辛毗 臆さず諫言、臆さず収拾

辛毗(しんぴ)字は佐治(さち)
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)
魏の臣。
辛憲英(しんけんえい)の父。
同郡の趙儼(ちょうげん)・陳羣(ちんぐん)・杜襲(としゅう)と並び称され、姓から辛陳杜趙と呼ばれ、いずれも魏の重臣となった。(『趙儼伝』)
はじめ兄の辛評(しんひょう)とともに袁紹に仕えた。
曹操は司空に上ると辛毗を招いたが応じられなかった。
202年、袁紹が没すると子の袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)が争い、袁譚は辛毗を使者とし曹操に講和(※降伏)を求めた。
曹操は同意したが、数日経つと気が変わり、荊州征伐に向かい袁譚・袁尚は共倒れさせようと考えた。辛毗は曹操の様子からそれに気づき、郭嘉を通じて抗議した。
曹操が「袁譚は信頼できるか。袁尚に必ず勝てるか」と聞くと、「信義と詐術についてではなく情勢について話しましょう。兄弟は長く争って疲弊し、飢饉もあり兵糧は尽きています。天が差し出しているようにたやすく破れる袁尚ではなく、豊かで隙のない荊州を攻めれば、その間に袁尚が態勢を立て直す恐れもあります」と述べた。
曹操は納得して講和を結び、袁尚の本拠地の鄴を落とすと、辛毗を議郎にするよう上奏した。
「英雄記」に曰く。
郭図(かくと)が袁譚に「曹操と講話して袁尚を攻めさせ、その隙に袁尚の兵を奪います。曹操は兵糧不足で必ず撤退します」と進言し、辛毗を使者に推薦した。(『辛毗伝』)
「先賢行状」に曰く。
鄴が陥落した時、守将の審配(しんぱい)は辛評・郭図が袁氏を滅ぼしたのだと怒り、辛評の家族を殺した。
曹操の軍中にいた辛毗は城門が開くとすぐさま駆けつけたが間に合わなかった。捕らえられた審配の頭を鞭で殴り「この野郎、今日で命は終わりだ」と罵ると、審配も「犬め、貴様らのせいで負けたのだ。貴様をブチ殺せないのが残念だ。だいたい貴様に私を殺す権限があるのか」と罵り返した。
曹操は剛直な審配を気に入ったが、審配が全く従わず、辛毗が号泣して懇願したため処刑した。(『袁紹伝』)
「荀彧別伝」に曰く。
荀彧に招聘された英才の一人として名が挙がる。(『荀彧伝』)
「王沈魏書」に曰く。
荀攸(じゅんゆう)の従兄弟の辛韜(しんとう)が荀攸にかつて冀州を攻略した時のことを質問すると、口の堅い荀攸は「辛毗が袁譚の使者として降伏を願い出たから、官軍が冀州を討伐したのだ。私は何も知らない」と言った。
以後、辛韜も他の人々も二度と荀攸に軍事や国事について質問しなくなった。(『荀攸伝』)
215年、漢中征伐に従軍した。
「魏臣名奏」の董昭(とうしょう)の上表に曰く。
「武帝(曹操)は撤退しようとし、夏侯惇・許褚に命じて山上の部隊を収容させようとしました。ところが兵は道に迷い、誤って張魯(ちょうろ)の陣営に入り込み、急襲されたと思い込んだ張魯軍は撤退しました。辛毗・劉曄(りゅうよう)から報告を受けた夏侯惇・許褚は信じられなかったが、自分の目で確かめ、制圧しました」(『張魯伝』)
曾孫の夏侯湛(かこうたん)が記した「辛憲英伝」に曰く。
217年、曹丕は太子になると辛毗に抱きついて喜び「私の喜びがわかるか」と言った。
それを聞いた娘の辛憲英は「君主になることを憂慮し、国を主宰することに恐れを抱くべきなのに喜んでいては、どうして長久を保てるでしょう。魏は隆盛になるでしょうか」と嘆息した。
