公孫瓚 白馬将軍

公孫瓚(こうそんさん)字は伯珪(はくけい)
幽州遼西郡令支県の人(??~199)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
後漢末の群雄。
はじめ遼西郡の門下書佐となった。容姿美しく大声で目立ち、侯太守(こうたいしゅ)に見込まれ、娘をめとり廬植(ろしょく)のもとで経書を学んだ。(『公孫瓚伝』)
劉備は15歳の時に(※175年)遊学し劉徳然(りゅうとくぜん)・公孫瓚とともに廬植の弟子となった。(『先主伝』)
郡の役人に戻り、太守の劉基(りゅうき)が法に触れ投獄されると、檻車の御者に変装して付き従い面倒を見た。日南郡への流刑が決まると、山で供物を捧げ「昔は人の子だったが今は人の臣下だから日南郡へお供しなければならない。もう帰れないかもしれない」と先祖に別れを告げた。居合わせた人々は心打たれすすり泣いた。だが途上で劉基が赦免されたため帰郷した。
孝廉に推挙され郎となり、遼東属国長史に任じられた。数十騎を連れて巡察中に数百騎の鮮卑の兵を見つけると「今ここで撃退しなければ皆殺しにされるぞ」と兵を脅し、矛を両刃に改造すると突撃を仕掛け数十人を殺し、部下も半数が殺されたものの逃げ切った。鮮卑はこれに懲りて二度と国境を侵さず、公孫瓚は涿県令に昇進した。
光和年間(178~184)、涼州で反乱が起こると幽州の騎兵隊3千人を都督行事として指揮し討伐に向かった。だが薊中まで来た時に張純(ちょうじゅん)らが烏丸の丘力居(きゅうりききょ)を引き込んで反乱し、右北平郡と遼西郡を略奪した。公孫瓚はその討伐にあたり騎都尉に昇進した。
烏丸の貪至王(どんしおう)を降伏させ中郎将に上り、都亭侯となり、遼東に駐屯し5~6年にわたり異民族と戦った。だが丘力居らの勢力は4州に及び、公孫瓚は防ぎ止められなかった。
朝廷が異民族が心服する劉虞(りゅうぐ)を幽州牧として赴任させると、丘力居はすぐさま帰順しようとした。公孫瓚は劉虞に手柄を奪われまいと異民族の使者を殺し妨害した。結局、帰順は受け入れられ、劉虞は上表して指揮権を握り撤退し、公孫瓚を1万の兵だけで右北平郡に残した。
張純は妻子を捨てて逃げたが食客に殺され、劉虞は太尉・襄賁侯に取り立てられた。
董卓が朝廷を牛耳ると劉虞は大司馬、公孫瓚は奮武将軍・薊侯に上った。
190年、董卓は袁紹らに攻められると洛陽を捨て長安へ遷都し、劉虞を太傅に招こうとしたが道が遮断され使者はたどり着けなかった。また袁紹・韓馥(かんふく)は幼い献帝を廃し劉虞を推戴しようとしたが断られた。(『公孫瓚伝』)
張超(ちょうちょう)も後に劉虞を帝位につけようとしたが、公孫瓚と劉虞・袁紹が戦っていたため使者の臧洪(ぞうこう)がたどり着けなかった。(『臧洪伝』)
公孫瓚は安平に駐屯した冀州牧の韓馥を撃破し、董卓討伐を名目に冀州を奪おうとした。韓馥は狼狽し、袁紹はそれに付け込み冀州牧の座を譲らせた。
韓馥から袁紹へ降った沮授(そじゅ)は「青州を平定し黒山賊を破れば公孫瓚は必ずや滅亡し、天下に号令を掛けられる」と進言し袁紹を喜ばせた。(『袁紹伝』)
献帝は朝廷にいた劉虞の子の劉和(りゅうか)を脱走させ、劉虞に救援させようとした。だが劉和は途中で袁術に引き止められ、袁術は劉虞の兵を奪おうと考え書簡を送らせた。
