孫堅  江東の虎



孫堅(そんけん)字は文台(ぶんだい)
揚州呉郡富春県の人(155~192?)

後漢の臣。
孫策・孫権らの父。

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

おそらく孫武の末裔なのだろう。(※陳寿は通常こんな書き方をせず苦慮が見える)

若くして県の役人となった。
17歳の時、父と出掛けた時に海賊の胡玉(こぎょく)が略奪しているのに出くわした。孫堅が討伐できると言うと父は「お前の手に負える相手ではない」とたしなめたが、孫堅は構わず船を降り兵を指揮しているような素振りを見せた。
海賊らは官軍が来たと思って逃げ出し、追撃した孫堅は(胡玉の?)首を斬って戻ってきた。父は驚き、これにより孫堅の名は知られ仮の尉に任じられた。(『孫堅伝』)

孫堅は呉夫人(ごふじん)が才色兼備だと聞いて妻にめとりたいと申し出たが、呉夫人の一族は軽薄な彼を嫌い断ろうとし、恨まれた。
呉夫人は「なぜ一人の娘を惜しんで災いを招こうとするのか。私が嫁入り先で不幸になってもそれは運命です」と言い、進んで婚姻を結んだ。四男一女に恵まれた。(『孫堅呉夫人伝』)

孫堅は同郷の徐真(じょしん)と親しく、妹を嫁がせた。子の徐琨(じょこん)は孫堅の挙兵に応じて役人をやめ、死後も孫策に従った。
徐琨の娘の徐夫人(じょふじん)は孫権に嫁いだ。(『孫権徐夫人伝』)

172年、会稽郡で許昌(きょしょう)が反乱し数万の軍勢に膨れ上がった。孫堅は郡司馬として1千の兵を集めると州郡の兵と連携して撃破した。
州刺史の(※郡刺史と誤記される)臧旻(ぞうびん)が功績を上表し、塩瀆県丞となり、数年後に盱眙県丞・下邳県丞を歴任した。

184年、黄巾の乱が起こると官軍の主力を担う朱儁(しゅしゅん)は上表して孫堅を軍司馬に任命した。
孫堅と同郷で下邳県までついてきた若者や、旅商人ら精鋭1千人ほどを集め、向かうところ敵無しだった。汝南郡~潁川郡の黄巾賊は劣勢となり宛城に立て籠もったが、孫堅が城壁を乗り越えて突撃し大勝した。朱儁が功績を上表し別部司馬に任命された。

186年、涼州で反乱した韓遂(かんすい)の討伐に張温(ちょうおん)が当たることになり、上表し孫堅を参謀に任命した。
前任の指揮官の董卓は詔勅を無視して遅れて合流し、張温に責められても不遜な態度を取った。孫堅は処刑するよう耳打ちしたが、張温は「董卓は西方で威名を轟かせており進軍に支障が出る」と渋った。
孫堅は「あなたは官軍を率い威名は天下に轟いており、董卓を頼りにする必要はない。董卓には上官を軽視し無礼を働いた罪、前任として反乱を見過ごした罪、詔勅を無視して驕り高ぶる罪の3つの罪がある。古の名将は罪人を斬り捨て威を示しました。ここで董卓を斬らなければ厳格な処罰が失われます」となおも言い募ったが張温は決断できず、こうして内緒話をしていたら董卓に疑われると引き下がらせた。
開戦前に韓遂ら反乱軍は恐れて崩壊し、討伐が行われなかったため恩賞は出なかったが、孫堅が3つの罪を数え上げ董卓を断罪したことは感嘆された。議郎に任じられた。

長沙郡で区星(おうせい)が反乱し1万の兵を集めており、孫堅が長沙太守に任じられ1月も経たずに撃破した。(『孫堅伝』)

188年、零陵郡・桂陽郡でも連動して反乱が起きていたが、孫堅は(職責を超えて)討伐し3郡を平定した。烏亭侯に封じられた。
司馬に任じた朱治(しゅち)は功績多く、上表して都尉に任じた。(『孫堅伝』・『朱治伝』)

189年、霊帝が没した混乱に乗じ董卓が実権を握った。
董卓を討つべく各地の州郡で義勇兵が結成され、孫堅も挙兵した。(『孫堅伝』)
末弟の孫静(そんせい)が一族や同郷の者5~600人をまとめ留守を預かった。(『孫静伝』)
甥(兄の子)の孫賁(そんふん)も役人をやめて挙兵に応じた。(『孫賁伝』)

