秦宓 当意即妙の論客

秦宓(しんふく)字は子勅(しちょく)
益州広漢郡綿竹県の人(??~226)
蜀の臣。
若い頃から才能と学問があり州郡から招聘されたが、病と称して出仕しなかった。
李権(りけん)が「戦国策」を借りた時、何に使うのか問われ「孔子や厳君平は多くの書籍を収集して著作を作りました。海は川を集めて広大となり、君子は博識によって弘遠となるのです」と答えた。
秦宓は長広舌をふるい「戦国策」を読むのは無駄だと言った。
(※裴松之は気に入らなかったのか秦宓の発言の細かなあげつらいをしている)
益州牧の劉焉(りゅうえん)へ任安(じんあん)を朝廷に推挙するよう勧めた。
「益部耆旧伝」に曰く、劉焉も同意したがその上奏は戦乱のため都に届かなかった。
劉璋(りゅうしょう)の代になっても出仕せず、同郷の王商(おうしょう)に「困窮しているがいつまでそんな暮らしを続けるのか。一度おいでになって主君(劉璋)にお会いください」と勧められたが、故事を引き「主君は賢明で、しかもあなたが補佐しているのだから、蕭何・張良のような計略のない私の出る幕ではありません。畑で日に当たり、粗食であばら家に住み、時に林や沢をめぐり、隠者と付き合い、猿や鶴の鳴き声を聴き、安らかで憂いのない生活を楽しんでいます。名も才もないのが身上で、誰にも知られないのが望みで、困窮などしていません」と固辞した。
後に王商が厳君平・李弘の祠を建てたと聞くとそれを称えるとともに、彼らを世に出した揚雄の祠も建てるべきだと進言した。
ある人に「なぜあなたは隠者になることを望みながら、文才を発揮し文章を発表するのか」と聞かれると、「私の文章は不完全で文才など発揮していません」と否定し、孔子が自ら文章にしなくとも発言を書にされた故事などを引き、文才を示すのは瑕にならないと言った。(『秦宓伝』)
同郷の彭羕(ほうよう)は驕慢で人をぞんざいに扱ったが、秦宓だけは尊敬していた。
彭羕は広漢太守の許靖(きょせい)へ「仲山甫のような徳と雋生のような正しさを持ち、もし招聘すれば後世まで名を残すでしょう」と秦宓を推薦した。(が出仕しなかった)(『彭羕伝』)
214年、劉備が益州を制圧した後に、広漢太守の夏侯簒(かこうさん)に師友祭酒に招聘され、五官掾を兼務し仲父(※管仲にちなんだ尊称)と呼ばれた。
病と称して寝込んでいると、夏侯簒は配下の古朴(こぼく)・王普(おうふ)を連れて見舞いし、寝たままの秦宓の前で食事を広げ歓談した。
夏侯簒が「益州は他州を引き離すほど産出物が豊かだが、人材はどうだ」と古朴に尋ねると、彼は厳君平・揚雄・司馬相如の名を挙げた。
夏侯簒が「仲父は(彼らと比べて)どうだ」と聞くと、秦宓は割り込み「どうか私のような田舎者を仲父と呼ばないでください。あなたのために益州について論じると、肥沃な土地で、禹王が生まれ、天帝が政策を占う星座に位置し、三皇が出発した土地です。これらを他州と比べてどう思われますか」と聞き返し、夏侯簒は返す言葉もなかった。
州に召され従事祭酒となった。
劉備が孫権討伐(夷陵の戦い)に出ようとすると、天の機に背き必ず敗れると説いたため投獄されたが、後に釈放された。
224年、益州牧となった諸葛亮に別駕に抜擢され、次いで左中郎将・長水校尉となった。(『秦宓伝』)
抜擢されたのは以前から徳望高い者ばかりだった。(『杜微伝』)
呉の張温(ちょうおん)が使者として訪れると、(弁舌に優れた張温に対抗するため)諸葛亮は遅れていた秦宓に早く来るよう催促し、学者だと紹介した。
以下、大変面白いので論戦を紹介する。
張温「あなたは学問をしておられるのか」
秦宓「5尺の童子でさえ学問をします。私に限りません」
張温「天には頭があるか。どこにあるか」
秦宓「詩経に「西に顧みる」とあり、西にあります」
張温「耳はあるか」
秦宓「詩経に「鶴の声が天に聞こゆ」とあります」
張温「足はあるか」
秦宓「詩経に「天の歩みは艱難」とあります」
張温「姓はあるか」
秦宓「天子が劉姓だから劉です」
張温「日は東から昇るが、つまり東で生まれるのか」
秦宓「東で生まれ、西で死にます」
秦宓の打てば響くような回答に張温は敬服した。秦宓の文章・弁論は全てこのようだった。(『秦宓伝』)
張温は帰国後も蜀を賛美したことを孫権に不快に思われ、また名声が高すぎて思いのままにならなくなると疑い、ついに排斥された。(『張温伝』)
「益部耆旧伝」に曰く。
諸葛亮に董扶(とうふ)の優れた点を尋ねられ「毛筋ほどの善を賞賛し、けしつぶほどの悪を非難しました」と答えた。(『劉焉伝』)
五帝が同族とされた文章に反論し、皇帝王覇(※時代の変化によって支配者の質が低下するという理論)を議論し、龍の養育係(古代の官位)について論じ、はなはだ筋道立っていた。
若き日の譙周(しょうしゅう)にしばしば質問され「春秋然否論」に多くの言葉を記載された。
大司農に上り、226年に没した。(『秦宓伝』)
241年、楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「天賦の才を持ち、意見はまことに鮮やかで、文章美しく内容は論理正しく、きらきらとして光彩があった」と評した。(『楊戯伝』)
陳寿は「はじめ世俗を離れる高邁さを慕いながら、愚人のふりをして才能を隠そうとはしなかった。しかし張温へ余裕ある受け答えをし、文章は壮麗だった。一代の才子と言えるだろう」と評した。
「演義」では劉璋に仕え、降伏勧告に来た簡雍(かんよう)の傲慢な態度を咎めた。
史実と同様に夷陵の戦いに反対して処刑されそうになると「命など惜しくないが国は惜しい」と笑ったり、酔って張温に絡んだりと、濃いキャラ付けがされている。
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