公孫瓚は袁術の魂胆を見抜き、兵を送らないよう進言したが、劉虞は聞き入れず数千騎を送った。公孫瓚も袁術の不興を買うのを恐れ、従弟の公孫越(こうそんえつ)に1千騎を預け劉虞の兵に同行させた。一方で公孫越には密かに劉和と連携し、劉虞の兵を奪うよう言い含めており(これが露見し)公孫瓚と劉虞の仲はますます険悪となった。
劉和は逃亡したが袁紹に捕まった。
袁術の傘下にいた孫堅は陽城に駐屯していたが、袁紹配下の周昴(しゅうこう)に陣地を奪われた。袁術は孫堅・公孫越に周昴を攻撃させたが、流れ矢に当たり公孫越が戦死した。
公孫瓚は「弟が死んだのは袁紹のせいだ」と激怒し出撃した。袁紹は配下にいた公孫瓚の従弟の公孫範(こうそんはん)に渤海太守の印綬を与え和睦しようとしたが、公孫範はそれを利用し渤海郡の兵を引き連れ公孫瓚に降った。
公孫瓚は青州・徐州の黄巾賊を撃破し、配下の厳綱(げんこう)・田楷(でんかい)らを勝手に3州の刺史に任命し、界橋まで進軍した。袁紹は麴義(きくぎ)に迎撃させ、公孫瓚は敗退し厳綱は捕虜となった。(※界橋の戦い)
公孫瓚は本拠地の薊の東南で築城し、劉虞の本拠地に接近し緊張は高まった。(『公孫瓚伝』)
初平年間(190~193)、兗州刺史の劉岱(りゅうたい)は袁紹・公孫瓚と同盟し、袁紹は妻子を預け、公孫瓚は范方(はんほう)に騎兵を任せ援護させていた。公孫瓚は袁紹と敵対し、撃破すると劉岱へ「袁紹の妻子を渡さなければ范方を引き上げさせ、袁紹の次にお前を殺す」と脅した。
劉岱は決断できず程昱(ていいく)に意見を求めると「袁紹という近きを捨てて公孫瓚という遠くに助けを求めるのは、溺れる子を助けるため遠国から人を呼ぶようなものです。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。一時の勝利を得ましたが結局は敗れます」と言われた。
劉岱はそれに従い、范方は引き上げたが公孫瓚は合流する前に袁紹に大敗した。(『程昱伝』)
界橋の戦いに際し、鉅鹿太守の李邵(りしょう)らは袁紹が敗れると考え公孫瓚方につこうとした。
袁紹はそれを聞き董昭(とうしょう)に鉅鹿郡を治めさせ、董昭は謀略でたちまち離反を止めた。(『董昭伝』)
高唐県令の劉備は賊軍に敗れ、公孫瓚のもとへ落ち延びた。公孫瓚は上表して別部司馬に任じてやり、田楷とともに袁紹と戦わせた。(『先主伝』)
192年、袁紹と敵対した袁術に救援を要請され、劉備・単経(ぜんけい)・陶謙(とうけん)を送ったが、曹操は袁紹と協力し全て打ち破った。(『武帝紀』)
袁術は荊州牧の劉表(りゅうひょう)と上手く行かなかったため公孫瓚と手を結び、袁紹は公孫瓚と不和だったため劉表と同盟した。袁術・袁紹は敵対したが遠交近攻する様は似通っていた。(『袁術伝』)
劉備は曹操に攻められた陶謙を田楷とともに救援し、兵を与えられ豫州刺史に任じられ、公孫瓚から陶謙へ鞍替えした。
随行していた公孫瓚配下の趙雲もそのまま劉備に従った。(『先主伝』・『趙雲伝』)
田豫(でんよ)は年少ながら劉備に従って公孫瓚のもとへ逃げた。劉備が豫州刺史に上ると母が老齢だったため別れ、公孫瓚に仕えた。
王門(おうもん)が袁紹へ寝返り1万の兵で攻め寄せると「あなたが公孫瓚に厚遇されながら離反したのはやむをえぬ理由があると思っていた。乱暴を働けばあなたが乱を好む人間に過ぎなかっただけだとわかる。早く攻めよ」と難詰し、恥を知った王門は撤退した。
公孫瓚は田豫が臨機応変の策を持っていることは承知していたが、重用できなかった。(『田豫伝』)
劉虞は先制攻撃を仕掛けたが敗北し、捕虜となった。
