曹髦  魏帝最後の反抗



曹髦(そうぼう)字は彦士(げんし)
豫州沛国譙県の人(241~260)

魏の四代皇帝。
曹霖(そうりん)の子。曹丕の孫。

244年、高貴郷公に封じられた。
若い頃から学問を好み一人前だった。

254年、曹芳が廃位され群臣の論議により帝位に迎えられた。(『高貴郷公紀』)

「魏略」に曰く。
司馬師は曹拠(そうきょ)を即位させようと考えたが郭太后(かくたいこう)は「曹拠は私の叔父で、彼が即位したら私の立場がありません。それに曹叡(夫)の血筋を絶ってしまってよいのでしょうか。礼の建前からも分家が本家の後を継ぐべきで、曹叡の甥の曹髦の即位が相応しいでしょう。幼い頃に面識があるから私が印綬を直接渡します」と主張し了承させた。

郭太后は「立派な人物となる器量がある」と詔した。
「王沈魏書」に曰く、司馬師は「文帝(曹丕)の孫で正しい血脈を受け継ぎ三代(曹操・曹丕・曹叡)の後継者に相応しい人物です。天下はこぞって頼みに思い、万民は大いに幸福になるでしょう」と上奏した。(『斉王紀』)

都に到着すると前殿に泊まるよう言われたが、そこが先帝ゆかりの場所だったため、別に宿を取った。駕籠の出迎えも断り、群臣が拝礼すると自らも輿を降りて答礼しようとし「儀礼では(天子は)拝礼しません」とたしなめられたが「私は(まだ)人臣である」と答礼した。宮門で輿から降りようとすると「しきたりでは(天子は)輿に乗ったまま入ります」と言われたが「皇太后のお召しに応じただけで、まだどうなるかわからない」と徒歩で入った。
その日のうちに即位し群臣は(曹髦の聡明さに)喜びにひたった。
「三祖(曹操・曹丕・曹叡)は神の如き勇武と優れた恩徳で天命に答えたが、曹芳は思いのままに度外れな行為をし先祖の恩徳を覆してしまった。数にも入らない私が天子となり先祖の教えを受け継ぎ守り通し、中興の大業を盛んにできないのではと恐れ、谷底を目の前にしたように戦々恐々としている。祖先や群臣の働きによって愚昧な私が何もせずとも天下が治まるように願う」と故事を引き抱負を語った。
大赦を行い改元した。
宮廷の費用を減らし、華美だが無益な物の制作を辞めさせた。

「魏氏春秋」に曰く。
英明で颯爽とし言葉ははっきりとよく通った。司馬師が人となりを尋ねると鍾会は「才能は曹植(そうしょく)と同じほど、武勇は太祖(曹操)に似ています」と答え、司馬師は「君の言う通りなら社稷(魏)にとって幸福だ」と言った。

同年冬、使者に各地を巡察させ、無実の罪で職を失った者を救済させた。
司馬師に鉞と特権を与えた。
黄龍が現れた。
曹芳廃位の功績を論功行賞させた。

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が反乱し司馬師が討伐したが、帰路に急逝した。弟の司馬昭が後を継いだ。
「世語」に曰く、曹髦も討伐に同行した。(※裴松之は「曹叡の後に皇帝が討伐に同行したのは257年の諸葛誕の反乱が初である。「世語」は他の晋の官吏が編纂した書物と比べ才能乏しく口が悪く最も愚劣だが、変わったことが多く書かれているから広く読まれている。干宝・孫盛もそこから多く採録したため彼らの「晋書」には嘘や誤りが多い」と批判する)

卞皇后(べんこうごう)を立て大赦を行った。
「尚書」を学び終え講義した者に褒美を与えた。
王経(おうけい)が姜維に大敗し、 侵攻された地域を慰問させ、賦役を1年免除し、戦死者を弔うよう詔勅した。
翌月には蜀にやむなく降伏した者を恩赦し、戦死者の遺骨を探すよう詔勅した。

256年、青龍が現れた。
「魏氏春秋」に曰く。
重臣らと古代の帝王の優劣について論じ合い、曹髦の少康の評に群臣は感心し虞松(ぐしょう)が「少康の事績ははっきりせず言及する者もいませんでした。陛下の詳しい考察を記録し永遠に後世に伝えるべきです」と勧めると、曹髦は「私の学問は広くなく見聞も浅く偏狭だから議論が正しくないか懸念される。見るべき所があり当て推量が時々当たったとしても尊重するほどではなく、後世の賢人に笑われ私の愚昧さをはっきりさせることになるだろう」と断ったが、鍾会が書き残した。

