崔琰  曹操を悪役にした男



崔琰(さいえん)字は季珪(きけい)
冀州清河郡東武城県の人(163~216)

魏の臣。
生年は黄巾賊の北海郡への侵攻(191年)から推測した。

若い頃は朴訥な人柄で剣術を好んだ。
23歳の時(185年)、郷の正規兵となり、学問に目覚めた。
29歳で(191年)公孫方(こうそんほう)とともに鄭玄(じょうげん)に師事した。1年も経たない内に黄巾賊が北海郡へ攻め寄せ、師弟は山へ逃げた。食料が不足したため鄭玄は弟子を断り、崔琰も退学したが盗賊に道を阻まれ帰郷できず、各地を転々とした末に揚州の寿春に着いた。4年を経てようやく帰郷し、琴と書物を楽しみとして暮らした。

袁紹に招聘され仕官した。配下が墳墓を略奪していたのを諌め、騎都尉に任じられた。
200年、官渡の戦いに際し曹操が擁する献帝を推戴するよう諌めたが聞き入れられなかった。
袁紹の死後、子の袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)は争って崔琰を味方に引き入れようとした。仮病で断ると投獄されたが、陰夔(いんき)と陳琳(ちんりん)の助命活動により処刑を免れた。

袁氏勢力を平らげ冀州刺史となった曹操に別駕従事に招かれた。曹操が「戸籍を調べたが冀州は大きく30万の兵が得られる」と言うと、崔琰は「世は乱れ冀州も戦乱に遭いました。民の苦しみを救ったという話もまだ聞かないのに、何人の兵が得られるか調べるのを優先するのは、民の望んだことでしょうか」と諌めた。
曹操は陳謝したが、周囲の者は強烈な諫言に怒りを恐れ顔面蒼白となった。
曹操は并州征伐に向かい、崔琰を留守に残し曹丕を助けさせた。曹丕は狩猟に熱中しそのことばかり考えていたが、崔琰に諌められ狩猟の道具を壊した。

曹操が丞相に上ると東曹、西曹の属官となり徴事になった。曹操は東曹属の任命に際し「伯夷の風格、史魚の誠実さがあり、人々に思慕・尊重され時代を指導できる人物」と称えた。(『崔琰伝』)

邴原(へいげん)・張範(ちょうはん)が招聘されると東曹掾の崔琰は(彼らがいれば自分は不要と)官を辞して推挙しようとした。(『邴原伝』)

213年、魏が建国されると尚書となった。当時まだ太子が立てられず、曹丕と曹植(そうしょく)のどちらにするか悩んだ曹操は封緘した文書で様々な人々へ内密に相談した。崔琰だけが封をせず返書をし「年長の曹丕を選ぶのが当然です。私は死をもって主張します」と言った。崔琰の姪(兄の子)は曹植に嫁いでいたが、公正な態度に曹操は感嘆し、中尉に昇進させた。

「世語」に曰く、曹植の妻は規則に反した(豪奢な)服を着ていたため、曹操に見咎められ自害させられた。

声も容姿も気品ありのびやかで、明るく広やかな容貌に4尺の髭をたくわえ非常に威厳があった。朝臣に仰ぎ慕われ、曹操さえ遠慮し敬意を払った。

「先賢行状」に曰く。
清潔忠誠でからりとした人柄で、未来を見通し、公正な生き方を貫き、朝廷では厳正な態度を取った。
魏が実権を握って以来、官吏選抜を委任され10年に渡り人物評価を取り仕切った。文武それぞれで才能ある人々を選び、見識と公平さを称えられた。

親しくしていた司馬朗(しばろう)に、成人したばかりの弟の司馬懿にはあなたも及ばないと言った。司馬朗は同意しなかったが、崔琰は以後もそれを持論とした。
従弟の崔林(さいりん)は名声がなく一族からも軽視されていたが「いわゆる大器晩成で最後は大いに出世する」と評した。出仕したばかりの孫礼(そんれい)・盧毓(ろいく)を「三公の才能を持つ」と評した。崔林・孫礼・盧毓はみな三公に上った。
友人の公孫方と宋階(そうかい)は早逝したが、崔琰は彼らの遺児を我が子のようにかわいがった。
崔琰の人物を見抜く見識と厚い義理人情はこのようだった。(『崔琰伝』)

