公孫康 遼東の二代目

公孫康(こうそんこう)字は不明
幽州遼東郡襄平県の人(??~??)
後漢末の群雄。
公孫度(こうそんど)の子。
「公孫度伝」に附伝される。
父の公孫度は遼東太守となったが、玄菟郡の役人上がりだったため軽視され、公孫康も襄平県令の公孫昭(こうそんしょう)の下で下役に甘んじていたが、遼東太守に赴任した公孫度は公孫昭を逮捕し、鞭打って殺した。
さらに名家で以前から公孫度に冷淡な態度を取っていた田韶(でんしょう)も処刑し、反抗する百軒余りが滅ぼされ、遼東郡の人々は震え上がった。
高句麗・烏丸を討伐して内外に威勢が轟いた。
やがて公孫度は独立し遼東侯・平州牧を名乗り、204年に没すると公孫康が王位を継ぎ、弟の公孫恭(こうそんきょう)が永寧郷侯を継いだ。(『公孫度伝』)
「傅子」に曰く。
公孫康は野心深く、内心では管寧(かんねい)を登用し補佐させたいと思ったが、畏敬を払うあまり言い出せなかった。
曹操が管寧を招聘すると、公孫康はそれを勝手に拒み伝えもしなかった。(『管寧伝』)
袁譚(えんたん)に与する烏丸の蘇僕延(そぼくえん)の説得のため、かつて烏丸突騎を務めた経験から牽招(けんしょう)が派遣されると、たまたま公孫康も蘇僕延を懐柔しようと狙い韓忠(かんちゅう)を派遣しており、論戦となった。牽招は腹を立て韓忠を斬り捨てようとしたが、蘇僕延が仲裁に入り、曹操方につくことで場を収めた。(『牽招伝』)
「涼茂伝」に公孫度が涼茂(りょうぼう)を脅したが逆に脅し返された逸話が記されるが、時期から見て公孫康の誤記だろうと裴松之は指摘する。(『涼茂伝』)
207年、曹操は三郡烏丸のもとへ逃げた袁尚(えんしょう)・袁煕(えんき)兄弟を追撃し、袁尚や蘇僕延らは公孫康のもとへ落ち延びた。
さらに追撃すれば袁尚らの首を取れると進言されたが曹操は「公孫康に首を送らせる。兵をわずらわせるまでもない」と却下した。
はたして公孫康は袁尚・袁煕・蘇僕延らを処刑し、首を曹操へ送った。曹操は「公孫康はかねてから袁尚を怖がっていた。厳しい態度を取れば力を合わせ反抗するが、緩めれば自分で始末をつける。勢いからそうなるのだ」と解説した。(『武帝紀』)
「典略」に曰く。
袁尚は生まれつき武勇に優れ、公孫康を殺して軍勢を奪おうと企てていた。
公孫康も袁尚・袁煕を殺さなければ朝廷に申し訳がないと考え、二人を油断させて伏兵に捕らえさせた。凍った地面に座らされた袁尚が「むしろ(敷物)が欲しい」と言うと、袁煕は「これから首が万里の旅に出掛けるのにむしろがいるものか」と呆れた。揃って斬首された。(『袁紹伝』)
この功により公孫康は襄平侯・左将軍に取り立てられた。(『公孫康伝』)
「魏略」に曰く。
公孫康は孫権の使者を殺し仇敵の間柄となった。
魏の鬷弘(そうこう)は公孫氏と初めて交渉する際に使者を務め、帰郷せず遼東に骨を埋める覚悟を示したため、公孫康は感服し妻とともに魏への臣従を誓った。(『公孫度伝』)
建安年間(196~220)、高句麗は遼東郡で略奪を働いた。公孫康は高句麗を討伐し都を落とし町々を焼いた。高句麗王の兄の抜奇(ばつき)は王位を継げなかった恨みから3万人を率いて公孫康に降伏し移住した。
また帯方郡を設置して韓濊に対抗し、離散していた中華の民を帰参させた。(『東夷伝』)
没すると子の公孫晃(こうそんこう)・公孫淵(こうそんえん)は幼かったため公孫恭が擁立され遼東太守となった。(『公孫康伝』)
220年、曹丕は帝位につくと公孫恭を車騎将軍・仮節・平郭侯に取り立て、公孫康に大司馬を追贈した。
後に公孫淵は魏へ「公孫度が赴任しなければ遼東地方は蛮族に制圧され廃墟と化していた。公孫康は大業を受け継ぎ国家を助けて動乱を平定した」と述べた。(『公孫度伝』)
公孫淵が呉から王位を授けられると魏では討伐が議論されたが、劉劭(りゅうしょう)は公孫康が袁尚兄弟を処刑した件を持ち出し、もう少し様子を見るよう意見した。はたして公孫淵は呉の使者を殺し魏へ忠誠を示した。(※しかし間もなく魏にも反乱した)(『劉劭伝』)
「演義」でも袁尚兄弟を処刑する場面が描かれる。
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