顧雍 呉を支えた月見草

顧雍(こよう)字は元歎(げんたん)
揚州呉郡呉県の人(168~243)
呉の臣。
難を避け呉へ疎開した蔡邕(さいよう)から琴と学問を伝授された。
「江表伝」に曰く、顧雍は心を集中して乱れることなく、頭の回転が早く教えやすかった。蔡邕は非凡さを評価し「あなたはきっと大成されるから、私の名を贈りたい」と言った。(※邕と雍は音も意味も同じ)
「呉録」に曰く、字の元歎も「蔡邕も賛歎する」から名付けられた。
州と郡に推挙され20歳そこそこで合肥県長となり、婁・曲阿・上虞と各地の長官を歴任し治績を上げた。
孫権は会稽太守に任じられると顧雍を郡丞とし職務を代行させた。反乱勢力を掃討して官民の支持を受け、数年後に孫権のもとへ戻り左司馬となった。
220年、孫権が呉王に封じられるとやがて大理奉常となり、尚書令を担当し陽遂郷侯に封じられた。顧雍は列侯されたのに何も言わず、家人は他者からそれを聞かされ驚いた。
225年、故郷から母を都へ迎えると、孫権自ら出向いて親しく拝謁し、大臣や太子も揃って祝賀した。
酒も飲まず寡黙だが行いは常に適切で、孫権は「顧雍は無口だが口を開けば必ず的を射る」と賛嘆した。酒席でも人々は顧雍の目を気にして羽目を外さず、孫権は「顧雍がいると酒を楽しめない」とぼやいた。
同年、太常に転じ醴陵侯に進んだ。孫邵(そんしょう)が没すると丞相を継ぎ平尚書事となった。(『顧雍伝』)
はじめに丞相が置かれた時、誰もが張昭(ちょうしょう)が適任だと考えたが、孫権は張昭は現在の責務が重大であるとして孫邵を任命した。孫邵も没すると今度こそ張昭をと推挙されたが「丞相の職務は多忙であり、剛直な彼は意見が通らないと行き違いを起こす」として孫権は顧雍を任命した。(『張昭伝』)
人材を登用するにあたっては適材適所かだけを考え感情に左右されず、民衆からも意見を求め、優れていればひそかに孫権に知らせた。採用されれば孫権の発案だと言い、却下されれば決して何も言わず、孫権に重んじられた。
意見を述べる時には態度こそ穏やかだが、正しいと信じることでは一歩も引かなかった。張昭が刑罰の軽減を訴えた時、孫権は不服でしばらく黙っていたが、顧雍も同意するとしぶしぶ了承した。
「江表伝」に曰く。
孫権は常に顧雍のもとへ中書郎を送って意見を求め、同意されればその場で討議させた。顧雍は同意する時には酒食を用意し、できない時には厳しい顔で何も言わず、何も振る舞わなかったため、中書郎はその様子から意思を察した。孫権は「顧雍が喜んだなら時宜にかなっており、無言ならまた考え直すべきなのだ」と言うほど信頼を置いていた。
前線では奇策を出してくる者も多かったが、顧雍は「兵法では小利を求めることを戒めます。これらの策は功名心に逸ったもので国家のためを思ったものではありません」と言い、孫権も同意した。軍事・政治についての意見は常に孫権に直接伝え、他に漏らさなかった。
孫権と顧雍は縁戚でもあり、顧雍と孫の顧譚(こたん)を酒席に招いた時、顧譚は酔って三度も舞をしいつまでもやめなかった。
顧雍は腹を立て、翌日に顧譚を呼びつけ「お前は国家に対してどんな功績があったのか。家柄で信任されているだけだ。酒が入っていたとはいえ慎みを忘れ謙虚さを欠くな。我が家を損なうのはきっとお前だ」と叱責し、背を向けて寝た。顧譚は2時間立ち尽くしてようやく辞去を許された。(『顧雍伝』)
230年、顧雍らは孫権の次男の孫慮(そんりょ)を称賛し王位につけるよう上奏した。孫権ははじめ同意しなかったが重ねて推薦され応じた。(『孫慮伝』)
233年、孫権が公孫淵(こうそんえん)へ兵1万とともに使者を送ろうとすると、顧雍ら群臣は「公孫淵は信頼できず、数百人の護衛の兵だけで十分だ」と反対したが、聞き入れられなかった。はたして公孫淵は使者を殺し兵を奪った。
