黄忠  老いてますます盛ん

 

黄黄忠(こうちゅう)字は漢升(かんしょう)
荊州南陽郡の人(?~220)

蜀の臣。

荊州牧の劉表(りゅうひょう)に中郎将に任じられ、従子の劉磐(りゅうばん)とともに長沙郡攸県を守った。
208年、曹操が荊州を制圧すると、仮の裨将軍に任じられ、長沙太守の韓玄(かんげん)の指揮下で任務を続けた。
赤壁の戦い後、劉備が南方へ勢力を伸ばすとその配下となった。

212年からの益州侵攻では葭萌関から出撃し、常に先陣を切ってその勇敢さは全軍の筆頭だった。(『黄忠伝』)

侵攻を決意した劉備は黄忠・卓庸(たくよう)に攻撃を命じ、涪城を占拠した。(『先主伝』)

214年、劉備が益州を制圧すると討虜将軍に任じられた。
219年、定軍山の戦いで夏侯淵を攻め、率先して士卒を励まし、鉦と軍鼓の音は天を震わせ、歓声は谷を動かすほどだった。一度の戦で夏侯淵を討ち取り、大勝利をもたらした。征西将軍に昇進した。(『黄忠伝』)

劉備は夜中に夏侯淵の陣の逆茂木(防壁)に火を放った。夏侯淵は張郃に東を守らせ、自身は南へ向かった。劉備は張郃を撃破し、夏侯淵が半数の兵を救援に送った隙をついて襲撃し、討ち取った。(『夏侯淵伝』)

「趙雲別伝」に曰く。
定軍山の戦い後、黄忠は魏軍の輸送隊の攻撃へ向かったが、定刻を過ぎても戻らなかった。
趙雲は様子を探りに数十騎で出撃し、魏の大軍と出くわした。撃退したが、なおも陣に迫られるとあえて門を開いて待ち構え、罠を疑った魏軍は撤退した。劉備は「趙雲の身体は全て肝っ玉だ」と称えた。(『趙雲伝』)

同年、劉備を漢中王に推挙する上表に征西将軍として連名した。(『先主伝』)

劉備は漢中王に即位すると黄忠を後将軍に起用しようとした。
諸葛亮は「黄忠の名声人望はもともと関羽・馬超に及ばないのに急に同列にしたら、戦功を間近で見た馬超・張飛はまだしも関羽は納得しないでしょう」と諌めたが、劉備は自ら関羽に説明すると言いそれを退けた。(『黄忠伝』)

関羽も前将軍に任じられたが黄忠が後将軍だと聞くと「大の男が老兵と同列になるものか」と怒った。
使者の費詩(ひし)は「王業は一人では樹立できません。一時の功績で黄忠が高位になったとしても、王(劉備)の心中であなたが黄忠と同等のはずがありません。そもそもあなたと王は一心同体で喜びも悲しみも、災いも幸いもともにされる間柄です。官位や爵位の多少を気にすることはないでしょう。私は一介の使者ですから辞退されるならこのまま帰りますが、残念に思います。おそらく後悔されるでしょう」と諌めた。関羽は大いに反省し、任命を受けた。(『費詩伝』)

かくして関羽・張飛らと同格になり、関内侯に封じられた。
翌220年に没し、剛侯と諡された。
子の黄叙(こうじょ)に先立たれており、後継ぎはいなかった。(『黄忠伝』)

260年、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に諡号が追贈されたとあり、剛侯と諡されたのはこの年だろう。(『後主伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「義に厚い壮士で、敵の鋒先を砕き難局を克服し、功業を打ち立てた当時の重鎮」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「黄忠・趙雲が果敢・勇猛さによって武名を馳せたのは灌嬰・夏侯嬰(※劉邦配下の猛将)に並ぶ」と評した。

「演義」では五虎大将の一人として脚色され、関羽と互角に一騎打ちしたり、夷陵の戦いで戦死する最期が描かれた。