司馬師  司馬家の麒麟児・兄



司馬師(しばし)字は子元(しげん)
司隷河内郡温県の人(208~255)

司馬懿と張春華(ちょうしゅんか)の長男。司馬昭の兄。

風采に優れ落ち着きがあって意志強く、人並み外れた知略があった。
若い頃から名声高く夏侯玄(かこうげん)・何晏(かあん)と並び称され、何晏は常々「易経に言う「変化極まりない理に通じ、天下の事業を成就する聖人」とは司馬師のことだ」と言った。

景初年間(237~239)に散騎常侍となり、昇進を重ね中護軍となった。人材登用の法整備し適切な人材を推挙したため悪事が一掃された。
247年、母が没すると喪に服し孝行を称えられた。

249年、司馬懿が実権を握る曹爽(そうそう)の誅殺を企むと、司馬師と二人だけで密議を凝らし、弟の司馬昭さえ決行の日に初めてそれを知った。司馬昭は動揺し落ち着かなかったが、司馬師は何事もないように寝ていた。
夜明けに挙兵すると、司馬師がこの日に備え密かに養っていた3千の兵がどこからか集まって整然と陣を敷き、司馬懿は「極めて優れた子だ」と舌を巻いた。
長平郷侯に封じられ、1千戸を加増され衛将軍に上った。

251年、司馬懿が没し、撫軍大将軍として父の後を継ぎ実権を握った。
252年、大将軍となり侍中を加えられ、持節・都督中外諸軍・録尚書事となった。広く人材を集め、優れた臣下で文武を固め、歴代で整えられた制度をみだりに動かすべきではないと、改革を拒否した。

253年、諸葛恪(しょかつかく)が合肥新城を包囲した。朝臣は青州・徐州への侵攻を恐れ関所を守るべきだと進言したが、司馬師は「諸葛恪は呉の実権を握ったばかりで、力を示すため挙兵しただけで青州・徐州をうかがう余裕はない。兵を分散させず合肥新城だけを守ればよい」と退け、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)に守らせた。
二人は出撃を願い出たが却下し、数ヶ月に渡る防戦の末に諸葛恪は撤退した。司馬師は文欽に退路を断たせ1万の首級を挙げた。

254年、曹芳が李豊(りほう)・張緝(ちょうしゅう)と共謀し、司馬師を排斥し夏侯玄を擁立しようとした。司馬師は事前に察知して李豊を捕らえ難詰すると、罵倒されたためその場で殺し、張緝・夏侯玄を処刑した。
司馬師は張緝の娘の張皇后(ちょうこうごう)の廃位を持ちかけたが、曹芳は拒否し、9千戸を加増し4万戸にしようとしたが断った。
司馬師は警戒を緩めず、郭太后(かくたいこう)を通じて建議し曹芳を廃位した。
次の皇帝に曹拠(そうきょ)を推したが、郭太后は夫(曹叡)の叔父にあたる曹拠に難色を示し(曹叡の甥の)曹髦を推薦した。司馬師は強く反対したが押し切られた。
曹髦が驕った素振りや華美な装飾を見せたため司馬師は諫言し改めさせた。9千戸を加増され4万戸となり、相国に任じられたが、相国だけは固辞した。

255年、毌丘倹と文欽が反乱した。王粛(おうしゅく)・傅嘏(ふか)・鍾会らは司馬師が自ら討伐すべきだと進言し、10万の兵で出撃した。
王基(おうき)に前線の拠点を確保させると、後続の軍を待って進軍を止めた。諸将は攻めるよう言ったが「諸君は(兵法の)その一を知っているがその二を知らない。毌丘倹らに反乱を無理強いされた兵を追い詰めれば牙を剥かれるが、持久戦にすれば戦わずして離反する」と言い、包囲を固めさせた。
そして鄧艾に陽動させると、文欽が罠に掛かった。文欽の子の文鴦(ぶんおう)は18歳ながら全軍随一の勇猛さを誇り、父とともに挟撃しようとしたが、文欽の軍は現れなかった。
文欽は撤退し、追撃を掛けようとすると諸将は反対したが、司馬師は「文欽は息子の合図に応じず戦意を失っている」と却下した。文鴦は「まず敵の勢いをくじかなければ逃げ切れない」と言い、十数騎で突撃し魏軍の先鋒を打ち破った。
もともと司馬師は目に悪性の瘤があったが、この突撃に驚き目玉が飛び出してしまった。兵の動揺を恐れて布団で顔を覆い隠し、ボロボロになるほど噛み締めて痛みをこらえ、側近にすら気づかせなかった。
文欽・文鴦は撃破され呉へ亡命し、毌丘倹も逃走したが捕らえられて斬られ、反乱は鎮圧された。
司馬師は重体となり、都へ帰還中に没した。享年48。

大司馬・大将軍を追贈され5万戸を加増され武公と諡された。だが司馬昭が「司馬懿・司馬師が相国の地位につかなかったのは、太祖(曹操)に敬意を払っていたからです。司馬懿・司馬師が曹操・曹丕と同じ武・文を諡される(※司馬懿は文公と諡されていた)のは恐れ多く、故事にならい一字を加えてください」と願い出た。
司馬懿は宣文公、司馬師は忠武公と諡された。

264年、司馬昭が王位につくと司馬師は景王に改められた。
265年、司馬炎が帝位につくと景皇帝となった。(『晋書 景帝紀』)