崔琰の推挙により盧毓は冀州主簿となった。(『盧毓伝』)

崔琰・毛玠(もうかい)が忠義・清廉によって政務を担当し、節倹を第一として官吏選抜を行っていた。和洽(かこう)は節倹さに重きを置きすぎていることを批判した。(『和洽伝』)

以前、楊訓(ようくん)を「才器は不足するが清潔誠実で道義を守る」と推挙したが216年、曹操が魏王に即位した際に楊訓はおもねった上表をし、人々に嘲笑され、崔琰の推挙は誤りだったとささやかれた。
崔琰はその上表を読むと「内容が良いだけだ。時よ時よ。必ず時代は変化する」と返信した。あれこれ言う者は咎めだてしたいだけで、情理を考えていないと非難したつもりだったが、世間を恨み誹謗中傷する意味だと受け取る者がおり、曹操も不遜だと激怒した。
処罰し懲役刑を命じたが、崔琰の言動も態度も変わらず、曹操は「罪人でありながら家に賓客を招き、門前は商人のように賑わい、ミズチのような髭で客を威嚇している」といよいよ腹を立て、ついに死を命じた。

「魏略」に曰く。
ある人が崔琰の手紙を手に入れ、籠に入れて市中を歩いた。崔琰と険悪な人がそれを見かけ報告すると、曹操は崔琰が非難のためにやらせていると判断した。険悪な人はさらに「ミズチのような髭で心穏やかではない様子だ」と伝え、曹操は清潔公平な配下に崔琰の様子を3日間観察するよう命じた。
崔琰は全く気づかず落ち着いた様子で、曹操はいよいよ不遜だと思い死を命じた。崔琰は「全くうかつだった。公(曹操)の気持ちがそこまで来ていたとは知らなかった」と言い、自害した。(『崔琰伝』)

「傅子」に曰く。
崔琰・徐奕(じょえき)は当時を代表する清潔な賢者で、忠誠と信義により朝廷で目立ったが、丁儀(ていぎ)に陥れられた。(『徐奕伝』)

ともに人事を担当していた毛玠は、崔琰が自害させられたことを内心で不快に思った。告発により投獄され、曹操も「毛玠はただ誹謗するだけではなく崔琰の肩を持ち恨んでいる。友人の恨みのために君臣の恩義を損なうのは我慢がならない」と怒ったが、和洽らの弁護により罷免に留められた。(『毛玠伝』・『和洽伝』)

「魏略」に曰く。
崔林と陳羣(ちんぐん)は冀州の人物について論じ、崔林は崔琰を筆頭とした。陳羣は「我が身を保つ智力がなかった」と低評価したが、崔林は「大人物には主君との出会いが必要なのだ。(崔琰と異なり主君に出会えた)君のような人は尊重する価値があるだろうか」と反論した。(『崔琰伝』)

「徐邈(じょばく)は曹操の代には洒脱だと言われたが、後には狷介とされたのはなぜか」と質問された盧欽(ろきん)は「曹操の代には崔琰・毛玠が人事を担当し清廉を重んじたため、人々は車や服を改めたが、徐邈は平素と変わらなかったので洒脱と呼ばれた。今では天下は奢侈に過ぎ、他人を模倣するが、徐邈は何も変わらず、模倣もしないから狷介と呼ばれる。これは世俗の人の恒常性の無さと、徐邈の恒常性を示している」と答えた。(『徐邈伝』)

陳寿は「崔琰は品格最も優れ、鮑勛(ほうくん)は正しさを守り欠点がなかったのにいずれも死を免れなかった。残念だ。明哲(理解力・判断力に優れる)と直温(正しく真っ直ぐでありながら温和)を兼備できる者はほとんどいない」と評した。

「演義」では曹操の魏王即位に反対したため処刑された。
名声高い孔融(こうゆう)・崔琰の処刑は後世の曹操の評価を大いに落とし、創作で悪役にされる決定的な理由の一つである。