黄皓  蜀を滅ぼした小悪党



黄皓(こうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の宦官。
「董允伝」に附伝される。

劉禅に寵愛され、巧みなへつらいと上手く付け入る頭の良さで立ち回った。(『董允伝』)

宰相の董允(とういん)は厳しく劉禅をさとし、黄皓をたびたび咎めたため、存命中は目立って悪事を働けず、官位も黄門丞に過ぎなかった。
246年、董允が没し陳祗(ちんし)が後を継ぐと、黄皓と助け合い政務にあずかった。(『黄皓伝』)

劉禅の弟の劉永(りゅうえい)は黄皓を憎んでいたため讒言され、十余年も謁見を許されなかった。(『劉伝』)

陳祗・黄皓が董允の悪口を吹き込んだため、劉禅も亡き董允を恨むようになった。
258年、陳祗も没すると黄門令から中常侍・奉車都尉に上り、蜀の実権を握った。民はみな亡き董允を追慕した。(『黄皓伝』)

262年、黄皓は閻宇(えんう)と結託し、姜維と職務を交代させようとした。それを察した姜維は二度と成都へ戻らなかった。

「華陽国志」に曰く。
姜維は黄皓の専横を憎み殺害するよう劉禅に進言したが「黄皓はただの召使いだ。先には董允が彼に対して歯ぎしりしていて、私はいつもそれを残念に思っていた。君が気にかけるほどの男ではない」と聞く耳持たなかった。
姜維は黄皓が枝葉が木の幹にすがりつくように劉禅に取り入っているのを見て、失言で身を損なうのを恐れ退出した。劉禅が黄皓を謝罪に出向かせると、屯田のため遠征したいと申し出て、難を逃れた。(『姜維伝』)

諸葛瞻(しょかつせん)・董厥(とうけつ)・樊建(はんけん)が政務を担当した。姜維が遠征から戻らなくなると黄皓が実権を握り、諸葛瞻らは互いをかばい合うばかりで政治を矯正できなかったが、樊建だけは黄皓と付き合わなかった。(『諸葛亮伝』)

羅憲(らけん)は黄皓に迎合しなかったため巴東太守に左遷された。(『霍峻伝』)

郤正(げきせい)は黄皓の屋敷の隣に住み30年にわたりともに働いたが、好かれも憎まれもしなかった。そのため官位は600石を超えなかったが讒言による災難を免れた。(『郤正伝』)

譙周(しょうしゅう)は図讖(予言)に長じた杜瓊(とけい)の言葉を解釈し、様々な予知をした。劉備・劉禅の名を「劉氏は完結し人に授ける」という不吉な意味だと読み解き、黄皓の台頭として的中した。(『杜瓊伝』)

263年、姜維は魏が蜀への侵攻を企んでいると察知し、備えるよう上表したが、黄皓は信仰する鬼神や巫女のお告げを信じ、侵攻されることは無いと劉禅に言上したため、群臣に危機は知らされなかった。(『姜維伝』)

鄧艾は蜀を制圧すると黄皓の邪悪・陰険ぶりを知り殺そうとしたが、黄皓は鄧艾の側近へ手厚く賄賂をばらまき逃げおおせた。(『黄皓伝』)

「華陽国志」に曰く。
諸葛瞻の子の諸葛尚(しょかつしょう)は「父も私も国家から厚い恩誼を受けているのに、さっさと黄皓を殺さなかったから敗北を招いた。生き残って何になろう」と言い玉砕を遂げた。

「異同記」に曰く。
蜀の長老は「陳寿は諸葛瞻に侮辱されたことがあり、それを根に持って諸悪の根源を黄皓に押し付けた上に、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと記したのだ」と語った。(『諸葛亮伝』)

「演義」でも史実と同様に蜀の実権を握りやりたい放題したが、最後は司馬昭によって処刑された。