司馬昭に天子の衣服を与えた。
太学で学者らに質問し「易」や「尚書」・「礼記」を講義させた。曹髦の鋭い考察に庾峻(ゆしゅん)は「私めは愚かで陛下のお考えの足元にも及びません」と恐れ入った。

曹髦自らの文集に曰く。
「帝王が誕生する際には瑞祥が現れるという。私は間違って帝位についた身で前代の王者と比較することはできないが、後世のために書き記す」と自分が生まれた日に起こった瑞祥を記した。

「晋諸公賛」に曰く。
曹髦はいつも司馬望(しばぼう)・裴秀(はいしゅう)・王沈(おうしん)・鍾会と討論して文学論を書きつづり、4人を称える異名を与えた。曹髦はせっかちな性格で、裴秀らは宮廷内に勤務していたからお召しが掛かるとすぐ参上できたが、司馬望は宮廷外に勤めていたため、特別に車と兵5人を与え、すぐ駆けつけられるように手配した。

同年6月、甘露が降った報告を受け甘露元年に改元した。
黄龍が現れた。
鄧艾が姜維に大勝したのを称え「首級と捕虜は5桁に上り、近年にない大勝である。使者を派遣して将兵をねぎらい、饗応して終日に渡り酒盛りさせよ」と詔勅した。
司馬昭に大都督の称号と鉞や特権を与えた。

257年、青龍が現れた。
玄兎郡の反乱で戦死した県長の遺体を故郷まで運んだ平民の王簡(おうかん)を顕彰するよう詔勅した。
群臣に詩を作るよう命じたが、和逌(かゆう)や陳騫(ちんけん)は不得手でなかなか出来上がらず、担当官吏は罷免するよう上奏した。
しかし曹髦は「私は文学を愛し、詩賦で政治の得失を認識している。このような揉め事は意図していない。係官は群臣が昔の正しい道理を深く味わい学び、経典を習得できるようせよ」と詔勅を下し、二人を許した。

司空に任じられた諸葛誕が疑心暗鬼から反乱した。
反乱に巻き込まれた人々に恩赦を与え「高祖・光武帝・明帝(曹叡)は自ら討伐に赴き、激怒を燃え上がらせ武威を轟かし輝かせた。郭太后と朕も自ら討伐する」と詔勅し、反乱に加担しなかった者を顕彰した。
呉から亡命した孫壱(そんいつ)を「呉の高位にあり王族ながら心を入れ替え我が国に身を寄せた。微子や楽毅が亡命したことよりも素晴らしい。侍中・車騎将軍・仮節・交州牧・呉侯に任じ、幕府を開くことを認め、儀同三司を与え、天子の衣装を与えよ」と詔勅した。
(※裴松之は「孫壱は切羽詰まって亡命しただけで称賛されるべき点は無い。三公待遇はやりすぎだ。孟達(もうたつ)や黄権(こうけん)が亡命した時はこんなに厚遇されなかったが、孫壱・孫秀(そんしゅう)・孫楷(そんかい)は極端に優遇された。しかし呉の滅亡後に位階を数等も下げられた。これははじめの待遇が度を越していた結果ではなかろうか」と批判した)

故事に基づき尚書も討伐に同行するよう詔勅した。反乱に従わず諸葛誕に殺された配下を顕彰した。
大赦を行った。(『高貴郷公紀』)

「魏略」に曰く。
討伐の際に賈逵(かき)を祀る祠に立ち寄り「賈逵は死んだが(官民が建てた祠に)愛情は残り代々祀られている。立派な風格を聞き及んでおり称えよう。先帝(曹叡)も立ち寄り称揚され、朕もその死を悲しむ。祠を清掃し、修繕せよ」と命じた。(『賈逵伝』)

258年、諸葛誕を捕らえ処刑した。
「前漢で南越を滅ぼした時には地名を変え戦功を称えた。司馬昭も同様に勝利した土地に美しい名を付けるべきである。丘頭を武丘と改名せよ」と詔勅した。
さらに相国・晋公に封じ領邑8郡と九錫を与えようとしたが、司馬昭は9度に渡り辞退し沙汰止みとなった。
218年の南陽郡の反乱の際に太守をかばい戦死した応余(おうよ)を称え、孫を取り立て恩賞を与えるよう詔勅した。
諸葛誕討伐の論功行賞をした。
「老人を扶養し教育を振興することで古代の王朝は教化を樹立し名声を永遠に残した」と三老・五更の制度を復活させ、古礼に則り自ら儀式を執り行った。
青龍・黄龍が続けざまに現れた。

