常林 鞭打ちの血が騒ぐ

常林(じょうりん)字は伯槐(はくかい)
司隸河内郡温県の人(??~??)
魏の臣。
7歳の時、父の友人が訪れ、「伯先(はくせん ※父の字)はいるか。お前はなぜ拝礼しないのか」と言われると、常林は「拝礼すべき客でも、父を字で呼ぶ無礼な相手にはする必要はありません」と答え、一同を感心させた。
「魏略」に曰く。
家柄は低く貧乏だったが、人の施しは受けなかった。学問を好み、太学に入りながら耕作を続けた。妻は自ら常林へ弁当を届け、常林は田畑にいても賓客に対するように敬意をもって妻に接した。
河内太守の王匡(おうきょう)は属県へ配下を送って官民の罪を探らせ、金銭や穀物を没収して処罰し、従わないと一族皆殺しにし威厳を高めていた。
常林の叔父が食客を鞭打ちした罪で逮捕され、一族が恐慌をきたすと、常林は王匡と同郷の胡母彪(こぼひょう)を訪ね「河内郡は人材豊富で、もし勇武の才を持つ者が賊徒を討伐しようとすればそれに応じますが、恩徳がなければ滅亡が訪れるでしょう」と言い、叔父が拘留されていることを伝えた。胡母彪は王匡を叱責し、叔父は解放された。
常林は報復を恐れて上党郡へ逃げ、山奥で耕作して暮らした。旱害や蝗害が起こったが豊作だったため、近隣の人々を集め米を配った。
名家の陳延(ちんえん)を頼ったが、上党太守の張楊(ちょうよう)は陳氏の娘を見初め、財産を奪おうとした。常林は陳氏の一族を引き連れて戦い、60日に渡り包囲されたが策略で守りきった。(『常林伝』)
上党郡にいた時、仲長統(ちゅうちょうとう)と親交を結び、「仲長統は独立不羈の人柄で勇敢に直言し、小さな節義にこだわらず、諸郡に招聘されても常に病と称して辞退した」と評した。(『劉劭伝』)
并州刺史の高幹(こうかん)に騎都尉に任じられたが辞退した。
曹操が高幹を討伐し、代わって刺史となった梁習(りょうしゅう)に推挙され、南和県長に取り立てられ、治績を上げた。
博陵太守、幽州刺史と昇進し、いずれも功績あった。
曹丕は五官中郎将になると功曹に任命した。
211年、曹操が馬超を討伐した時、河間郡で田銀(でんぎん)・蘇伯(そはく)が反乱した。
留守をあずかる曹丕は自ら討伐しようとしたが、常林は「私は博陵太守・幽州刺史を務めたので当地のことはよく知っています。民は争いを嫌い、田銀・蘇伯は犬や羊が集まったようなもので、智力は小さいのに野心が大きく、害をなしません。あなたは天下の抑えであり、軽はずみに遠征しては、勝っても武威を発揮することにはなりません」と反対し、曹丕は配下を討伐に派遣した。
平原太守・魏郡東部都尉となり、都に戻り丞相東曹属となった。
213年、魏が建国されると尚書となった。
220年、曹丕が帝位につくと少府に上り、楽陽亭侯に封じられ、大司農に転任した。
「魏略」に曰く。
常林は清廉潔白で職務にあたっては厳格だった。
崔林(さいりん)の役所は少府の役所の向かいにあり、常林が夜に小役人を鞭打ちし、悲鳴が明け方まで続き、闊達な崔林は困っていた。
道で常林と行き会い「あなたは廷尉になったそうですね」と聞いた。常林が首を振ると「廷尉でもないのにどうして囚人を拷問しているのですか?」とからかった。
常林は恥じ入ったが、自分を抑えられず苛烈な性格は変わらなかった。
226年、曹叡が帝位につくと高陽郷侯に進み、光禄勲・太常に転任した。
同県出身の司馬懿は先輩に敬意を払い、いつも常林に拝礼した。ある人が「司馬公は高貴な方で、やめさせるべきです」と忠告したが、常林は「司馬公は長幼の序を大切にされ、若者に手本を見せているのだ。高貴さは私の恐れるところではないし、拝礼も私にはどうこうできない」と答え、辟易させた。
「魏略」に曰く。
常林はかつて司馬懿の父と親しく、そのため司馬懿はいつも拝礼した。常林は「あなたは高貴な身分です。やめてください」と止めた。後に司徒が欠員になると、司馬懿は常林を任命したいと考えた。
(※裴松之は「本伝と反対の話だが、常林は権力者や身分の高い者に遠慮しない人柄だから信じ難い」と指摘する)
朝廷は節操あり清く気高い常林を三公にすべきだと議論したが、重病と称し辞退した。(『常林伝』)
司徒が欠員になると曹叡は盧毓(ろいく)に候補を挙げさせた。まず管寧(かんねい)が挙げられたが却下し、次いで韓曁(かんき)・崔林・常林が挙げられ、韓曁が選ばれた。常林は「誠実で純粋」と評された。(『盧毓伝』)
光禄大夫に任命され、83歳で没した。
驃騎将軍を追贈され、三公の礼で葬られ、貞侯と諡された。
子の常旹(じょうじ)が後を継いだが、法を破り処刑され、下の子の常静(じょうせい)が爵位を継いだ。
「魏略」では常林ら4人を「清介伝」に収録する。清介は「潔癖すぎて度量が狭い」の意である。(『常林伝』)
陳寿は「平素から純粋・堅固だった」と評し、また韓曁・高柔(こうじゅう)を「よく宰相を務めたが晩年にも地位に就いたのは、徐邈(じょばく)・常林と比較して瑕である」と評した。
「演義」には登場しない。
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