高柔  魏の最長老



高柔(こうじゅう)字は文恵(ぶんけい)
兗州陳留郡圉県の人(174~263)

魏の臣。

父の高靖(こうせい)は益州蜀郡の都尉に赴任し、留守を預かる高柔は郷里の人々へ「陳留郡は四方から攻撃にさらされる土地で、兗州刺史の曹操も逆に四方への進撃を目論み、陳留太守の張邈(ちょうばく)はその隙を狙っている」と対策を講じるよう呼び掛けた。しかし曹操と張邈は親しく、高柔も年少だったため誰も耳を貸さなかった。
(※194年、張邈は曹操の留守をついて挙兵し、高柔の懸念は的中する)(『高柔伝』)

20歳頃、王脩(おうしゅう)に評価された。王基(おうき)も童子の頃に見出され、ともに昇進したため人を見る目を称えられた。(『王脩伝』)

従兄の高幹(こうかん)に招かれ、一族をあげて河北へ移住した。父の高靖が益州で没すると、当時は道が途絶し略奪も横行していたが、危険を冒して益州まで赴き遺体を引き取った。辛酸を嘗め尽くし3年掛けて帰還した。
「謝承後漢書」に曰く、高幹は従父にあたる。(※裴松之もどちらが正しいかわからないと記す)

河北を制圧した曹操により菅県長に任じられた。汚職を犯していた役人は高名な高柔を恐れ逃亡したが、「前漢の邴吉は役人に非行があっても赦した。ましてや彼らは私に対して過ちを犯したわけでもない」と言い復職させた。みな反省し立派な役人となった。
高幹はいったん曹操に降伏したが、後に反乱した。曹操は高柔も始末しようと考え、刺奸令史に任じて過失を犯すのを待ったが、法を適格に運用し裁判を滞りなく行ったため、かえって丞相倉曹属に抜擢した。
「魏氏春秋」に曰く、高柔は徹夜で仕事をし、文書を膝に抱え込んで寝るほどだった。視察に出た曹操はそれを見て感心し、上着を掛けてやり、抜擢した。

211年、曹操は鍾繇(しょうよう)に命じて漢中の張魯(ちょうろ)を攻撃させようとしたが、高柔は「みだりに兵を動かせば、涼州の馬超・韓遂(かんすい)が自分達が討伐されると思い決起します。先に三輔を平定すれば漢中は兵を使わずとも降伏します」と諌めた。はたして馬超・韓遂は挙兵した。

213年、魏が建国されると尚書郎となり、丞相理曹属に転任した。辞令には「君の清らかな識見は公平妥当であり法典に明るい。乱用されぬよう努めよ」とある。
合肥の戦いの際に宋金(そうきん)が逃亡した。旧来の法では逃亡兵の妻子が厳しく取り締まられたが、それでも逃亡が相次いだたため曹操は刑を重くしていた。
宋金の母と妻と弟2人は奴隷に落とされ、さらに処刑を建議された。高柔は「逃亡は憎むべきですが後悔する者もおり、刑を軽くすべきです。妻子が赦されれば亡命先の敵国は逃亡兵に不信の念を抱き、逃亡兵も帰参を考えます。これ以上刑を重くすると、逃亡兵を見逃した者も処刑することになり、そうなれば連れ立って一斉に逃亡しようと考える者が現れます」と反対した。
曹操も納得して法を改め、宋金の家族を赦した。多くの者がこれにより助かった。

潁川太守に昇進し、都に戻り丞相法曹掾となった。
当時、廬洪(ろこう)・趙達(ちょうたつ)が校事(監察官)を務めていたが、高柔は「上司が部下を信頼せず、また廬洪・趙達は自身の愛憎で処置を決めています」と処分を求めた。
だが曹操は「私は君よりも趙達らを理解している。賢人君子には摘発はできないのだ」と却下したが、後に趙達らの汚職が発覚した。曹操は彼らを処刑し、高柔に謝った。

220年、曹丕が帝位につくと治書侍御史となり、関内侯に封じられた。治書執法に転任した。
民衆の間で流言飛語がなされると、曹丕はそれを密告した者に賞金を与え、流布した者を殺した。高柔はかえって誣告を増やすだけだと反対し、はじめ曹丕も従わなかったが、その通りに誣告が増えたため「密告者は密告された者の罪で処罰する」と布告し、誣告は絶えた。
校事の劉慈(りゅうじ)らは数年の間に5桁に上る官民の罪を摘発していたが、高柔はその虚実を明白にするよう要請し、些細な罪は罰金だけに留めさせた。
223年、廷尉に上った。
はじめ三公は役職だけで職務が無かったため、朝政に参与させるよう上奏し認められた。
曹丕はかねてから鮑勛(ほうくん)を憎み、法を曲げて処刑しようとしたが、高柔は法を盾に勅命に従わなかった。曹丕はとうとう高柔を出頭させて足止めし、その隙に拷問して鮑勛を殺させた後に解放した。(『高柔伝』)

鍾繇らとともに鮑勛の放免を願い出たが却下された。(『鮑勛伝』)

226年、曹叡が帝位につくと延寿亭侯に進んだ。
経典に明るい博士の任期が短すぎて教育に当たれないため、学問に明るい者を序列にとらわれず博士にするよう上奏し認められた。
曹叡が宮殿造営に励み、後宮に多数の女子を入れさせたが世継ぎに恵まれないでいると、故事を引いて諌めた。曹叡は「真心をもって気に掛け常に良い言葉を述べてくれるのは存じている。これ以外のことも具申してくれ」と返答した。(※従わなかった)

