山濤 竹林の七賢・絶対引退できない男

山濤(さんとう)字は巨源(きょげん)
司隸河内郡懐県の人(205~283)
魏・晋の臣。
いわゆる竹林の七賢の一人。
父の山曜(さんよう)を早くに亡くし貧しかったが、若くして器量に優れ、確固として他人と群れなかった。老荘を好み、才能をひけらかさず、嵇康(けいこう)や呂安(りょあん)と親密で、後に阮籍(げんせき)と出会い、竹林で固い交友を結んだ。(『晋書 山濤伝』)
山濤は選曹郎に取り立てられると辞退して代わりに嵆康を推挙したが、拒絶された。(『王粲伝』)
後に嵇康が陥れられ処刑される時、子の嵆紹(けいしょう)へ「山濤がいる。お前は父無し子ではない」と言い遺した。(『晋書 山濤伝』)
嵆紹は山濤に推挙され、晋の高官を歴任した。
「晋諸公賛」に曰く、山濤の子の山簡(さんかん)と親しかった。(『王粲伝』)
阮籍の甥で竹林の七賢の阮咸(げんかん)は山濤に推挙されたが、司馬炎は酒好きで軽佻浮薄な阮咸を用いなかった。(『晋書 阮籍伝』)
(※244年、)40歳で仕官し郡の主簿、功曹、上計掾を歴任し、孝廉に挙げられ州に河南従事に招かれた。
石鑒(せきかん)と同僚で宿をともにしており、ある夜、山濤は石鑒を蹴り起こし「寝ている場合か。司馬懿が雌伏している意味がわかるか」と言った。石鑒は「宰相が朝見を3回さぼったら詔勅を下し家に帰らせるだけだ。何を心配している」と言い、山濤は「お前は馬蹄に気をつけろよ」と言い捨て官を辞した。
2年も経たない249年、司馬懿が決起し専横をきわめる曹爽(そうそう)を粛清した。山濤は隠棲した。
司馬師の代になると、その母の張春華(ちょうしゅんか)と従兄弟だったため謁見し、司馬師は「太公望が仕官してきた」と喜び州に命じて秀才に挙げさせ、郎中に任じた。驃騎将軍の王昶(おうちょう)の従事中郎に転じ、趙国相、尚書吏部郎と移った。(『晋書 山濤伝』)
「山濤行状」に曰く、261年に吏部郎となった。(『王粲伝』)
司馬師は皇帝から賜与された服を山濤に与え、山濤の母にも杖を贈った。司馬昭も「山濤は政務を公平にさばき、正しい節義は時勢に適うが、貧しい」と銭と穀物を贈った。
和逌(かてき)、鍾会、裴秀(はいしゅう)らと親しく、鍾会・裴秀は権勢を争ったが、山濤は中立でどちらからも恨まれなかった。
咸熙年間(264~265)のはじめに新沓子に封じられた。
司馬昭の大将軍従事中郎となり265年、蜀を滅ぼした鍾会が反乱した。司馬昭は「西(鍾会)のことは私が片付ける。後方はあなたに全て任せる」と言い、山濤に軍司馬を代行させ、近衛兵500人を与え魏の諸王公のいる鄴の守りを任せ出征した。
相国左長史に転じ、別営を司った。司馬昭は太子の司馬炎に郷里の名士である山濤へ挨拶させた。
司馬昭はかねてから下の子の司馬攸(しばゆう)に目を掛けており、司馬師の後を継がせていたことから裴秀へ「国家の礎を築いたのは兄(司馬師)で、私はその遺業を継いだだけだ。司馬攸を晋王とし、私の死後は実権を兄のもとへ戻したい」と相談したが反対された。
山濤にも意見を聞いたが「長幼を逆にするのは礼に背き不吉です。国家が傾く原因はいつもそれです」と同じく反対された。後継ぎに決まった司馬炎は自ら山濤に拝謁し感謝した。
265年、司馬炎が帝位につくと大鴻臚となり、廃位された曹奐を移送した。
泰始年間(265~275)のはじめ、奉車都尉を加えられ、新沓伯に進んだ。
羊祜(ようこ)が権勢を得ると人々は裴秀を陥れようとし、擁護した山濤は恨まれ冀州刺史・寧遠将軍として左遷された。
