顧譚 謝罪を拒み死す

顧譚(こたん)字は子黙(しもく)
揚州呉郡呉県の人(??~??)
呉の臣。
顧邵(こしょう)の子。
顧雍(こよう)の孫。顧承(こしょう)の兄。
「顧雍伝」に附伝される。
20歳そこそこで諸葛恪(しょかつかく)、張休(ちょうきゅう)、陳表(ちんひょう)らとともに太子四友と呼ばれた。(『顧譚伝』・『陳武伝』)
太子の孫登(そんとう)は彼らと主従ではなく無官であるように礼を簡略化し、同じ乗り物で出掛け、同じ寝室で休んだ。張温(ちょうおん)が徳の高い者を中庶子とするよう進言したため任命され、君臣の礼にこだわりすぎないよう冠をかぶらないようにした。
229年、孫権が帝位につくと孫登も皇太子となり、顧譚は輔正都尉になった。東宮(太子の宮殿)は多士済々と評判を取った。
「江表伝」に曰く。
孫登は胡綜(こそう)に命じて「賓友目」を作らせ、その中で顧譚は「事物の背後の隠れた意味まで見通す」と評された。
一方で羊衜(ようどう)はそれに反駁し「精確ではあるが情け容赦がない」と評した。はじめ羊衜は批判されたが、後に反駁した4人がいずれも身を誤り、単なる中傷ではなく根拠があったのだと評価された。(『孫登伝』)
「呉書」に曰く。
張温・呉祺(ごき)と仲が良かった。(『呉景伝』)
「会稽典録」に曰く。
鍾離駰(しょうりいん)は若い頃から謝賛(しゃさん)・顧譚と等しい名声があったが、のろまで口下手な弟の鍾離牧(しょうりぼく)の方が自分より大成すると常々言っていた。(『鍾離牧伝』)
「呉録」に曰く。
当時は顧譚・顧承が比肩する者のない名声を得ていたが、諸葛恪は聶友(じょうゆう)を高く評価し、二人と並ばせようとしたため名を知られるようになった。(『諸葛恪伝』)
赤烏年間(238~251)、諸葛恪に代わり左節度となった。
「呉書」に曰く。
顧譚が初めて報告に上がった時、孫権は食事をしながら聞いていたが箸を止め「徐詳(じょしょう)にも勝る」と評価した。
孤高な性格で他者に気を遣わなかったため恨まれることもあったが、孫権は厚く礼遇し顧譚だけ招いたりもした。(『顧譚伝』)
「江表伝」に曰く。
節度が初めて設置された時、徐詳がそれを務めた。没すると諸葛恪が継いだが、叔父の諸葛亮が陸遜へ「彼はいいかげんで適任ではない」と助言したため配置換えされた。(※諸葛亮は234年没であり諸葛恪は助言を受けすぐ転任されたわけではないようだ)(『諸葛恪伝』)
「江表伝」に曰く。
孫権と顧雍は縁戚でもあり、顧雍と顧譚を酒席に招いた時、顧譚は酔って三度も舞をしいつまでもやめなかった。
顧雍は腹を立て、翌日に顧譚を呼びつけ「お前は国家に対してどんな功績があったのか。家柄で信任されているだけだ。酒が入っていたとはいえ慎みを忘れ謙虚さを欠くな。我が家を損なうのはきっとお前だ」と叱責し、背を向けて寝た。顧譚は2時間立ち尽くしてようやく辞去を許された。(『顧雍伝』)
237年、職務を放棄して親の葬儀に駆けつけた者を死刑に処すべきだと詔勅が下され、顧譚は「地方に赴任している長官は知らされなければ親の死に気づかないから、知らせた者を罰すればいい」と意見した。(『呉主伝』)
241年、孫登は病没し、遺言で「張休・顧譚・謝景(しゃけい)はよく切れる頭脳で的確な判断を下し、宮廷では主君の心腹として、地方では手足として働ける」と推薦した。(『孫登伝』)
帳簿を調べる時には算木を用いず指を折って暗算してミスを見つけ、配下に心服された。後に奉車都尉を加官された。
薛綜(せつそう)が選曹尚書に任じられた時、辞退して顧譚を推薦した。却下されたが後任となった。
243年、祖父の顧雍が没してから数ヶ月後に太常となり、顧雍の後任の平尚書事となった。
二宮の変では故事を引いて太子の孫和(そんか)を支持したため孫覇(そんは)に恨まれた。
孫覇派の全寄(ぜんき)は根性の曲がった人物で、顧譚は彼を蔑視していた。
241年、芍陂の役で全寄の父の全琮(ぜんそう)の指揮下で顧承と張休が魏と戦った時、顧承と張休が奮戦し敵を食い止め、全琮の子の全緒(ぜんしょ)・全端(ぜんたん)が追撃して劣勢を覆した。
論功行賞では顧承・張休の方が高く評価され、全琮父子はますます恨んだ。(『顧譚伝』)
陸遜・吾粲(ごさん)・顧譚は太子が後を継ぐのが道理であると主張し、讒言を受け陸遜は遠ざけられ、吾粲は殺された。(『孫和伝』)
讒言により交州へ配流となり、憤った顧譚は「新言」20篇を著し我が身を憂いた。2年後に42歳で没した。顧承も同地で没した。
「呉録」に曰く。
全琮父子は芍陂の役で陳恂(ちんしゅん)が顧承・張休とぐるになり過大評価したと讒言した。張休はただちに投獄されたが、孫権は顧譚を惜しみ謝罪すれば顧承を赦そうと持ち掛けた。だが顧譚は群臣の前で「これから讒言が盛んになるでしょう」と諌めた。
「江表伝」に曰く。
不敬罪により死罪を言い渡されたが、孫権は顧雍の功績に免じて配流に留めさせた。
陸機(りくき)は顧譚の伝記を著し「太子の側近には俊才が集められ、諸葛恪らが非凡な才能で抜きん出て、顧譚は優れた見識で並ぶ者がなかった。范慎(はんしん)・謝景・羊徽(ようき)も名声では敵わなかった」と評した。(『顧譚伝』)
陳寿は「公のためを計って献策し、主君に二心の無い節操を持っていた。顧譚・顧承が恨みを受けて南の果てに配流されたのは哀しいことである」と評した。
「演義」ではそもそも二宮の変が描かれないこともあり登場しない。
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