曹操は(強欲な)曹洪(そうこう)の副将に辛毗と曹休(そうきゅう)をつけ「高祖は財貨と女色を好んだが、張良・陳平に正された。辛毗と曹休の心配は軽くないぞ」と訓戒した。
帰還すると丞相長史となった。(『辛毗伝』)
「献帝伝」に曰く。
220年、曹丕へ魏帝即位を勧める書状に侍中として連名した。(『文帝紀』)
曹丕が帝位につくと侍中に上り関内侯に封じられた。
暦の改定が議論されたが、「論語」を引いて反対し、曹丕も同意した。
曹丕は冀州から10万戸を河南へ移住させたいと考えた。当時は蝗害が続き民が飢えていたため群臣は反対したが、曹丕の意志は固かった。
群臣とともに目通りを願うと、曹丕は諫言されると思って気色ばみ、誰も口を開けずにいる中、辛毗は敢然と「陛下は私を愚かだと思わなかったから側近くに起き、諮問官につけて下さったのになぜ議論しないのですか。個人のことではなく国家のことについての議論なのに、なぜ私を怒るのですか」と意見し、黙って奥に引っ込もうとする曹丕の衣の裾をつかみさえした。
曹丕はしばらくして出てくると「どうしてあなたの態度はそんなに厳しいのだ」とぼやき、辛毗は「移住させれば民心を失う上に、与えるべき食物がありません」と答えた。
移住は決行されたが半数に減らされた。
狩猟にお供し、曹丕が「キジを射るのは楽しいな」と喜ぶと、辛毗は「陛下は大変楽しいでしょうが、我々は大変苦しいことです」と言った。曹丕は黙って何も答えなかったが、狩猟に出るのは稀になった。(『辛毗伝』)
222年、孫権は名目上は魏に降伏しているが、本心では従う気がないと魏は見抜いており、辛毗・桓階(かんかい)を使者に送り盟約を結ぶとともに、孫権の子を朝廷へ(人質に)出すよう伝えた。孫権は資格がないとごまかし辞退した。(『呉主伝』)
曹真(そうしん)の江陵攻撃の軍師を務め、帰還すると広平亭侯に進んだ。
曹丕は大軍で呉を攻めようと考えたが、辛毗は「呉は昔から頭痛の種ですが、四海は平定され、魏の徳に服従するのは時間の問題です。しかし陛下は先帝(曹操)でさえ長江を前に何度も引き返し、その頃から兵も増えていないのに討伐しようと考えています。これから10年、国を富ませれば壮年の兵はまだ戦え、幼年の者が兵に加わり、そうすれば一度の戦で呉を平定できるでしょう」と反対した。
曹丕が「つまり子孫に敵を残しておけと言うのか」と皮肉ると「周の文王が殷の紂王を討たず、子の武王に残したのは時節をわきまえていたからです」と返した。
曹丕は従わず討伐したが、長江を前に撤退した。(『辛毗伝』)
曹丕はかねてから鮑勛(ほうくん)を憎み、法を曲げて処刑しようとした。辛毗らはこぞって反対の上奏をしたが、曹丕は聞き入れずに殺した。(『鮑勛伝』)
226年、曹叡が帝位につくと潁郷侯に進み、領邑300戸を与えられた。
当時は劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)が権勢を振るい、誰もが交際を求めたが辛毗は一切それに加わらなかった。
それを子の辛敞(しんしょう)は憂い「劉放・孫資が権力を握り、人々は影のようにくっついています。父上は少し心を抑えられ、妥協なさらないと悪口を言われます」と批判した。
すると辛毗は「劉放・孫資と上手く行かなくても、せいぜい三公になれないだけだ。三公になりたいために節義を失う者がどこにいる」と叱りつけた。