当時の冀州に人を推薦し合う気風は無かったが、山濤は人材を発掘し30人余りを推挙しいずれも名声を得たため、大きく改善され仰ぎ慕われた。
北中郎将、鄴城守事と転任し、都に戻り侍中、尚書となった。
老齢の母を養うため引退を願い出たが、司馬炎は「朝夕に薬を支給するから心配せず公務を怠らないように」と詔勅で慰留した。山濤は本心から親孝行したかったため数十回に渡り引退を願った。司馬炎もようやく折れ、常勤ではない議郎に任じ、清廉で倹約に努めたため貧しい山濤に日給や家具を贈った。礼遇と恩給の厚さは並ぶ者がなかった。
後に太常に任じられたが病を理由に辞退し、母が没すると郷里へ帰った。山濤は60歳を過ぎていたが礼の規定を超えて喪に服し、自ら土を背負って母の墓を造り、樹を植えた。
司馬炎は「あなたとともに人事の教化を成し遂げたい。風俗は乱れ人々の心は揺れ動いている。善悪を見極めるべきで、落ち着いて隠居されていては困る。服喪中で忍びないが、仕事は山積みであり、これ以上は待てない」と吏部尚書に任じたが、それも病を理由に断った。
274年、皇后の楊艶(ようえん)が没したため都に戻り、吏部尚書を務めた。数回の登用で内外の人事を一新し、多くの人材を抜擢した。
咸寧年間(275~280)のはじめ、太子少傅に転じ、散騎常侍を加えられた。尚書僕射に任命され、侍中を加えられ、吏部尚書を兼任した。
老齢を理由に再び引退を数十回に渡り願い出て、白褒(はくほう)に職務怠慢だと糾弾されたが、司馬炎は「山濤は病を申告し、私が引退を認めていないだけだ。彼を座らせ仕事をさせれば済む話で、処罰する必要はない」と退けた。
山濤は恐縮し「一人の老臣をえこひいきせず、法に照らし弾劾の通りに処罰してください」と上奏したが、司馬炎は「白褒の糾弾は酷い誤りで、本来は彼こそ処罰すべきだったが、そうすればあなたを脅すことになるからやらなかったのだ。糾弾など何も意に介すことはない。あなたがすぐ職務を遂行すれば良いだけだ」と聞かなかった。
山濤は絶対に引退したいと思い、従弟の妻の服喪を理由に外に出た。司馬炎は「近日中に戻るだろう。賢者を用いないのは私の本意ではない。使者を送って健康を確かめ、具合が悪ければ車で官舎に連れ戻せ」と命じた。山濤はやむなく職務に戻った。
10年余り人事を担当し、欠員が一人出れば即座に数人の候補を内々に司馬炎に伝え、承諾を得てから公式に上奏した。そのため登用される者は必ずしも優秀ではなく、司馬炎の眼鏡にかなった者ばかりで、群臣は山濤が恣意的に人事を操作していると非難した。司馬炎も選考は才能を第一にするよう戒めたが、山濤は涼しい顔で司馬炎の気に入った者だけを選び続けた。1年も経つと群臣も内情を悟って黙った。登用の際に付けた評価は「山公啓事」と呼ばれ尊重された。
朝廷では中立を保ち、皇后の楊芷(ようし)の一族が専横をきわめても、一族を登用したがらなかった。司馬炎に遠回しに何度も専横を諌め、理解は得られたが状況は改善されなかった。
山濤は80歳近くなり「私にわずかでも余力があれば出し惜しみしませんが、もはや老いに耐えられず職務を遂行できません。四海は穏やかで教化は広まり、万民は自ずと正しい道に進んでいます。現状を保てば十分で心配はいりません。君臣の間に虚飾は無いものですから本心を申し上げました」と冠を脱ぎ、裸足になって印綬を返還し引退を願い出た。
司馬炎は「呉の制圧は間近で、万事は端緒についたところだ。ともに粉骨砕身し教化に励もう。君は私の深い思いを理解せずわずかな不調で引退を願っている。わがままは通らないぞ。国家を虚飾でわずらわせてはいけない」と退けた。