荊州刺史の王叡(おうえい)はかねてから孫堅を軽んじ無礼を働いていたため、殺して兵を奪った。
南陽郡へ進んだ頃には数万の軍勢に膨れ上がったが、南陽太守の張咨(ちょうし)は(侮って)驚かず、孫堅の表敬訪問を受けた。宴もたけなわの頃、孫堅の部下が現れ「南陽郡には道を補修し兵糧を用意するよう伝えましたが何もされていません」と言上した。
張咨は不安になり逃げようとしたが既に兵に囲まれており、部下はさらに「張咨は義勇軍を足止めし董卓の討伐を妨害しています。軍法に照らし処刑すべきです」と言い、すぐさま処刑させた。南陽郡は震え上がり孫堅に従った。(『孫堅伝』)

袁術は張咨が殺されたおかげで南陽郡を占拠できた。(『袁術伝』)

袁術は上表して孫堅を破虜将軍・豫州刺史とした(後ろ盾になった)。
洛陽への進撃が迫り、公仇称(こうきゅうしょう)を荊州に戻らせ兵糧を督促させようとしたが、その送別会のさなかに董卓の騎兵数十人に奇襲された。談笑していた孫堅は配下に動かないよう命じ、敵が増えてくるとおもむろに酒宴をやめて城内へ戻った。
孫堅は「私があわててすぐ立ち上がれば、配下は浮足立って混乱し無事に城内へ戻れないと思った」と解説し、董卓軍は動揺しないのを警戒し攻撃せず撤退した。

董卓の大軍に包囲され、数十騎で突破した。孫堅はいつも被っていた赤い頭巾を祖茂(そぼう)に被らせ囮として逃げ切った。
祖茂も包囲されたが焼け落ちた柱に頭巾を被せて囮として難を逃れた。
孫堅は兵をまとめて反撃し、華雄を討ち取った。

袁術が離間策により孫堅を疑い兵糧を送らなくなると、孫堅は駐屯地から百里の道を夜通し駆けて目通りし、地面に図を描いて説明しつつ「私が命を賭して戦うのは、上は国家のために董卓を討とうとし、下は(董卓に一族を処刑された)あなたのために復讐するためです。董卓に個人的な恨みがあるわけではありません。それなのにあなたは陰口を信じて私を疑うのか」と道理を説いた。袁術は返す言葉もなくすぐさま兵糧を手配させた。

董卓は孫堅を恐れて和睦を持ちかけ、応じれば子弟を望むままに刺史や太守に任じると誘ったが、孫堅は「お前は天に背いて無道をなし、王室を覆した。お前の一族を皆殺しにしなければ俺は死ぬにも死ねない。お前とよしみを通じるわけがない」と拒絶しさらに兵を進めた。
洛陽まで90里に迫ると董卓は都を焼き払い、遷都した長安へ撤退した。孫堅は洛陽に入り荒らされた皇帝の陵墓を修復し、駐屯地へ戻った。(『孫堅伝』)

袁紹は周昴(しゅうこう)に孫堅の駐屯地を奪取させた。袁術は孫堅・公孫越(こうそんえつ)に攻撃させたが勝てず、公孫越も戦死した。
公孫瓚(こうそんさん)は従弟(公孫越)が死んだのは袁紹のせいだと激怒し報復した。(『公孫瓚伝』)

孫堅は上表して朱治を督軍校尉とし、別働隊を率いさせ徐州刺史の陶謙(とうけん)の黄巾賊討伐を手伝わせた。(『朱治伝』)

192年、袁術は荊州牧の劉表(りゅうひょう)を孫堅に攻撃させた。
孫堅は黄祖(こうそ)を撃破し襄陽を包囲したが、近くの山に単騎でいたところを黄祖の兵に射殺された。

孫堅の死の経緯には諸説あり、これのみ裴松之の注を記す。
「典略」に曰く、孫堅は城外で徴兵した黄祖を待ち伏せして撃破したが、追撃中に射殺された。
「呉録」に曰く、享年37。
「英雄記」に曰く、武装もせず呂公(りょこう)を追跡中に石を落とされ頭に当たって死んだ。193年正月のことである。(『孫堅伝』)

孫堅に孝廉に推挙された桓階(かんかい)は、配下ではなかったが危険を顧みず遺体の引き取りを願い出て、劉表は義侠心を買って許可した。(『桓階伝』)

孫賁が兵を引き継ぎ袁術の麾下に入り、袁術は上表して孫賁を後任の豫州刺史とした。(『孫堅伝』)
孫策は遺体を連れて曲阿へ戻りそこへ葬った。(『孫策伝』)

229年、孫権が帝位につくと武烈皇帝と諡された。(『孫堅伝』)

陳寿は「勇猛にして剛毅。貧しく後ろ盾もない境遇から身を起こし、董卓の処刑を勧め、あばかれた御陵を修復するなど立派な忠節があった。しかし孫堅・孫策はともに軽佻で性急だったため身を滅ぼしてしまった」と評した。

「演義」では勇猛な正義漢として描かれ、王叡・張咨の殺害はカットされた。最期は呂公の落石説を採用している。