公孫恭  気の毒な叔父



公孫恭(こうそんきょう)字は不明
幽州遼東郡襄平県の人(??~??)

後漢末の群雄。
公孫度(こうそんど)の弟。
「公孫度伝」に附伝される。

遼東太守の公孫度は独立し遼東侯・平州牧を名乗り、204年に没すると子の公孫康(こうそんこう)が王位を継ぎ、弟の公孫恭が永寧郷侯を継いだ。
公孫康も没すると子の公孫晃(こうそんこう)・公孫淵(こうそんえん)は幼かったため公孫恭が擁立され遼東太守となった。

220年、曹丕は帝位につくと公孫恭を車騎将軍・仮節・平郭侯に取り立て、公孫康に大司馬を追贈した。(『公孫度伝』)

「先賢行状」に曰く。
223年、遼東に疎開していた管寧(かんねい)が魏に招聘された。公孫恭は見送りに立ち餞別を贈ったが、管寧は海を渡るとこれまで公孫度~公孫恭の三代から受けた下賜品を全て返却した。都に着くと招聘も辞退した。

「傅子」に曰く。
管寧は公孫恭が柔弱で、公孫淵が優れた才を持っていたことから異変が起こるのを察知し、招聘を受けて難を逃れようとしたのである。はたして後に公孫恭は地位を奪われ、公孫淵は魏に反乱し遼東郡では多くの死者が出た。(『管寧伝』)

公孫恭は病により性的不能で、資質も劣ったため国を統治する能力が無かった。
228年、甥の公孫淵に脅され地位を奪われた。

「魏略」に曰く。
公孫晃は公孫恭の人質として朝廷に仕官していたが、公孫淵が地位を奪ったと聞くと、破滅を察して討伐を何度も願い出たが、公孫淵が既に権力を掌握していたため却下された。
反乱すると拘留され、曹叡は助命するつもりだったが役人の反対により連座で処刑された。(『公孫度伝』)

曹叡は処刑ではなく自害させようと考えたが、高柔(こうじゅう)に反対された。曹叡は聞き入れず公孫晃を自害させた。(『高柔伝』)

238年、反乱した公孫淵は司馬懿に敗れ殺された。
幽閉されていた公孫恭は解放された。(『晋書 宣帝紀』)

「演義」では亡命してきた袁尚(えんしょう)兄弟の謀略を見抜き、処刑するよう公孫康に進言した。公孫淵に地位を奪われた後は登場しない。