石苞  御者から司徒へ大出世



石苞(せきほう)字は仲容(ちゅうよう)
冀州勃海郡南皮県の人(??~272)

魏・晋の臣。

度量が広く才知があり、格別の美貌だが、些細な節義は気にしなかった。人々は「石仲容の美貌に並ぶ者はない」と評した。
県吏から典農司馬となった。使者の任務についた郭玄信(かくげんしん)は、御者につけられた石苞・鄧艾と10里ほど歩きながら話すと「将来二人とも卿(大臣)になるだろう」と評し、石苞は「下働きの御者がまさか」と信じなかった。
鄴に着くと郭玄信の任務がしばらく掛かるため、市場で鉄を売る仕事をした。市場を仕切る趙元儒(ちょうげんじゅ)はひとの才能を見抜くと評判で、石苞を異才と思い友誼を結び「きっと宰相になる」と評した。これにより石苞の名は知られた。
名声高い許允(きょいん)に県令への斡旋を求めると「あなたは我々と同格の人物だから朝廷に召されるだろう。どうして県令程度を望むのか」と言われた。石苞は許允がここまで自分を認めているとは思いも寄らず嘆息した。

昇進を重ね中護軍の司馬師に仕えた。司馬懿は石苞が品行に欠けると聞き、どうして用いるのかと司馬師を咎めたが「細かな品行には欠けますが国家を経営する才があります。そもそも清廉と有能さは関わりなく、管仲や陳平も品行に問題ありました。石苞が二人に比肩するとまでは言いませんが用いるべき人物です」と返され、司馬懿も納得した。
鄴の典農中郎将に移った。当時は王侯の多くが住み、丁謐(ていひつ)は世を傾けるほど富貴だったが、石苞は彼らを公然と批判しいよいよ称賛された。
東莱・琅邪太守を歴任して法と徳が行き届き、徐州刺史に上った。

252年、東興の戦いで魏軍は呉に大敗したが、石苞だけは無傷で撤退した。司馬昭は節を指差し「これを君に授けて作戦を立てなかったのが悔やまれる」と言い、奮武将軍・仮節・監青州諸軍事に任じた。
257年、諸葛誕の反乱では青州の軍を率い、兗州・徐州の兵を監督した。精鋭を選んで遊軍を作り、呉軍が諸葛誕の救援に現れ輜重隊を残し軽装兵だけで川を渡ったところへ奇襲を仕掛け大破した。胡烈(これつ)が補給物資を全て焼き払い、呉軍は撤退した。
翌258年、諸葛誕を討ち取り制圧すると鎮東将軍に上り、東光侯に封じられ仮節を授けられた。
後に王基(おうき)の後任の都督揚州諸軍事となり朝見した。任地に戻る際に曹髦に挨拶に行くと終日話し込み、司馬昭に「非凡な君主です」と言った。
数日後に曹髦は司馬昭を討とうと挙兵し、逆に討たれた。
石苞は征東大将軍、驃騎将軍に上った。

264年、司馬昭が没すると賈充(かじゅう)・荀勗(じゅんきょく)は葬礼について迷ったが、駆けつけた石苞は「(晋)国家の基礎を築いたのに人臣のまま(帝位につけず)亡くなるとは」と慟哭し、かくして(皇帝と同等に葬るべきだと)葬礼は決まった。
そして陳騫(ちんけん)とともに曹奐へ「天命である」と遠回しに帝位の禅譲を勧め、石苞の貢献は大きかった。
265年、司馬炎が帝位につくと大司馬へ上り、公へ爵位は進み侍中を加えられ、羽蓋や鼓吹を与えられた。
諸葛誕の討伐後から淮南を統治し、兵を訓練して自ら辺境へ足を運び、賞罰を徹底し官民を従えた。

268年、丁奉は石苞が呉に内通しているという偽報を流した。

王琛(おうたん)は低い身分だった石苞を軽蔑し、「宮中の大きな馬がロバになってしまう。大きな石に抑えつけられているから」という流行歌が、石苞が呉と内通し司馬氏に謀叛するという予言だと訴えた。以前に望気者が「東南で反乱が起こる」と予言していたこともあり、司馬炎はひどく石苞を疑った。
ちょうど荊州刺史の胡烈が呉の侵攻の気配を知らせ、石苞はそれに対処すべく砦を築いて水をせき止めたため、司馬炎はいよいよ疑いを強め、羊祜(ようこ)に「呉はいつも東西で連携して侵攻してくるが、こうも偏りがないのはやはり石苞が内通しているからか」と質問した。羊祜は弁護したが疑惑は解けなかった。
さらに石苞の子の石喬(せききょう)を尚書郎に任命したが数日経っても参内せず、ついに司馬炎は石苞を「呉軍の侵攻も確実でないうちに軍備を固め官民を疲弊させた」と罷免したうえ、密かに司馬望(しばぼう)の討伐軍に反乱に備えさせ、司馬伷(しばちゅう)を問責に向かわせた。

石苞に招聘された孫鑠(そんしゃく)は、途中で司馬駿(しばしゅん)に挨拶すると同郷の彼に気に入られ、石苞の討伐令が出ているから巻き込まれないよう注意された。孫鑠はただちにそれを石苞に伝えるとともに一計を案じた。

石苞は孫鑠の案に従い、武装解除して二心がないことを訴えた。司馬炎もようやく誤解に気づき、公の身分のまま(罷免は解かず)家に返した。石苞は自身の不明であると恨まなかった。
司馬炎は「そなたのせいで一族を破滅させるところだったぞ」と石喬を責め、石苞は勘当し出仕を二度と許さなかった。(『晋書 石苞伝』)

269年(『晋書 武帝紀』)、郭廙(かくよく)が復帰を願い、司馬炎は「誠実かつ朗らかで才能あり記録に残すべき功績がある」と石苞を司徒に任じた。
役人に「以前にしくじりを犯し任務をこなせません。既に手厚く遇しています(からこれ以上の重用は不要)」と反対されたが、司馬炎は「呉は軽薄で意志が弱く従わないから国境の守りを固くする必要がある。石苞の計略は多彩であり十分に対処できる。名臣の鄧禹でさえ失敗を犯した。どうして一度の過ちで大徳を隠す必要があるのか」と却下した。
復帰すると農業・養蚕業には賞罰の制度が無いから制定するよう訴えた。司馬炎は「かつて農業は司徒が担当した。必要ならば農政に熟達した者を自由に10人選抜して属官とせよ」と全面的に任せ、忠勤を称えられた。

272年に没した。
陳泰(ちんたい)が没した時と同等に葬らせ、武公と諡した。
あらかじめ葬儀・埋葬を質素にするよう遺言し、子らは従い親戚・旧臣も断り家族だけで弔った。
6人の子がおり、長男は早逝し次男の石喬は勘当されていたため三男の石統(せきとう)が後を継いだ。
臨終前に子らに財産を分けたが、六男の石崇(せきすう)には与えなかった。その母に理由を聞かれると「この子はまだ幼いがいずれ自ら財産を得られる(才がある)」と答えた。
石崇は「石苞伝」に附伝される。重用され富貴を得たがかえってそれにより身を滅ぼした。

275年、石苞は建国の功臣として祀られた。(『晋書 石苞伝』)