簡雍  諫言はユーモアにくるんで



簡雍(かんよう)字は憲和(けんか)
幽州涿郡の人(??~??)

蜀の臣。
一説に元の姓は耿(こう)といったが、幽州では耿を簡と発音したため、改姓した。

若い頃から劉備と旧知の仲で、付き従い各地を点々とした。

200年、劉備が荊州牧の劉表(りゅうひょう)へ身を寄せると、麋竺(びじく)・孫乾(そんけん)ら古参の臣とともに従事中郎となり、常に話し相手を務め、使者の任を果たした。
212年からの益州入りでは益州牧の劉璋(りゅうしょう)と昵懇になり、214年に成都を包囲すると簡雍が降伏勧告の使者を務め、劉璋は簡雍を同じ輿に乗せて降伏した。功績により昭徳将軍となった。(『簡雍伝』)

劉備は益州牧を兼務し、許靖(きょせい)・麋竺・簡雍が賓客友人の扱いを受けた。(『先主伝』)

孫乾は麋竺に次ぎ、簡雍と同等の礼遇を受けた。(『孫乾伝』)

益州制圧後、伊籍(いせき)も従事中郎となり、簡雍・孫乾に次ぐ待遇を得た。(『伊籍伝』)

のびのびした態度で見事な議論をしたが、性格は傲慢・無頓着で、劉備の前でも足を投げ出して座り、脇息にもたれただらしない姿勢で心のままに振る舞った。
諸葛亮以下の者には長椅子に寝そべったまま話し、一切の遠慮をしなかった。

旱魃により禁酒令が出され、酒を造っただけでも処罰された時、簡雍は劉備と散策に出ると、通りがかった男女を見て「これから淫行に及ぶのに逮捕しないのですか」と言った。なぜわかるのかと不思議がる劉備へ「淫行に使う道具を持っています。酒造りと同じです」と答え、大笑いした劉備は処罰を取りやめさせた。
簡雍の機智はいつもこのようだった。(『簡雍伝』)

陳寿は「麋竺・孫乾・簡雍・伊籍らはのびのびした態度で見事な議論を行い、その時代において礼遇された」と評した。

「演義」でも劉備の腹心として初期から登場するが、傲慢な様子や酒造りの逸話は一切描かれない。