この言葉が耳に入ったのだろう、後に尚書僕射の王思(おうし)の後任に辛毗が推された時、劉放・孫資は「辛毗は誠実だが強情で妥協しません」と反対し、起用されなかった。
衛尉となった。(『辛毗伝』)
この人事により劉放は世間から批判された。(『劉放伝』)
太和年間(227~232)、朝廷に入った杜恕(とじょ)は政治に誤りがあれば常に正論を吐き、辛毗らに評価された。(『杜畿伝』)
曹叡が宮殿造営に血道を上げると「蜀・呉が侵攻の気配を見せ、凶作が続いています」と諌めた。曹叡は「蜀・呉が滅亡していないのに宮殿造営に励むのを諫言するのは当然である。だが後世にこれ以上の造営をしないで済むよう、民の労苦を考慮しながら進めているのだ。あなたは重臣だからそれも理解しなければならない」と退けた。
しかし山を削って平らにしようとしたのを「天地の法則に反し、洪水が起きたら被害が拡大します」と諌められ取りやめた。
「魏略」に曰く。
231年、張郃が蜀と戦い討ち死にすると、曹叡は嘆き悲しみ、陳羣も「国家の頼りにする良将でした」と惜しんだ。
辛毗は張郃は名将だったが既に戦死した以上は弱気になってはいけないと考え、あえて陳羣に「天下には武帝(曹操)・文帝(曹丕)そして陛下が連綿と続いています。誰が欠けていると言うのですか」と絡んだ。
陳羣も意を察し「辛毗の言う通りです」と言い、曹叡は「陳羣は変わり身が早いな」と笑った。
(※裴松之は「張郃と比べるなら張遼のような人物を挙げるべきで、主君の父祖を挙げるわけがない。剛直な辛毗が言うべきことを間違い、媚びへつらうような真似をするだろうか。この逸話を習鑿歯もそのまま載せているが、辛毗の言葉はきっと違っただろう」と指摘する)(『辛毗伝』)
234年、諸葛亮は兵站を強化し、五丈原に布陣し司馬懿と対峙した。
司馬懿は以前から決戦を挑みたいとたびたび要請してきたが、曹叡は却下し続けていた。
この年にはもう抑え切れないと感じ、辛毗を大将軍軍師・使持節に任じてその指示に従うよう命じ、「ひたすら防御を固めて合戦に応じなければ、兵糧が尽きて撤退する。そこを追撃するのが完全な勝利を得る方法である」と詔勅を下すと、司馬懿もそれに従った。(『明帝紀』・『辛毗伝』・『諸葛亮伝』)
「魏略」に曰く。
辛毗は常に攻撃に反対した。司馬懿にはそれを却下する権限があったが、最後まで従った。(『辛毗伝』)
「魏氏春秋」に曰く。
諸葛亮は女物の衣服や髪飾りを贈って挑発し、激怒した司馬懿は出撃しようとしたが、辛毗が節と詔勅を示して中止させた。(『明帝紀』)
「漢晋春秋」に曰く。
姜維は「辛毗が節を持ちやって来たからには、魏軍は二度と出撃しないでしょう」と言い、諸葛亮は「司馬懿にはもともと戦う気が無いのだ。出撃を要請したのは兵を鼓舞するためで、勝機があると思うなら、わざわざ千里の彼方まで許可を求めるわけがない」と言った。(『諸葛亮伝』)
同年に諸葛亮は陣没し、辛毗は衛尉に復帰した。
没すると粛侯と諡された。
子の辛敞が後を継ぎ、河内太守まで上った。(『辛毗伝』)
娘の辛憲英は聡明で、弟の辛敞や子の窮地を救い「晋書」に列伝された。(『晋書 羊耽妻辛氏伝』)
「演義」でも多くの逸話が採用される。五丈原の戦いでは司馬懿の戦いたくない意図を察し、監督役を自ら買って出て出撃を止め、司馬懿が心中で「良く私の心をわかっている」と称える好アレンジをされた。
|