折しも董卓が暗殺されたため、献帝は劉虞に6州を治めさせようと考え段訓(だんくん)を使者として送った。
公孫瓚も前将軍・易侯に進んだが、劉虞は帝位を奪おうとしていると誣告して処刑し、段訓を脅し後任の幽州刺史とした。公孫瓚は慢心し、他人の過失だけを覚えて善行を忘れ、多くの人々を毒牙にかけた。(『公孫瓚伝』)
劉虞の使者として朝廷に行っていた田疇(でんちゅう)は、墓に参り朝廷からの答書を読み上げた。公孫瓚は激怒し懸賞金を掛けて捕らえ「なぜ劉虞の墓で哭礼し、答書を私に届けなかった」と問い詰めた。
田疇は「漢王室は衰退し、劉虞だけが忠節を失っていませんでした。答書は劉虞に与えられたもので、あなたにとっては褒め言葉では無いだろうと考えたので進呈しませんでした。主君(劉虞)を殺し、さらに道義を守る臣下(田疇)に仇なそうとすれば、心ある人物は全て東海へ身投げし、あなたに従う者などありません」と敢然と言い返した。
公孫瓚は勇気に感心し助命したが、拘束し誰とも交流させなかった。ある人に「田疇は義士です。礼遇できない上に拘束していたら人心を失います」と諌められ、釈放した。(『田疇伝』)
劉虞の旧臣の鮮于輔(せんうほ)らは復讐を誓い、異民族と太いパイプを持つ閻柔(えんじゅう)を擁立し漢民族・異民族あわせ数万の兵を集めた。
公孫瓚の任命した漁陽太守の鄒丹(すうたん)を討ち取り、袁紹も麴義・劉和を送り加勢させた。公孫瓚は連敗し易京に籠城した。
易京は鉄壁の要塞で300万石の穀物が蓄えられ、公孫瓚は「天下を指先一つで平定できると思っていたが甘くなかった。兵を休ませ穀物を蓄えるのに越したことはない。兵法には100の城楼は攻撃しないとあるが、易京には1千の城楼がある。この穀物を食い尽くすまで天下の趨勢を眺めよう」と豪語した。袁紹は何年経っても攻略できなかった。(『公孫瓚伝』)
烏丸の蹋頓(とうとん)は袁紹・公孫瓚の戦いが膠着すると、袁紹に味方し撃破に貢献した。(『烏丸伝』)
廬植の子の盧毓(ろいく)は幽州の動乱で2人の兄を失い、袁紹・公孫瓚の争いで食料も尽きたが、未亡人の兄嫁や父を失った甥を養い称えられた。(『盧毓伝』)
199年、袁紹は全軍を率い易京を包囲した。
公孫瓚は息子を黒山賊のもとへ向かわせ、自ら騎兵隊で包囲を破って黒山賊と合流し、袁紹の背後を襲おうと考えたが、関靖(かんせい)に「兵が総崩れとなりながら戦線を維持できているのは、あなたが易京に残っているからです。それを見捨てて外に出ればたちまち瓦解します」と諌められ思いとどまった。(『公孫瓚伝』)
黒山賊は杜長(とちょう)を派遣したが袁紹に撃退され、勢力は段々と衰えていった。(『張燕伝』)
(しかし結局)息子のもとへ手紙を送り、援軍が来たら狼煙を上げさせ、自身で出撃し挟み撃ちにしようと伝えたが、この手紙が袁紹の斥候に奪われた。袁紹が狼煙を上げると騙された公孫瓚は出撃し大敗した。
袁紹は地下道を掘って城楼を徐々に突き崩し、追い詰められた公孫瓚は妻子を殺した後に自害した。(『公孫瓚伝』)
公孫瓚を滅亡させたのは張郃の功績が大きく、寧国中郎将に昇進した。(『張郃伝』)
陳寿は「易京を保守したまま、なすこともなく全滅を待っていた。州郡を支配しながら一平民にも劣る者どもで論評に値しない」と酷評した。
「演義」でも流浪する劉備を受け入れてやり、劉備が主人公格なこともあり善玉風に描かれ、劉虞を殺すくだりも無い。
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