237年、職務を放棄して親の葬儀に駆けつけた者を死刑に処すべきだと詔勅が下され、顧雍も意見をまとめ同意した。孟宗(もうそう)がそれを破ったが、陸遜は「彼は平素から親孝行である」と弁護し、孫権も特例で赦した。これにより形式だけの親孝行を示す悪習は絶えた。(『呉主伝』)
238年、歩夫人(ほふじん)が没すると使持節・丞相・醴陵侯の顧雍が皇后を追贈する使者を務めた。(『孫権歩夫人伝』)
呂壱(りょいつ)・秦博(しんはく)が公文書を取り仕切る職掌を悪用して権力を握り、次々と濡れ衣を着せた時、顧雍も譴責を受けた。後に悪事が発覚すると顧雍が取り調べに当たったが、恨み言の一つも言わず公平に裁き「何か言いたいことがあるのではないか」と重ねて尋ねると呂壱は黙って叩頭した。
懐叙(かいじょ)は呂壱を面罵し侮辱したが、顧雍は「定められた法律に従うべきでそんなことをしてはならない」と咎めた。
徐衆(じょしゅう)は「三国評」で「もし呂壱が偽証したらそれを聞き入れたのか。懐叙は悪を憎む仁義を示したのだ」と言い掛かりを付けた。(『顧雍伝』)
顧雍・朱拠(しゅきょ)らが軟禁された時、謝厷(しゃこう)が呂壱を「顧雍を免職すれば潘濬(はんしゅん)が後を継ぎます。彼はあなたの所業に歯噛みしていますが、任地が遠いから何もできないだけです。今日潘濬が後を継げば、明日あなたに噛み付くでしょう」と脅したため、顧雍らは無事だった。(『潘濬伝』)
呂壱が専横を極めていた時、歩騭(ほしつ)は「裁判と都の近辺のことは顧雍にお尋ねください。陸遜と潘濬も公平で誠意を尽くし事実を突き止めます。彼らを全面的に信任し他者にくちばしを入れさせないでください。彼らは全能ではないにしても生殺与奪の権を勝手に振るいません」と孫権に釘を差していた。(『歩騭伝』)
243年、76歳で没した。宰相を19年務めた。(※ちくま版は66歳と誤記している)
まだ病が重くない頃、孫権は医師の趙泉(ちょうせん)に診察させると、末子の顧済(こせい)を騎都尉に取り立てた。
顧雍はそれを聞くと「趙泉が助からないと診立てたから、私の生きているうちに顧済を官位につけてくれたのだろう」と悲しんだ。
孫権は親しく弔問し粛公と諡した。
長男の顧邵(こしょう)は早逝し、次男の顧裕(こゆう)は不治の病だったため末子の顧済が後を継いだが、顧済は子に恵まれず家は断絶した。
258年、孫休の詔勅により顧雍の功績が改めて採り上げられ、顧裕が醴陵侯を継いだ。
顧譚は顧雍の死の数ヶ月後に平尚書事を継ぐなど重んじられたが、二宮の変の巻き添えで流刑となり命を落とした。
その弟の顧承(こしょう)も孫権自ら「お孫さんは名声に勝る才能だ」と手紙を送るほど有能だったが、やはり顧譚とともに流刑先で没した。
「呉書」に曰く、弟の顧徽(こき)も有能だったが早逝した。(『顧雍伝』)
一説に陸凱(りくがい)は20ヶ条の遺言で孫晧を諌め、その中で「顧雍・歩騭と比べれば万彧(ばんいく)は宰相として全く及ばない」と述べた。(『陸凱伝』)
陸機(りくき)は「弁亡論」で「顧雍・潘濬・呂範(りょはん)・呂岱(りょたい)が行政手腕の才で要職に当たった」と記した。(『孫晧伝』)
陳寿は「父祖以来の業績を基礎としながらも、それを智謀によって運用し栄誉と官位を極めた」と評し、顧邵・顧譚・顧承も称賛し顧譚・顧承の末路を悲しんだ。
「演義」ではあまり目立たないのになぜか丞相になりそのままフェードアウトする謎の人物である。
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