を人とも思いません。大きな手柄を立てたばかりで心は驕って志は膨らみ、ひたすら北へ進むことばかり考え我々に警戒していません。あなたが病気だと聞けばますます無防備になるでしょう。不意打ちすればやすやすと勝てます」と進言した。呂蒙は後任に陸遜を推薦した。
陸遜は着任すると関羽にへりくだった手紙を送り、それを読んだ関羽は完全に警戒心を解いてしまった。
孫権は呂蒙・陸遜に関羽討伐を命じた。(『陸遜伝』)
全琮(ぜんそう)も同様に関羽討伐の献策をしたが、孫権は既に呂蒙と計画を進めていたため、漏洩を恐れて握り潰した。関羽討伐を終えると「これは全琮の手柄でもある」と称えた。(『全琮伝』)
孫権は是儀(しぎ)に計画を打ち明け、同意を得て決行した。討伐にも貢献した。(『是儀伝』)
孫権は関羽を不意打ちしたいから計画を秘密にして欲しいと曹操に頼んだが、董昭は「密かに関羽と曹仁に知らせるべきです。もし関羽が撤退すれば包囲が解けすぐ利益が得られます。曹仁に救援があると教えれば配下が反乱を考えなくなります。関羽は激しい気性で自信家だからすぐには撤退せず、結果的に孫権の不意打ちも成功するでしょう」と進言し、その通りになった。(『董昭伝』)
関羽は于禁軍3万を捕虜にし江陵に送った。呂蒙は傅士仁を捕虜にし、糜芳は進んで降伏し、江陵は制圧された。(『呉主伝』)
徐晃軍は新たに味方につけた兵が多く、関羽に勝つことが難しかったため、駐屯し援軍を待った。援軍が集まると陽動で兵5千で出撃した関羽をおびき寄せて撃破し、包囲陣を打ち破った。(『徐晃伝』)
関羽軍は撤退し、その家族は糜芳の守る江陵にいたため人質にされ、兵は四散した。(『関羽伝』)
関羽は麦城に立て籠もり、孫権に降伏を勧められるとそれに応じるふりをし、人形を置いて人がいるように装い密かに城を抜け出した。追撃を受け十数人だけが従い、退路を朱然(しゅぜん)・潘璋(はんしょう)に断たれた。
潘璋配下の馬忠(ばちゅう)に子の関平(かんへい)・配下の趙累(ちょうるい)とともに捕らえられ処刑された。(『呉主伝』)
関羽を破り荊州制圧するにあたって孫皎(そんこう)の働きが大きかったが同年に急逝した。(『孫皎伝』)
「呉書」に曰く。
孫桓(そんかん)は関羽の兵5千を調略しおびただしい軍需物資を鹵獲した。
夷陵の戦いでも勝利に大きく貢献した。(『孫桓伝』)
孫権が関羽討伐を群臣に諮ると多くが反対する中、風占い師の呉範(ごはん)は賛成した。
呉軍の攻撃で関羽は敗走し、麦城に籠もった。降伏するという文書が届き、孫権は真偽に迷い呉範に占わせた。「逃げようとする気が出ています。我々を騙すつもりでしょう」と聞き、潘璋に命じて退路を封鎖させた。
はたして関羽は城を抜け出し、呉範はさらに「明日の日中には捕らえられます」と占った。
孫権は日時計と水時計を用意させて時刻を計った。正午になっても捕まらなかったが呉範は「正確にはまだ正午になっていません」と慌てず、やがて風がカーテンを揺らすと手を叩き「関羽が来ました」と言った。間もなく遠くで万歳の声が上がり捕縛の一報が届いた。(『呉範伝』)
「蜀記」に曰く。
関羽と徐晃は昔から敬愛し合い、対陣すると遠くから語り合ったが、世間話だけで戦の話はしなかった。話を終えると徐晃は「関羽の首を獲った者には金千斤を与える」と配下に告げた。関羽が驚くと「これはただ国家のことだ」と言った。
孫権は捕らえた関羽を配下にしたいと考えたが、側近に「狼の子を養えば後日に害をなします。曹操も捕虜にした時に殺さなかったから遷都を考える羽目になったのです」と諌められ、処刑させた。
(※裴松之は「関羽はその場で斬られたと記され、数百里離れた孫権のもとへ身柄を届けられたはずがない。でたらめさに呆れて口を閉ざすしか無い」と指摘する)(『関羽伝』)
関羽は上庸郡を制圧した劉封(りゅうほう)・孟達(もうたつ)にたびたび救援要請したが、制圧したばかりで安定していないとして断られていた。関羽が敗死すると劉備はそれを恨み、孟達は報復を恐れ魏へ寝返り上庸を奪った。劉封も上庸を失い、関羽を見殺しにした罪で処刑された。(『劉封伝』)
潘濬(はんしゅん)は劉備が益州へ入る前に荊州治中として行政を任されたが、やはり関羽と不和だった。
「江表伝」に曰く、荊州制圧後も潘濬だけが隠遁したが、強引に連れ出され呉へ降った。(『楊戯伝』・『潘濬伝』)
