徐幹  建安七子・不朽の人物



徐幹(じょかん)字は偉長(いちょう)
青州北海郡劇県の人(171~218)

魏の臣。
「王粲伝」に附伝される。
建安七子の一人。

曹丕や他の建安七子と友人として親交を結び、司空軍謀祭酒掾属・五官中郎将文学となった。

「先賢行状」に曰く。
清潔で静かな人柄で、道を体得し、6つの徳行を修めていた。聡明で広い知識を持ち、筆を執れば文章を作り、官位や俸禄を軽んじ、栄誉に執着しなかった。
建安年間(196~220)、曹操は旌を用いて任命する栄誉を与えたが、病により沙汰止みとなった。
後に上艾県長に任命されたが、それも病で赴任しなかった。

217年、疫病により没した。
建安七子のうち4人が同時期に没し、曹丕は呉質(ごしつ)への手紙で「古今の文人は細かい作法を守らず、名誉・節操に欠けるが徐幹だけは教養と質朴さを具え、恬淡無欲で隠棲の志を抱く、調和の取れた君子だった。
「中論」20篇を著したが、文辞・内容ともに典雅で後世に伝えるに足るもので、不朽の人物である」と振り返った。

また曹丕は「典論」では、「現在に文学者と呼べるのは徐幹ら7人だけである。徐幹は時には優れた気質を示すが、しかし王粲(おうさん)の相手ではない」と評した。(『王粲伝』)

「典略」に曰く。
曹植(そうしょく)は楊脩(ようしゅう)への手紙で「徐幹は青州で名声をほしいままにした」と評した。
ちなみに楊脩は返書で「曹植は王粲ら(建安七子)を超えた」と述べている。(『陳思王植伝』)

王昶(おうちょう)は子弟への訓戒で「徐幹は高い名声を得ようとせず、軽々しく欲しい物を求めず、淡白な態度を貫き、ただ道義にのみ励んだ。何か評価を下す時には故事を用い、現在のことに直接評価を下さなかった。私は彼を尊敬して重んじており、我が子らには手本として欲しい」と述べた。(『王昶伝』)

陳寿は「王粲は曹丕の側近として魏一代の制度を作ったが、虚心にして大きな徳性を持った徐幹の純粋さには及ばない」と評した。

「演義」には登場しない。

「蒼天航路」では建安七子らは詩の着想を求めての無理な従軍がたたり、疫病にかかったと解釈されている。