甄姫 薄幸の麗人

甄皇后(しんこうごう)名は不明
冀州中山郡無極県の人(182~221)
曹丕の皇后。
曹叡の母。
いわゆる甄姫。
家は代々2千石(太守クラス)の官吏だった。
「王沈魏書」に曰く。
三男五女の末娘として生まれた。(※甄姫の名だけが不明)
毎晩、眠っている時に半透明の人物が現れ、衣を掛けられており、家人はいつも不審がっていた。
3歳の時に父の甄逸(しんいつ)が没すると酷く泣き叫び、人々に並の子ではないと特別視された。
人相見の劉良(りゅうりょう)に「この子の高貴さは口では表現できないほどです」と言われた。
幼少の頃から遊びを好まず、8歳の時に曲芸師が近くに来ると、姉や家族は見物に行ったが甄姫だけは見向きもせず「こんなものは女性が見るものでしょうか」と言った。
9歳になると書道を好み、字を見るとすぐに覚え、兄の筆や硯を使った。兄が「家事も習わずに学問をして、博士にでもなる気か」と冷やかすと、「昔の優れた女性は故事に学び自分の戒めとしたそうです。文字を知らなければ学ぶこともできません」と言い返した。
戦乱と飢饉により人々は財宝を売り払い、穀物を求めた。甄姫の家には穀物が大層あったため、逆に財宝を買い求めた。10余歳の甄姫は「罪のない人物でも宝玉を持っていれば(妬みを招き)身を滅ぼすと言います。飢えに苦しんでいる親類や近隣の人々に穀物を振る舞い恩恵を施すべきです」と進言し、母はすぐに従った。
「魏略」に曰く。
14歳の時に次兄の甄儼(しんげん)が没した。
甄姫は礼の規定を超えて激しく悲しみ、兄嫁の劉氏(りゅうし)に慎みと敬意を持って接し、遺児を慈しみ育てた。
母の張氏(ちょうし)は厳しい性格で、嫁たちには同じ態度を取ったが、甄姫が「義姉(劉氏)は操を立てて他家に再嫁せず、一人っ子の遺児を養育しています。嫁ではなく娘のように思ってください」と願い出たため、張氏は感動し、甄姫と劉氏を一緒に暮らさせ、二人はますます親密になった。
建安年間(196~220)、袁紹の次男の袁煕(えんき)に嫁いだ。
袁煕が幽州刺史に赴任すると、姑に仕えた。
204年、曹操が冀州を制圧すると曹丕の妻に迎えられた。
「魏略」に曰く。
鄴が陥落した時、袁紹の妻の劉氏(りゅうし)は嫁の甄姫とともにおり、(降伏の証に)自らの手を縛り、甄姫は彼女の膝の上に顔を伏せていた。発見した曹丕は「夫人よなぜそんなことをするのです。嫁御の顔を上げさせなさい」と命じた。曹丕は甄姫の顔をじっと見るとその美貌を称えため息をついた。
曹操は甄姫を曹丕の嫁に迎えさせてやった。
「世語」に曰く。
曹丕が屋敷に踏み込むと、劉氏の背後に髪を振り乱し垢まみれの顔をした甄姫がいた。曹丕は素性を聞き顔を拭ってやると、類まれな美貌が現れた。彼が立ち去ると劉氏は「殺される心配はないでしょう」と甄姫に言った。曹丕の妻に迎えられた。
曹丕との間に曹叡と東郷公主(とうきょうこうしゅ)をもうけた。
「王沈魏書」に曰く。
甄姫は寵愛が深まるほどますます自重し控えめな態度を取った。後宮の女官のうち寵愛される者はもっと愛されるよう力添えし、寵愛されない者は慰め忠告してやった。曹丕には才徳ある側室を探し、子孫を増やすよう助言し、さらに好まれた。
側室の任氏(じんし)が追放されそうになると「彼女は名家の出で、私どもは徳も容貌も及びません」と撤回を懇願し、曹丕が「任氏は短気で従順ではなく、私を怒らせたのも一度や二度ではない」と言うと「私が寵愛されているのは周知の事実で、もし追放されれば私のせいだと噂されます。あなたは利己心を非難され、私は(嫉妬し)寵愛を独り占めにしたと非難されます」と言い募ったが、曹丕は聞き入れず追放した。
「王沈魏書」に曰く。
211年、曹操が関中へ出征し、卞皇后(べんこうごう)はお供して孟津まで行き、曹丕と甄姫は鄴の留守に残った。
卞皇后は体調が優れなかったが甄姫は見舞いに行けず、心配して一日中泣いていた。側近が快癒したと伝えても「お母様の持病はいつも快癒まで時間が掛かりました。こんなに早く治るはずがなく、私を安心させようとしているだけです」と一層心配した。後に卞皇后から直々に連絡が届き、ようやく喜んだ。
212年、鄴へ帰還すると、目通りした甄姫は感極まって悲喜こもごもの有様で側近を感動させ、卞皇后も「以前に病が長引いた時のように悪化したと思っていたのかい。ちょっと具合が悪くなっただけで10日ほどで治りましたよ。顔色をご覧なさい。なんと孝行な嫁でしょう」と感嘆した。
216年、曹操が孫権の征伐に赴くと、卞皇后・曹丕・曹叡・東郷公主はそれにお供したが、甄姫は病のため都に留まった。
217年、軍が帰還すると甄姫は顔色優れた様子で出迎えた。卞皇后の側近らが「二人の子と長い間離れていたのに心労は無かったのですか」といぶかると「お母様(卞皇后)がついていたのに何を心配することがありましょう」と答えた。
甄姫が礼によって己を律するのは全てこのようだった。(『文昭甄皇后伝』)
ある時、曹丕は酒宴を催すと妻の甄姫に挨拶させた。客らはみな平伏したが、劉楨(りゅうてい)だけが直視した。
