黄権  快男児



黄権(こうけん)字は公衡(こうこう)
益州巴西郡閬中県の人(??~240)

劉璋(りゅうしょう)、後に蜀、魏の臣。

若い頃に郡吏となり、益州牧の劉璋に招かれ主簿となった。
当時、張松(ちょうしょう)らが劉備と内通し、益州を乗っ取らせるため、漢中の張魯(ちょうろ)への対抗を名目に招き入れようとしていた。
黄権は「劉備は勇名を馳せており、客将として遇すれば満足せず、賓客として遇すれば一国に二人の君主がいることになります。客が泰山のごとく万全なら、主人は累卵の上に立つような危うい状況になります。国境を閉鎖し様子を見るべきです」と諌めたが、劉璋は聞かず劉備を招き入れた。
はたして劉備は益州への侵攻を開始した。郡県は次々と降伏したが、広漢県長に左遷させられていた黄権は籠城して抵抗し、214年、劉璋が降伏した後に屈服した。劉備は(忠誠を評価し)偏将軍に任じた。
(※徐衆(じょしゅう)は「もっと高評価すべきだった」とここでもいちゃもんを付ける)(『黄権伝』)

董和(とうか)・黄権・李厳(りげん)ら劉璋に重用されていた人物を同様に重用したことは、劉備の優れた人材登用の一例として「先主伝」に挙げられている。(『先主伝』)

215年、張魯が曹操に撃破されると「漢中を失えば益州は手足をもぎ取られるのに等しい」と救援するよう進言した。劉備は黄権を護軍に任じ出撃したが、既に張魯は降伏してしまった。
しかしその後、異民族の杜濩(とこ)・朴胡(ふこ)を撃破し、夏侯淵を討ち取り漢中を制圧できたのは、全て黄権の計略によるものである。

219年、劉備は漢中王に即位したが益州牧は兼務し、黄権を益州治中従事に任命した。(『黄権伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に偏将軍として連名した。(『先主伝』)

劉備は帝位につくと関羽の仇討ちとして呉を攻めようとした。黄権は「呉軍は勇敢な上、我々の水軍は下流に向かって進むため撤退が難しい。私が先陣を務め呉軍の力を試すので、陛下は後詰めをしてください」と進言したが、劉備は自ら前線で指揮を取り、黄権は鎮北将軍として長江の北で魏軍に備えさせた。
222年、夷陵の戦いで劉備は陸遜に大敗し撤退した。退路を断たれた黄権は孤立し、やむなく魏に降伏した。法をもとに黄権の妻子を処刑するよう進言されたが、劉備は「私が黄権を裏切ったのだ。黄権が私を裏切ったのではない」と言い、妻子を元のまま厚遇した。
(※裴松之は劉備の判断を「これぞ劉主(王者)の行為」と絶賛した)(『黄権伝』)

「襄陽記」に曰く。
龐統の弟の龐林(ほうりん)もこの時、黄権の配下にいたため同じく魏に降った。龐林の妻子は208年、荊州を曹操が制圧した際に生き別れており、龐林は十数年ぶりに再会した。曹丕は妻がその間ひとりで娘を育てていたと知り顕彰した。(『龐統伝』)

敗走する劉備を馬忠(ばちゅう)が迎え入れると、劉備はその才能を見抜き「黄権を失ったが代わりに馬忠を得た。世の中に賢者は少なくない」と言った。(『馬忠伝』)

曹丕が引見し「逆臣の立場を捨てて良臣となったのは、陳平・韓信(※項羽から劉邦へ寝返った名臣)を真似したのか」とからかうと、黄権は「私は劉備に厚遇され、呉に降伏することはできず、退路を断たれたため魏へ帰順しただけです。死を免れるために懸命で、古人のことを考える余裕はありませんでした」と答えた。曹丕は感心し鎮南将軍に任じ、育陽侯に封じ、侍中を加官し、車に同乗させた。
同じく降伏した蜀の人は「黄権の妻子が処刑された」と言ったが黄権は信じず、はたして誤報だった。

「漢魏春秋」に曰く、曹丕は詔勅を下して服喪するよう命じたが、黄権は「私と劉備・諸葛亮は誠実をもって信頼し合った仲ですから、私の本心も承知しているはずです。報告は疑わしいのでお待ちください」と断った。

223年、劉備が没すると群臣はみな祝賀を述べたが、黄権だけはそれに加わらなかった。
曹丕はもとより黄権の器量を高く評価していたが、脅して人物を試してやろうと考え、問責の勅使を次々と送った。勅使が道路で入り乱れるほどで配下はみな肝を潰したが、黄権の態度も顔色も全く変わらなかった。

「蜀記」に曰く。
曹叡が「三国鼎立しているが正統な国家はどれか」と問うと「天文に従うべきです。先頃、火星の動きに応じ文帝(曹丕)が崩御されましたが、呉・蜀の君主には何事もありませんでした」と答えた。

後に益州刺史を兼任し、河南尹(?)を務めた。司馬懿にも高評価され「蜀には君のような人物は何人いるのか」と尋ねられると「あなたのご愛顧がそれほど深いとは思いませんでした」と笑った。
司馬懿は諸葛亮への手紙で「黄権は快男児です。いつもあなたの話をし賛美しています」と述べた。

239年、車騎将軍・儀同三司に上った。
240年に没し景侯と諡された。
子の黄邕(こうよう)が後を継いだが孫は生まれず、爵位は断絶した。
蜀に置いてきた子の黄崇(こうすう)は263年、蜀滅亡の際に鄧艾と戦い討ち死にした。(『黄権伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「鋭敏な頭脳で策略は筋道立っており、軍を指揮して敵を追い払い、任務を遂行し見事な功績を上げた。ところが晩年の運命は不遇で、(蜀に仕える)希望に反する悲哀を抱き異国をさまよった」と評した。(『楊戯伝』)

257年、呉の孫壱(そんいつ)が魏へ亡命すると儀同三司を与えられるほど厚遇された。
裴松之は「孫壱は切羽詰まって亡命しただけで称賛されるべき点は無い。儀同三司はやりすぎだ。孟達(もうたつ)や黄権が亡命した時はこんなに厚遇されなかったが、孫壱・孫秀(そんしゅう)・孫楷(そんかい)は極端に優遇された。しかし呉の滅亡後に位階を数等も下げられた。これははじめの待遇が度を越していた結果ではなかろうか」と批判した。(『高貴郷公紀』)

陳寿は「度量が広く思慮深い」と評した。

「演義」でも史実の名場面が数多く再現される。