史渙 韓浩と並び称される

史渙(しかん)字は公劉(こうりゅう)
豫州沛国の人(??~209)
曹操の臣。
「夏侯惇伝」に附伝される。
韓浩(かんこう)とともに忠義と武勇で名を知られ、中領軍まで上り近衛兵を率い列侯された。韓浩も「夏侯惇伝」に附伝される。
「王沈魏書」に曰く。
若い頃は侠客で男らしい性格だった。曹操の旗揚げに客分として随行し、中軍校尉を代行した。征伐に付き従うといつも諸将を監督し、中領軍まで上った。(『史渙伝』)
199年、史渙・曹仁・徐晃は眭固(すいこ)を攻めた。眭固は城を出て袁紹に救援要請しようとしたが、史渙・曹仁らに出くわし討ち取られた。(『武帝紀』・『徐晃伝』)
200年、官渡の戦いで荀攸(じゅんゆう)は「輜重隊を率いる韓荀(かんじゅん)は向こう気が強く敵を軽視するから撃破できる。徐晃が適任です」と進言し、徐晃・史渙・曹仁が攻撃しことごとく焼き払った。(『武帝紀』・『曹仁伝』・『荀攸伝』)
「王沈魏書」に曰く。
207年、袁氏に協力する烏丸討伐のため柳城を攻撃する際、史渙は無理な遠征は万全ではないと考え、韓浩とともに諌めようとした。だが韓浩は「我々は向かうところ敵なしの勢いで、この機に乗じ天下の患いを除かなければ後々の憂いになる。それに曹公(曹操)は神のような武勇を持ち、行動する時にはあらゆる考慮をされる(から我々の心配は無用である)。私とあなたは中軍の指揮官なのだから、兵の気勢をくじくことをすべきではない」と反対した。はたして曹操軍は大勝した。
209年に没し、子の史静(しせい)が後を継いだ。(『史渙伝』)
「演義」でも眭固・韓猛(韓荀)を撃破したが、あんまりなことに袁尚(えんしょう)に討ち取られてしまう。
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