徐盛  気骨あふれる名将



徐盛(じょせい)字は文嚮(ぶんきょう)
徐州瑯耶郡莒県の人(177~228)

呉の臣。

戦乱を避けて呉郡へ移住し、度胸と義気で知られた。
孫権に仕え別部司馬に任じられ、500の兵を授けられ柴桑県長を務めつつ、江夏太守の黄祖(こうそ)の侵攻を食い止めた。
黄祖の子の黄射(こうしゃ)が数千の兵で攻め寄せた時、徐盛のもとには200の兵しかなかったが、一歩も引かずに戦い1千人を死傷させ、さらに城門を開いて出撃し徹底的に打ち破った。以後、黄射は二度と侵攻しなかった。
この功績により校尉となり、蕪湖県令となった。

臨城県の山越を討伐し、中郎将となり、兵の監督と選抜を司った。
曹操が濡須を攻めた時、徐盛の乗る船が風にあおられ、敵方の岸辺で座礁した。諸将が恐れて船を下りられない中、徐盛だけが果敢に突撃を掛けて敵を蹴散らし、風がやむと帰還した。孫権は勇敢さを大いに称えた。(『徐盛伝』)

蔣欽(しょうきん)が討伐に出ている間に、蕪湖県令の徐盛は(罪を犯した)蔣欽の配下を捕らえ、処刑しようとしたが、孫権は蔣欽の留守の間にやるべきではないと止めた。以来、徐盛は蔣欽に報復されるのではないかと疑心暗鬼となった。
濡須の戦いで蔣欽は総指揮を任され、徐盛はいよいよ報復されると常にびくびくしていたが、蔣欽は逆にしばしば徐盛を称賛した。徐盛は心服し、人々も蔣欽を称えた。

「江表伝」に曰く。
孫権が蔣欽に「徐盛はかつてあなたをあげつらったが、あなたは気にせず徐盛を推挙する。故事にならったのか」と尋ねると、蔣欽は「推挙には私怨を交えないと聞きます。徐盛は真心をもって勤めに励み、大胆で見通しが利き、実務能力もあり、1万の兵を指揮するに相応しい人物です。天下統一は未だならず、私には国家のために人材を探す義務があります。どうして私怨で有能な人材を隠したりしましょう」と答えた。(『蔣欽伝』)

周泰が濡須督となったが、指揮下の朱然(しゅぜん)・徐盛らは彼を侮り指示に従わなかった。そこで孫権は自ら濡須を訪れ宴会を開くと、周泰にもろ肌脱がせ、傷跡を指差しては過去の戦いの思い出を話させた。そして御蓋(君主の使う日傘)を授けると、徐盛・朱然は孫権の信頼と周泰の功績を知り、指示に従うようになった。(『周泰伝』)

215年、合肥の戦いで張遼の急襲を受け、陳武(ちんぶ)が戦死し、宋謙(そうけん)・徐盛の兵は我先にと逃げ出した。後方にいた潘璋(はんしょう)は前線に駆けつけると、逃げようとした宋謙・徐盛の兵を2人殺した。逃げても潘璋に殺されると察した兵らは態勢を立て直した。(『潘璋伝』)

徐盛は負傷し軍旗を奪われたが、賀斉(がせい)が奪い返した。(『賀斉伝』)

221年、孫権が魏に降ると、邢貞(けいてい)が孫権を呉王に封じる使者として訪れた。孫権は自ら出迎え、邢貞が傲慢に振る舞うと、張昭(ちょうしょう)と徐盛は憤激し「我々が身命を賭して国に尽くし、魏・蜀を併呑できなかったから、我が君(孫権)に邢貞などと盟約を結ばせてしまった。恥ずべきことだ」と号泣した。
邢貞はそれを聞くと「江東の将や宰相がこのようでは、呉はいつまでも屈してはいまい」と言った。

建武将軍に上り、都亭侯に封じられ、廬江太守を務め、臨城県を領邑として与えられた。
夷陵の戦いでも活躍し、兵を向けるところことごとく手柄を立てた。(『徐盛伝』)

蜀軍を撃破すると徐盛・潘璋・宋謙らは劉備を間違いなく捕らえられると、追撃するよう上表したが、陸遜は魏がこの隙に呉へ侵攻しようとしていると読み、的中させた。(『陸遜伝』)

222年、(魏が盟約を破り)曹休(そうきゅう)が洞口を攻めると、徐盛・全琮(ぜんそう)らが迎撃した。
突風により大半の水夫が溺死したが、残った兵をまとめて寡勢で大軍を防ぎ、撤退させた。敵将の尹盧(いんろ)を討ち取り、数百の首級と捕虜を得た。
安東将軍に上り、蕪湖侯に進んだ。

224年、曹丕が大軍で長江を渡ろうとすると、徐盛は偽の城壁を数百里に渡って設け、偽物だとばれないよう軍船で近づけない策を立てた。諸将は反対したが強硬に主張して造らせると、曹丕はまんまと騙され、長江も増水したため撤退した。
「魏氏春秋」に曰く、曹丕は「魏には騎兵隊が1千もあるが、これでは用いることすらできない」と嘆息した。(『呉主伝』・『徐盛伝』)

黄武年間(222~229)に没した。
子の徐楷(じょかい)が兵と爵位を継いだ。(『徐盛伝』)

陳寿は徐盛を蔣欽・周泰・陳武・甘寧・凌統・潘璋・丁奉らと同伝に収め「みな江南の勇猛な臣であり、孫氏が手厚く遇した」と評した。

「演義」でも邢貞への激昂や曹丕への偽装工作も描かれ、魏との戦いでは若輩の孫韶(そんしょう)に消極的な作戦を批判され処刑を命じるが、孫権に仲裁され取りやめると、血気にはやって強襲を仕掛ける孫韶を丁奉に援護させ、ともに大戦果を上げる機転も見せ、石亭の戦いでも活躍した。
蔣欽にびくついたり、周泰を侮ったり、合肥の戦いで軍旗を奪われたり兵が逃げたりした失態はことごとくカットされ、「演義」では何かと不遇な呉の臣の中では珍しく扱いが良い。