「呉歴」に曰く、孫権は関羽の首級を曹操に送り、曹操は諸侯の礼をもって葬った。
壮穆侯と諡された。子の関興(かんこう)が後を継ぎ諸葛亮にも高く評価されたが二十代で没した。(『関羽伝』)
曹丕が群臣に劉備が報復の兵を挙げるか討議させると「蜀は小国で名将は関羽だけです。関羽が敗死し動揺しているから二度と出撃しないでしょう」と誰もが言う中、劉曄は「劉備は国威発揚のために武力を示したいし、劉備・関羽の間柄は道義では君臣ですが、恩愛では父子です。関羽の報復をしなければ恩愛を貫けません」と言い、的中した。(『劉曄伝』)
221年、呉に身柄を移されていた于禁は帰国した。髭も髪も真っ白になり、顔はやつれ、泣きながら頭を地面に打ち付けて拝礼した。曹丕は労をねぎらい安遠将軍に任じ、曹操の陵墓へ参拝するよう命じた。そこには関羽に敗れた于禁が降伏し、龐悳が激怒する絵が飾られており、于禁は面目なさと怒りから病を得て没した。厲侯(※疫病神のような意味)と諡された。(『于禁伝』)
劉備が関羽の報復に向かうと(※夷陵の戦い)孫権は諸葛瑾(しょかつきん)に手紙を送らせ「関羽の仇討ちという小事にかまけ大局を忘れていませんか。あなた(劉備)と関羽の関係は孫策との親しさに勝るでしょうか。荊州は中原より小さく制圧しても利益は少なく、呉は魏よりも先に戦う相手ではありません」となだめさせたが聞き入れられなかった。
(※裴松之は「中原に蜀の威声を届けるという関羽の軍事行動は、成否はともかく適切な計略だった。ところが孫権は邪悪な意図で曹操を助け、漢王室を守るという大義名分を失った。討伐されるべきは孫権である。諸葛瑾は大義を説いたが、劉備と関羽は一人の人間のようなもので、手足を無理やりもぎ取られた憤りと悲痛が、そんな言葉で止められるものだろうか。こんな手紙を本文に載せたのは全くの無駄である」と批判する)(『諸葛瑾伝』)
蜀の廖立(りょうりつ)は「関羽は剛勇だという評判を頼ってでたらめに戦い、気の向くまま突進したから何度も兵を失った」など劉備や重臣を激しく罵り流刑になった。(『廖立伝』)
公孫淵(こうそんえん)が呉に背くと孫権は自ら討伐すると息巻き、陸遜に「陛下は曹操・劉備・関羽という三人の当代の英傑を破ったのに、公孫淵ごときにかまける必要はありません」となだめられた。(『陸遜伝』)
260年、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に諡号が追贈された。(『後主伝』)
「蜀記」に曰く。
263年、蜀が滅亡すると龐悳の子の龐会(ほうかい)は関羽の血統を滅ぼした。(※同書に魏にあるはずの龐悳の遺体を蜀で引き取った話もあり、眉唾ものである)
袁準(えんじゅん)は「袁子」で「張飛・関羽は劉備とともに旗揚げした爪とも牙とも言うべき(優れた)腹心だが、武人に過ぎなかった。劉備は諸葛亮を得て本領を発揮した」と評した。(『諸葛亮伝』)
楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「関羽・張飛は武勇に優れ、一身を捧げて世を正し、劉備を助け勇壮果敢だった。左右の守りとして稲妻が閃くように飛び回り、難儀を救い大業を助け韓信・耿弇と並ぶ名声と徳義を打ち立てた。しかし人との交際・応対に礼儀がなく、凶事を招いた。彼らの浅慮と身を滅ぼして国を救った態度を悼む」と評した。(『楊戯伝』)
陳寿は「関羽・張飛は一万人と戦えると賞賛され時代を代表する勇猛の臣だった。関羽は曹操に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔(げんがん)を赦し、ともに国士の風格があった。しかし関羽は剛情で自信を持ちすぎ、張飛は乱暴で情を持たず、その欠点から身の破滅を招いたのは道理からいって当然である」と評した。
「演義」では史実以上に三國無双の大活躍をし、豊かな髭から美髯公(びぜんこう)の異名を取る。よく読むとあまり大将首を挙げていない張飛とは比較にならないほどの撃墜スコアだが、自分より張飛の方が強いと謙遜する。
関羽の死に関わった曹操・呂蒙・孫皎・蔣欽(しょうきん)らが相次いで亡くなったこともあり、祟りを恐れられやがて神格化した。
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