当時、狩猟に関する法は厳しく、劉亀(りゅうき)が天子の狩猟場を利用したことを、配下の張京(ちょうけい)が密告した。
曹叡は張京の名を伏せて劉亀の処刑を命じたが、高柔は密告者の名を明かすよう求めた。曹叡は「廷尉は命令通りに処刑すればいい。私がでたらめに逮捕したとでも言うのか」と激怒したが、高柔は「廷尉は天下の公平を保つ要です。天子の喜怒で法を破壊できません」と厳しい態度で繰り返し求めた。曹叡もやがて非を認め名を明かすと、劉亀・張京を法に照らして処罰した。

当時、親が死去した下役人は100日で服喪から復帰する規定になっていた。解弘(かいこう)は重病を理由に延長を願い出たが「古の孝子でもないのに毀(服喪により痩せ衰えること)などと言うのか」と曹叡は怒り、逮捕させた。
高柔は引見すると本当に痩せ衰えていたため寛大な処置を取るよう具申し、曹叡も孝行を認めた。

237年、公孫淵(こうそんえん)が反乱すると、人質として都にいた兄の公孫晃(こうそんこう)が連座で捕らえられた。曹叡は公開処刑するにはしのびなく獄中で殺そうとしたが、高柔は「処刑は当然ですが、公孫晃は以前から公孫淵に反乱の兆しがあると述べていたといいます。それが事実ならば釈放を考えるべきで、事実を明らかにする前に始末しては疑念を残します」と反対した。
曹叡は聞き入れず、公孫晃と妻子を自害させ、手厚く葬った。(※孫盛はそもそも人質制度がおかしく高柔はそれを批判すべきだったと言い、裴松之は判決を迫られている時に机上の空論をしている場合かと反駁する)

当時、天子の狩猟場の鹿を殺したら処刑されたため、鹿が近隣に大きな被害を与えていたため法改正するよう訴えた。
「魏臣名奏」に曰く、高柔は「陛下は鹿が繁殖するのを待って役立てようとしているのでしょうが、私の計算では成り立ちません。狩猟場におおよそ虎が600匹、狼が500匹、狐が1万匹います。虎1匹につき3日で1匹の鹿を食べるとすれば1年で7万2千匹が食べられます。狼10匹につき1日で1匹の鹿を食べるとすれば1年で1万8千匹が食べられます。狐10匹につき1日で子鹿1匹を食べるとすれば1年で12万匹が食べられます。これでは鹿は一向に増えません」と計算した。

竇礼(とうれい)が外出したまま帰らず、逃亡とみなされ妻の盈(えい)ら家族は奴隷の身分に落とされた。
盈は冤罪を訴えたが聞く耳持たれず、高柔に泣きつき「夫は身寄りがなく、世話になった老婆を母として養い、子供をよくかわいがった人で、軽はずみに家族を捨てたりしません」と言った。
高柔は竇礼が誰かに金を貸したか尋ね、焦子文(しょうしぶん)が借りたまま返さないと聞くと、たまたま別の事件で投獄されていた焦子文を尋問した。その態度から竇礼を殺したことを見抜き、遺体を埋めた場所を白状させ、盈ら家族の身分を元に戻させた。(『高柔伝』)

245年、廷尉を務めること23年、太常に転任し、10日後に司空に上った。
248年、司徒に移った。(『高柔伝』・『斉王紀』)

249年、司馬懿が大将軍の曹爽(そうそう)を粛清すると、郭太后(かくたいこう)は詔勅により高柔を仮節行大将軍事とし、その軍営を抑えさせた。司馬懿は「君は周勃(前漢で専横を極めた一族を滅ぼし、朝廷に実権を取り戻させた名臣)となってくれ」と頼んだ。その功により万歳亭侯に進んだ。(『高柔伝』)

「王沈魏書」に曰く。
254年、曹芳の廃位を求める上奏に司徒・万歳亭侯として連名した。

兼太尉として曹芳を廃位させる使者を務めた。(『斉王紀』)

同年、曹髦が帝位につくと安国侯に進んだ。
256年、太尉に転任し三公全てを歴任した。(『高柔伝』・『高貴郷公紀』)

260年、曹髦が没すると司馬孚(しばふ)らと連名で王礼で葬るよう郭太后に言上し認められた。(『高貴郷公紀』)

同年、曹奐が帝位につくと4千戸に加増され、2人の子が列侯された。
263年、90歳で没し元侯と諡された。孫の高渾(こうこん)が後を継いだ。
咸熙年間(264~265)に五等級の爵位制度が設けられると、改めて功績を採り上げられ高渾も昌陸子に取り立てられた。

「晋諸公賛」に曰く。
長男の高儁(こうしゅん)は大将軍掾に、次男の高誕(こうたん)は三州の刺史と太僕を歴任した。
三男の高光(こうこう)は年少の頃から家業(廷尉)を学び、法に明るくやがて父と同じ廷尉に上った。

陳寿は「法政に明るく良く宰相を務めた。20年に渡り勤め上げ元老として在職のまま亡くなったのは、(老齢により潔く身を引いた)徐邈(じょばく)・常林(じょうりん)と比べて瑕疵である」と評した。

「演義」では曹爽の粛清の際に大将軍を代行した場面にしか登場しない。