司馬炎  三国統一



司馬炎(しばえん)字は安世(あんせい)
司隷河内郡温県の人(236~290)

晋の初代皇帝。
司馬昭と王元姫の長男。司馬懿の孫。

※事績が膨大なため大幅に省略した。他伝から当人の行為をいずれ追記する。

温厚で仁愛深く、落ち着いて思慮深く度量があった。

嘉平年間(249~254)、魏の北平亭侯に封じられ、給事中、奉車都尉、中塁将軍を歴任し、散騎常侍を加えられ、昇進を重ね中護軍、仮節となった。
254年、曹髦が帝位につくと中撫軍に移り、新昌郷侯に進んだ。
264年、司馬昭が王位につくと世子に立てられ、撫軍大将軍、開府となり、相国(司馬昭)を補佐した。

そもそも司馬懿の嫡子は司馬昭の兄の司馬師だったが、男子が生まれないまま没したため、司馬昭が後を継ぎ、司馬炎の弟の司馬攸(しばゆう)に家を継がせていた。そのため司馬昭はいずれ司馬師の血統に地位を返したいと考え、王位を司馬攸に継がせようと思っていたが、何曾(かそう)らに強く諌められ265年、司馬炎を太子に立てた。
同年、司馬昭が急逝すると相国・晋王を継ぎ、ついに曹奐から禅譲を受け帝位についた。

曹奐を陳留王とし、献帝の孫の劉康(りゅうこう)、蜀の皇帝だった劉禅の子を駙馬都尉とし、反乱し処刑された王淩(おうりょう)、鄧艾の家を赦免した。

267年、長子の司馬衷を太子に立てた。
268年、母の王元姫が没した。
269年、雍州・涼州から分割し秦州を設置した。
270年、秦州刺史の胡烈(これつ)が鮮卑の禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)に敗れ戦死した。
271年、涼州刺史の牽弘(けんこう)が異民族に敗れ戦死した。
呉の虞汜(ぐし)・陶璜(とうこう)らにより交趾・九真・日南郡を奪われた。
益州を分割し寧州を設置した。

272年、司馬炎と皇甫陶(こうほとう)が政治をめぐって言い争いになり、鄭徽(ていき)は不敬であるとして処罰を求めたが、司馬炎は「へつらいの無い直言を求めている。へつらいは害だが言い争う臣は害ではない」と逆に鄭徽を罷免した。
益州刺史の皇甫晏(こうほあん)が張弘(ちょうこう)に反乱の濡れ衣を着せられ殺された。真相を暴き張弘を誅殺した。
呉の歩闡(ほせん)が内応したため羊祜(ようこ)らを救援に向かわせたが、陸抗(りくこう)に敗れ、歩闡も処刑された。

274年、幽州を分割し平州を設置した。
皇后の楊艶(ようえん)が没した。
276年、楊艶の従妹の楊芷(ようし)を皇后に立てた。
278年、涼州刺史の楊欣(ようきん)が異民族に敗れ戦死した。

279年、鮮卑の禿髪樹機能が涼州を陥落させた。
王濬(おうしゅん)・王渾(おうこん)・杜預(とよ)らに複数の侵攻路から呉へ攻め入らせた。
馬隆(ばりゅう)が禿髪樹機能を討ち取り、涼州を奪回した。

280年、呉が降伏し三国統一した。
282年、秦州を廃止し、雍州に統合した。
283年、排斥されようとした司馬攸が怒りから病を発し没した。
290年、55歳で没した。

何があっても仁に背かず、直言を好み(厳しく諫言されても)一度も顔色を変えなかった。そして思慮があり決断力があったから三国統一を成し得たのである。
魏の奢侈・過酷な統治を反面教師とし、節倹と寛大さを重んじたが法には一貫性があった。許奇(きょき)の父がかつて司馬師に誅殺されたことから罷免するよう進言されたが、かえって才を評価し抜擢した。
しかし三国統一後は政治は緩み、自身も遊興におぼれた。皇后の一族の楊駿(ようしゅん)らが実権を握り、旧臣は遠ざけられた。
太子の司馬衷に皇帝の器がないことに気付いたが、聡明な孫の司馬遹(しばいつ)に期待し廃立しなかった。
臨終の床につくと司馬亮(しばりょう)に政治を任せようとしたが、楊駿は娘の楊芷と結託して遺言を握り潰し、自らがその地位につき、司馬亮を排斥した。西晋の混乱と滅亡はここから始まったのである。(『晋書 武帝紀』)