薛綜  優れた文章と諫言



薛綜(せつそう)字は敬文(けいぶん)
豫州沛郡竹邑県の人(??~243)

呉の臣。

「呉録」に曰く。
孟嘗君の末裔で、代々刺史や太守を務めた著名な名家だった。若い時から経典に精通し、文章が巧みで才能に優れた。

若い頃、一族を頼り交州へ疎開し、劉煕(りゅうき)に師事した。
交州を治める士燮(ししょう)が孫権に従属すると、孫権に召され五官中郎将となり、合浦・交趾太守を務めた。
当時、交州の開拓は始まったばかりで、交州刺史の呂岱(りょたい)に従い反抗勢力を討伐し、海を渡り九真郡まで進んだ。帰還すると謁者僕射の仕事を代行した。

蜀の使者の張奉(ちょうほう)が闞沢(かんたく)の姓名を意地悪く解釈しからかったが、闞沢は言い返せなかった。すると薛綜が酒を酌してやりながら蜀の字を悪く解釈してやり返した。張奉が呉でやってくれと迫ると即座に良いように解釈し、張奉は返す言葉もなかった。薛綜の言葉と行動はこのように敏捷だった。
なお「江表伝」に費禕(ひい)と諸葛恪(しょかつかく)に登場人物が入れ替わり良く似た逸話がある。

呂岱が交州刺史の任を解かれ都に召されそうになると、後任には匹敵するほど優れた人物を当てるよう交州の情勢を詳しく上疏した。

231年、孫権の次男の孫慮(そんりょ)は鎮軍大将軍となり、半州で開府し、薛綜を長史に任じ事務統括を任せた。また個人的に書物を与えたという。
翌232年正月に孫慮が没すると、都へ戻り賊曹尚書を務め、やがて尚書僕射に上った。

当時、遼東の公孫淵(こうそんえん)がいったん呉に降りながら、また背いて呉の使者を殺し魏へ寝返った。孫権は激怒し自ら討伐しようとしたが、薛綜は「帝王たる者は危険を冒してはなりません。遼東の民は居住地を持たず、攻めても奪う土地も民もなく、海路は危険で、伝染病も蔓延しています」と反対した。群臣の多くも反対したため孫権は取りやめた。

ある年の正月、孫権は春の例祭で祖先に捧げる祝詞を、今まで使っていない文章で作るよう薛綜に命じた。期日は近く急いで書き上げたが、内容ある鮮やかで美しい祝詞ができあがった。孫権はさらに2編作るよう命じたが、それも借り物ではない見事な出来栄えで、人々は口を揃えて褒めそやした。(『薛綜伝』)

237年、諸葛恪が丹陽郡を平定し4万の兵を集めると、薛綜が派遣されて労をねぎらい、文章で称えた。(『諸葛恪伝』)

240年、選曹尚書に移った。
はじめ固辞して顧譚(こたん)に譲ろうとし「私ごときが先に出られるようなものではありません」と言った。薛綜の没後、顧譚が後任となった。(『薛綜伝』・『顧雍伝』)

242年、選曹尚書を兼任したまま孫和(そんか)の太子少傅となった。
闞沢が太傅を務めた。(『薛綜伝』・『孫和伝』)

「呉書」に曰く。
孫権は太子少傅の任命に当たり、紫色の綬(官印の飾り紐)と嚢(官印を入れる袋)を下賜した。薛綜は「紫色は臣下の身に着けるべきものではない」と辞退したが、孫権は「太子は若く、あなたに文化的教養と礼によって育てていただきたい。こうして功労者として沙汰を受けるべき人物が他にいるだろうか」と収めさせた。
薛綜は優れた学者として太子の教育係を務め、官僚の人事も担当し、手厚い待遇を受けていたのである。

243年に没した。
数万言の詩・賦・議論を残し「私載」と名付けられまとめられた。他に「五宗図述」・「二京解」の著書も広く世間に伝わった。

長男の薛珝(せつく)は武勇に優れ、晋に奪われた交趾郡を奪回した。
次男の薛瑩(せつえい)は父譲りの才能を持ち、同じく選曹尚書・太子少傅となった。(『薛綜伝』)

269年、陸凱(りくがい)は死去に際し20項目に渡る諫言を遺したとされ、その中で「胡綜(こそう)・薛綜が行政を委ねられた」と述べた。(『陸凱伝』)

271年、孫晧は薛綜の残した文章を読んで心打たれ、薛瑩に同様の文章を作るよう命じた。薛瑩は見事な詩を作り上げた。(『薛綜伝』)

薛瑩が孫晧の勘気を蒙り投獄されると、陸抗(りくこう)は「父の薛綜は納言(天子と人々の仲介役)を務め、薛瑩もそれを受け継ぎました」と弁護した。(『陸遜伝』)

「王隠晋書」に曰く。
薛瑩の子の薛兼(せつけん)も才能あり、晋の人々に敬われ、呉の出身者としては別格の、中原の名家と変わらない扱いを受けた。薛綜・薛瑩と同じく三代続けて太子少傅を務めた。(『薛綜伝』)

陳寿は「深い学識を具え、主君をしばしば諌め呉にとって有益な臣下だった。薛瑩も立派に父の風を伝えたが、暴虐残酷な主君(孫晧)のもとでしばしば顕貴な位に登ったため、君子たちからその身を危ぶまれた」と評した。

「演義」では赤壁の戦いに際し諸葛亮に議論を挑んで敗北したのが唯一の出番である。
ちなみに史実ではまだその頃は孫権に仕えていない。