公孫度 遼東王

公孫度(こうそんど)字は升済(しょうせい)
幽州遼東郡襄平県の人(??~204)
後漢末の群雄。
父の公孫延(こうそんえん)は罪を得ると逃亡し玄菟郡へ移住し、公孫度は郡吏を務めた。
玄菟太守の公孫琙(こうそんよく)は子の公孫豹(こうそんひょう)を18歳で亡くし、公孫度が同い年で、幼名も豹(ひょう)だったため亡き息子同然にかわいがり、師につけて学問させ、嫁も探してやった。
やがて有道に推挙され尚書郎となり、昇進を重ね冀州刺史となったが、流言を受けて罷免された。
同郷の徐栄(じょえい)の仕える董卓が朝廷の実権を握ると、徐栄の推挙により遼東太守となった。玄菟郡の役人上がりの公孫度は軽視され、子の公孫康(こうそんこう)も襄平県令の公孫昭(こうそんしょう)の下で下役に甘んじていたが、遼東太守に赴任した公孫度は公孫昭を逮捕し、鞭打って殺した。
さらに名家で以前から公孫度に冷淡な態度を取っていた田韶(でんしょう)も処刑し、反抗する百軒余りが滅ぼされ、遼東郡の人々は震え上がった。
高句麗・烏丸を討伐して内外に威勢が轟いた。(『公孫度伝』)
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、公孫度が勢力を伸ばすと夫余王の尉仇台(いきゅうだい)は遼東郡の支配下に入った。
公孫度は夫余が強大な高句麗・鮮卑の中間に位置することを重んじ、一族の娘を尉仇台に嫁がせた。
高句麗王の伯固(はくこ)も玄菟郡の支配下にあったが、公孫度が勢力を伸ばすとよしみを通じ、ともに富山賊と戦った。(『東夷伝』)
190年、董卓により乱世がもたらされると「漢王朝の命運は絶えようとしている。王座を狙うべきだ」と語った。
「王沈魏書」に曰く、公孫度は「讖書(予言書)には孫登(そんとう)が天子になると記される。私の姓は公孫、字は升済で升は登に符合する」と言った。
襄平県の延里で奇石が発見され、下に3つの石があり、大きな石を支えていた。ある人が「これは前漢で起こった瑞祥と同じで、延里は公孫延の名前とも符合します。あなたが天子の位につき、三公がそれを支える徴候です」と言い、公孫度は大いに喜んだ。
元の河内太守の李敏(りびん)は郡の名士で公孫度の所行を不快に思っていたため、殺害を恐れて家族とともに逃亡した。公孫度は李敏の父の墓を暴き、棺を壊し遺体を焼き、残された一族を処刑した。
遼東郡を勝手に分割して遼西郡・中遼郡を設置し、太守を任命した。さらに青州東萊郡に侵攻して諸県を制圧し、営州を勝手に作り刺史を置いた。
独立して遼東侯・平州牧を名乗り、亡父の公孫延に建義侯を追贈し、高祖・光武帝の霊廟を造るなど天子の所行を模倣した。
曹操が(懐柔しようと)武威将軍・永寧郷侯に取り立てると、「私は遼東王だ。何が永寧郷侯だ」と怒り、任命の印綬を武器庫へ放り込んだ。(『公孫度伝』)
戦乱を避け、管寧(かんねい)・邴原(へいげん)・王烈(おうれつ)・国淵(こくえん)らは善政を布いているという遼東太守の公孫度(こうそんど)を頼った。
屋敷を用意されたが四人は山中に庵を結び隠棲した。疎開してきた人々は多くが南部に住んでいたが、管寧は長く留まる意志を示し北部に住むも、次第に南下して結局は合流した。(『管寧伝』・『国淵伝』)
「傅子」に曰く。
管寧は公孫度に経典の話をするだけで世俗的な話題を出さず、彼を慕い避難民らが集まり10ヶ月も経つと町ができるほどだったが、講義し学者としか面会しなかったため、野心が無いと思い公孫度は安心した。
一方で剛直な邴原は公孫度としばしば衝突したため、管寧は危険を説き故郷へ帰らせた。
王烈は長史に任命されたが、商人に身をやつし、それを固辞した。(『管寧伝』)
「邴原別伝」に曰く。
邴原は遼東へ移住し十余年が経ち、ついに帰郷した。公孫度は追おうとしたが間に合わないと悟ると「邴原は雲中を飛ぶ白鶴だ」と嘆息した。(『邴原伝』)
204年に没し、子の公孫康が王位を継ぎ、弟の公孫恭(こうそんきょう)が永寧郷侯を継いだ。(『公孫度伝』)
「涼茂伝」に公孫度が涼茂(りょうぼう)を脅したが逆に脅し返された逸話が記されるが、時期から見て公孫康の誤記だろうと裴松之は指摘する。(『涼茂伝』)
孫の公孫淵(こうそんえん)は魏へ「公孫度が赴任しなければ遼東地方は蛮族に制圧され廃墟と化していた」と述べた。(『公孫度伝』)
陳寿は「公孫度は残虐で節度がなく、公孫淵は凶悪さを発揮し、ただ一族を破滅させただけだった。州郡を支配しながら一平民にも劣る者どもで論評に値しない」と酷評した。
「演義」では公孫康の父・公孫淵の祖父であることしか記されない。
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