曹操はそれを聞くや不敬罪で逮捕させた。死刑は免れたが懲役刑となった。
刑期を終えて官吏に復帰した。(『劉楨伝』)
220年、曹丕は王位につき、出征すると留守を守った。
同年に帝位につくと、山陽公(献帝)の2人の娘が側室となり、郭貴人(かくきじん ※後の皇后)らが寵愛されたため恨み言を言った。
曹丕は非常に腹を立て翌221年、自害を命じた。鄴に埋葬された。
「王沈魏書」に曰く。
長秋宮(皇后宮)を立てるよう上奏され曹丕も許可すると、甄姫は自分はふさわしくないと三度に渡り辞退した。
真心の籠もった切実な訴えだったため曹丕も理解し、夏を過ぎて涼しくなったらまた打診しようと考えていたが、病篤くなり没してしまった。曹丕は嘆き悲しみ、皇后の印綬を追贈した。
(※裴松之は「史書には大悪は隠し、小悪は記すという。曹丕が甄姫に死を命じたことには証拠があり、魏の史官が大悪だと判断したなら隠し、小悪と判断したなら事実のまま記すべきで、このような虚偽を記すべきではない。したがって王沈魏書が記した甄姫の善行も疑わしいものであり、陳寿が採用しなかったのももっともである」と指摘する)(『文昭甄皇后伝』)
曹丕は夢占い師の周宣(しゅうせん)に「青い気が地面から立ち昇り、天までつながる夢を見た」と相談した。
周宣は「高貴な女性が冤罪で死にます」と答えた。
曹丕は甄姫に自害を命じたことだと思い当たり、止めさせようとしたが間に合わなかった。(『周宣伝』)
死の翌日、日食があり(規定により)太尉の賈詡を罷免するよう上奏されたが、曹丕は「災害や異変は元首を譴責するために起こる。非は私にあり二度と災害で三公を弾劾するな」と退けた。(『文帝紀』)
母が誅殺されたため子の曹叡は太子に立てられず、曹丕が重体に陥ってようやく立てられた。
「魏略」に曰く。
曹叡は子のない郭皇后(かくこうごう)に養育された。母の死にわだかまりがあったため内心では穏やかでなかったが、やむをえず敬意を払った。郭皇后は実子のように可愛がり、曹丕は曹礼(そうれい)を太子にしようと考えた。
「魏末伝」に曰く。
曹丕は曹叡と狩猟に出掛け、母子の鹿を見つけ母鹿を射倒した。曹叡に子鹿を撃つよう言うと「母を殺した上に子まで殺せません」と曹叡は涙を流した。
曹丕は弓矢を投げ捨てて感心し、評価を改め太子に立てる決心をした。(『明帝紀』)
226年、子の曹叡は即位すると王朗(おうろう)を使者として文昭皇后を追贈し、霊廟を建立した。
「王沈魏書」に曰く。
三公が「甄姫は慎み深く謙虚な性格で、最高の徳行が寡黙の中に現れており、諡号を授けるべきです。知識があまねく行き届いている、徳に優れ功績がある場合に与えられ、光明が最も輝き渡り永遠に暗くないという意味を持つ「昭」がふさわしいでしょう」と言い、さらに霊廟を建立するよう上奏しともに認められた。(『明帝紀』・『文昭甄皇后伝』)
郭皇后が甄姫を陥れたとする次の俗説がある。
「魏略」に曰く。
曹叡が即位したため、憂慮した郭皇后は突然の死を遂げた。
甄姫は死に臨み李夫人(りふじん)に曹叡を託しており、郭皇后が没すると李夫人は「甄姫は讒言によって殺され、葬儀もされず、振り乱した髪は遺体の顔にかかっていた」と明かした。曹叡は嘆き悲しみ、郭皇后も同様に弔うよう命じた。
「漢晋春秋」に曰く。
甄姫を死に追いやったのは郭皇后の画策である。
遺体の髪を乱して顔を覆わせ、口にはぬかを詰め込んだ。曹叡はしばしば甄姫の死の様子を郭皇后に尋ね、「先帝(曹丕)が殺したのになぜ私を詰問するのか。お前は父を母の仇と扱い、継母を殺すつもりか」と返されると、激怒して殺害し、母と同様に遺体を扱うよう命じた。(『文徳郭皇后伝』)
227年、甄逸に爵位が追贈され、嫡孫の甄像(しんぞう)が後を継いだ。
甄姫の夢を見ると母方の親族に血縁と身分から等級を付け、それぞれに官位と莫大な下賜品を与えた。
祖母の張氏が没すると自ら葬儀に列し、百官も従った。
230年、低地にあった甄姫の陵墓を改葬させた。
234年、伯父の甄儼に諡号を追贈した。
235年、甄像が没すると子をみな列侯した。
236年、祖母の張氏、伯母の劉氏にも爵位を追贈した。(『文昭甄皇后伝』)
237年、霊廟を都に建てるよう上奏され、恒久的に取り壊されることのないよう取り計らわれた。(『明帝紀』・『文昭甄皇后伝』)
曹叡は絶えず甄姫の一族を気に掛け、次代にも厚遇は続き、甄儼の孫娘は曹芳の皇后に迎えられた。(『文昭甄皇后伝』)
曹叡の享年は36歳とされるが、早くても205年に生まれた曹叡は34~5歳にしかならず、本当に36歳だとすれば曹丕ではなく袁煕の子だということになり、実子ではないから曹丕に疎まれたとする説もある。
裴松之も年齢が合わないことを指摘するが、袁煕の子説は記さず、単なる誤記と考えているようだ。(『明帝紀』)
「演義」では俗説を元に郭皇后に陥れられたとする。
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