何度も繰り返され、衛瓘(えいかん)は「山濤は職務怠慢で、陛下の手を何度わずらわせても従いません。公職にある者として道に背き、もし本当に重篤なら職務を遂行できず、いずれにしろ罷免すべきです」と上奏した。
司馬炎は手ずから衛瓘に詔勅を与え「山濤は極めて慎み深く、私が押し切ろうとしても復帰させられないだけだ。衛瓘はそれを理解しないどころか罪に陥れようとしている。賢者を尊崇する風潮を欠き、私の不徳を重くする行為であり、人々に示しがつかない」と叱責した。山濤はやむなく復帰した。
太康年間(280~289)のはじめ、尚書右僕射に移り、光禄大夫を加えられ、侍中と人事を担当し続けた。
またも引退を願い出たが司馬炎は「どうして朝政を投げ捨て自分の希望だけを叶えようとするのか。なぜ私の誠心が通じないのか。どうすれば真心が伝わるのか」と却下し、同様に繰り返された。
280年、呉を滅ぼし三国統一された。司馬炎は州の兵を無くし、大きな郡に100人、小さな郡に50人の武官を置くだけとした。山濤は盧欽(ろきん)と用兵の根本について論じ、州郡から軍備を除いてはいけないと論じ、その意見は精緻であり、孫呉の兵法を学んでいないにも関わらず全ての発言が孫呉の兵法と一致していた。司馬炎は「天下の名言である」と称えたが、再軍備はされなかった。
永寧年間(301~302)からしばしば内乱や外変が起こったが、州郡に軍備がなく対処できず天下が大いに乱れたのは、まさに山濤の危惧した通りだった。
山濤は司徒を拝命したが固辞した。司馬炎は「70歳を過ぎて徳は盛んにして朝廷の碩老であるから三公を授けた。しかしこれも謙遜して断るとは恐るべきことだ。死ぬまで朝政に参与し私を補佐してくれ」と命じた。
山濤は重ねて「朝廷に仕えること30年余り、私にはわずかな功績もありません。みだりに特別扱いせず引退を認めてください」と願い出たが認められず、床に横たわったまま印綬を受け「死にかけの人間が官庁を汚してよいものか」と言い、病篤くなり家に帰った。
283年に没した。享年79。
莫大な葬礼品を贈られ、康と諡された。
范晷(はんき)らは「山濤の家は10間しかなく手狭です」と訴え、司馬炎は邸宅を建てさせた。
山濤は無位無官の頃、妻の韓氏(かんし)に「飢えや寒さを我慢してくれ。私はいずれ三公に上る。お前が三公の妻に相応しいかは知らないが」と軽口を叩いていた。
高位に上っても倹約に努め、諸侯に並ぶ爵位を得ても側室を置かなかった。賜与や俸給は親類縁者にばらまいて残さなかった。
袁毅(えんき)が汚職で得た金銭を賄賂として公卿に贈った時、山濤も生糸100斤を受け取ったがしまい込んだ。後に袁毅は弾劾され、賄賂を受けた者も摘発された。山濤も生糸を提出したが、数年で埃が積もり開封もされていなかったため罪に問われなかった。
酒を8斗飲むと必ず酔ったため、司馬炎はそれを試そうとし、密かに細工し見た目より多くの酒を飲ませようとしたが、山濤はちょうど8斗飲んだところで止まった。
5人の子がおり、長男の山該(さんがい)が爵位を継いだ。
次男の山淳(さんじゅん)、三男の山允(さんいん)はくる病で身体がとても小さかったが非常に聡明だった。司馬炎は会いたかったが父に意向を聞かれた山允は断り、山濤は自分より優秀だと感じ、重病ゆえ隠棲すると断りを入れた。山淳は出仕せず、山允は(名誉職の?)奉車都尉となった。
末子の山簡は父の風格があったが山濤に評価されず「もう30歳になろうというのに父に認められないとは」と嘆息したが、後に「晋書」で山濤に附伝される名臣となった。(『晋書 山濤伝』)
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