蘇則  剛直かつ不器用



蘇則(そそく)字は文師(ぶんし)
雍州扶風郡武功県の人(??~223)

魏の臣。

若い頃から学問と品行で知られ、孝廉と茂才に推挙されたが出仕しなかった。
「王沈魏書」に曰く、剛直で前漢の汲黯の人柄を慕っていた。

平民から酒泉太守に抜擢され、安定・武都太守を歴任した。どこでも権威と名声があった。

「魏略」に曰く。
代々の名家だったが、興平年間(194~195)に董卓残党らによって三輔が混乱し飢饉になり、涼州北地郡へ避難した。安定郡へ移り富豪の師亮(しりょう)を頼ったが冷遇されると「天下はいずれ安定し、混乱は長く続くまい。必ず帰ってきてここの太守となり、俗な連中をくじいてやる」と嘆息した。
吉茂(きつぼう)らとともに南の太白山に隠棲し、書物に親しんだ。
安定太守に赴任すると師亮ら冷遇した者は逃げ出そうとしたが、蘇則は人をやって安心させてやり、謝礼で旧恩に報いた。

215年、曹操が漢中を攻める際に蘇則の治める郡を通過し、面会して気に入り軍の先導を命じた。制圧後には下弁の氐族を鎮め、河西の街道を開通し、金城太守に転任した。動乱により官民は故郷を離れてさすらい飢え苦しんでいたため、精力的に慈しんだ。羌族を懐柔して牛と羊を手に入れて貧しい者や老人を養い、民と食料を分け合うと、10ヶ月で流民はみな帰ってきて、数千家が復帰した。そこで賞罰を明確にして、自ら耕作を教え、大豊作となり、日に日に人口が増えた。
隴西郡で李越(りえつ)が反乱すると羌族とともに包囲し、すぐに降伏させた。

220年、曹操の死に乗じて西平郡で麴演(きくえん)が反乱し護羌校尉を自称すると、すぐに討伐し降伏させた。曹丕は蘇則に護羌校尉を加官し、関内侯に封じた。

「魏臣名奏」に曰く。
曹丕は雍州刺史の張既(ちょうき)に「蘇則は金城太守を代行し功績は大である。爵位を与えようと思うが意見を具申せよ」と命じた。
張既は「金城郡は韓遂(かんすい)に略奪されて荒廃し、戸数は5百に満たない有様でしたが、蘇則が赴任し5千戸に復興させました。さらに韓遂と結託して悪事を働き、韓遂の死後も抵抗していた羌族を服従させ、3千人が帰順しました。麴演の反乱も速やかに治めました。蘇則は人民をいたわり、蛮族をなつけ、忠節を尽くしており、爵位を与えるべきです」と答えた。

その後再び麴演は反乱した。
張掖郡の張進(ちょうしん)、酒泉郡の黄華(こうか)も呼応し、太守を捕縛・追放し太守を自称した。
武威郡でも3種の蛮族が反乱し、雍州・涼州の豪族が揃って羌族を駆り立てて大勢力となり、武威太守の毌丘興(かんきゅうこう)は蘇則に救援を求めた。
金城郡の民は絶望し、駐屯していた郝昭(かくしょう)・魏平(ぎへい)も進軍できずにいた。蘇則は郡の高官や郝昭、羌族の指導者と相談し「賊軍の勢いは盛んだが、脅されて従っているだけの者もおり一枚板とは限らない。隙をつけば善人は離反して我々に味方する。しかし援軍を待って持久戦を挑めば、善人も取り込まれて離反しなくなる。(援軍を待つよう命じた)詔勅があるが、違反してでも速攻を仕掛けるべきだ」と言い、郝昭らも同意した。
討伐軍は武威郡を救援し、3種の蛮族を降伏させた。毌丘興と合流し張進を攻めると、麴演は降伏したふりをし騙し討ちしようとしたが、蘇則はそれを見抜き会見の席で彼を殺した。そして張進を討ち取り、黄華を降伏させ反乱を鎮圧した。
都亭侯に進み3百戸を与えられた。(『蘇則伝』)

張既は蘇則を助勢すると喧伝して援護し、討伐を助けた。(『張既伝』)

毌丘興は蘇則に次ぐ名声を上げた。(『毌丘倹伝』)

都に召され侍中となり董昭(とうしょう)の同僚となった。董昭がたわむれて蘇則の膝を枕にすると「私の膝はおべんちゃら屋の枕ではない」とそれを押しのけた。
曹丕が即位すると、曹植(そうしょく)と蘇則は漢の滅亡を嘆き、喪に服した。曹丕は蘇則の件は知らなかったが、曹植が喪に服したと聞き「私は天に応えて禅譲されたのに、大声で泣いた者がいるそうだ」と当てこすった。
蘇則は自分のことだと思い、髭を逆立て反論しようとしたが、侍中の傅巽(ふそん)はそれに気づき、蘇則をつねり「君のことではない」と教えて黙らせた。

「魏略」に異聞がある。
金城太守の時に蘇則は曹丕の即位を聞き、献帝が崩御したと早合点して喪に服した。曹植は献帝を思いやって嘆き、大声で泣いた。
後に曹丕は曹植の件を思い出して「人の心はわからないものだ。私が即位したのに大声で泣いた者がいる」と当てこすった。周囲にいた者の中で蘇則だけが勘違いして自分のことだと思い、謝ろうとしたが傅巽が目配せして止めさせた。

孫盛は「士人は自分が非難する相手には仕えず、仕えた相手は非難しない。蘇則は新たな朝廷(魏)に仕えながら二心を抱き漢のために憤った。正義の君子がすることだろうか。「詩経」に士人のくせにだらしがなく行動がふらふら定まらないとあり、行動が定まらないだけで人心を失うものだが、ましてや蘇則は臣下の身である」と非難する。

「魏略」に曰く。
旧友の吉茂は県令止まりで、しかも閑職に甘んじていた。
久々に顔を合わせると、吉茂は「執虎子になるのが望みだったのか?」と、侍中の俗称(おまる係の意。侍中は帝のお世話をし便器を管理した)で呼びからかった。
蘇則は「君のように小さな馬車でひょこひょこ走り回る苦労はしたくないからな」と笑い返した。

曹丕が「麴演らの反乱を鎮圧し西域との交通が復旧したから敦煌から真珠を贈ってきた。交易を再会すべきか」と問うと、「陛下の教化が行き渡り、御徳が砂漠(敦煌)にまで流れれば求めずとも自然と交易が始まるでしょう。自ら求めるのは尊重できません」と答え、曹丕は黙った。

狩猟に出た時、檻が壊れ捕まえた鹿が逃げ出した。曹丕は激怒し担当官を皆殺しにしようとしたが、蘇則は土下座し「古代の聖王は禽獣のことで人を害さないと聞きます。陛下は堯帝のような教化をしているのに狩りの遊びで大勢を殺そうとしています。良くないと思い死を覚悟して反対します」と述べた。
曹丕は「御身は直言の臣だ」と言い全員を赦免したが、それから蘇則を煙たがるようになった。

223年、東平相に左遷され、赴任前に道中で病没した。剛侯と諡された。
子の蘇怡(そい)が後を継ぎ、子が無いまま没すると弟の蘇愉(そゆ)が後を継いだ。(『蘇則伝』)

陳寿は「威光によって動乱を平定した。政治が立派な上にきりりとして剛直であり、厳しい態度は称揚するべきである」と評した。

「演義」には登場しない。