259年、2匹の黄龍が現れた。
「漢晋春秋」に曰く。
この頃しきりに龍が現れ人々は吉祥と考えた。曹髦は「龍は君主の徳の象徴である。それも天や田ではなく井戸の中にたびたび現れるのはめでたい」と言い「潜龍」の詩を作り自らの徳を称えた。司馬昭は不愉快に思った。

孫壱が女中に殺された。

260年、日食があった。
司馬昭を相国・晋公とし九錫を与えるよう打診された。

曹髦は急逝した。享年20。
郭太后は「書や文学を愛好し将来を期待したが、性情は荒々しく道を外れ日に日に悪くなった。私がたびたび叱責すると逆恨みして悪逆非道の誹謗をし、関係は断ち切られた。彼の言葉は聞くに耐えず天地も許さない。私はこのままでは宗廟を守れず国家を転覆し、先帝(曹叡)に合わせる顔もないと司馬昭に相談した。彼はまだ若いからいずれ改心するだろうと弁護したが、曹髦の暴挙はますます酷くなり、私の首に当たるよう呪いを掛けた矢を撃ち込み、目の前に落ちたこともあった。私が数十回に渡り退位を相談すると、とうとう私を毒殺しようと何度も計画した。
それが発覚するとついに挙兵し、詔勅で私の殺害と司馬昭の逮捕を命じたものの、返り討ちに遭い殺された。道理にもとる反逆を行った上に自ら災禍を招き、私の心を痛ませたことは言葉にもできない。古例にならい平民に落とし、加担した王経の一族を逮捕せよ」と命じた。

「漢晋春秋」に曰く。
曹髦は実権を日に日に司馬昭に奪われるのを怒り、王経・王沈(おうしん)・王業(おうぎょう)らを召し寄せ「司馬昭の本心は誰でも知っている。坐して退位の恥辱を受けるくらいならば自ら討ち取る」と言った。王経は「朝廷の内部から天下四方に至るまで司馬氏に支配され味方はいません。兵も武器もろくになくどこで調達するつもりですか。しかも一度挙兵すればもはや後戻りできずどんな災禍を招くか計り知れません」と翻意を促した。
だが曹髦は討伐の詔勅を地面に投げつけ「事は既に決まっている。死をも恐れないし必ず死ぬとも決まっていない」と言い、郭太后へ報告に出向いた。王沈・王業はすぐさま司馬昭に密告し、迎撃態勢が整えられた。
曹髦は数百人の下僕を引き連れ挙兵し、駆けつけた司馬伷(しばちゅう)を叱りつけて撤退させた。賈充(かじゅう)が迎え撃ったが自ら剣を振るう曹髦に兵は手出しできず、成済(せいせい)が対処を問うと賈充は「お前達に食い扶持を与えてきたのはこの日のためだ。殺しても問題にしない」と焚き付け、成済は曹髦を突き殺した。刃は背中を貫通した。
司馬昭は報告を受けると驚いて地面に倒れ「天下の人は私になんと言うだろう」と言い、司馬孚(しばふ)は曹髦の遺体に取りすがり「陛下を殺したのは私の咎です」と号泣した。

裴松之は「この漢晋春秋の記述が最も筋道立っている」としてまず紹介し、次の異説を付記する。
「世語」に曰く、王経は真っ当な人間だったため曹髦のもとを離れず、司馬昭に自分は協力しないと伝えるよう王沈・王業に頼んだ。(『高貴郷公紀』)
しかし王沈・王業は伝えなかったため王経は殺された。(『夏侯尚伝』)

「晋諸公賛」に曰く、王沈・王業は王経も来るよう誘ったが断られた。
「晋紀」に曰く、賈充は成済に「殿(司馬昭)がお前達に食い扶持を与えてきたのはこの日のためだ。何をためらっている」と言い殺させた。
「魏氏春秋」に曰く、曹髦が挙兵しようとすると雨が降り出したため延期するよう勧められたが、構わず王経らに会い「これ(司馬昭の専権)が我慢できるなら他に我慢できないことなどない。今日こそ決行する」と挙兵した。賈充の攻撃で兵は四散したが曹髦の名を唱えつつ抗戦したため近づけず、賈充に焚き付けられた成済に攻められ曹髦は戦死した。ちょうど激しい雷雨が降り辺りは真っ暗だった。
「魏末伝」に曰く、賈充は「司馬氏がもし敗れたらお前らの血筋が残るとでも思っているのか。なぜ戦わない」と叱責し「殺すべきか生け捕りにすべきか」と問う成済兄弟に殺せと命じた。曹髦が武器を捨てよと命じると賈充の兵はみな武器を捨てたが、成済兄弟だけは構わず進み曹髦を殺した。(『高貴郷公紀』)

「漢晋春秋」に曰く。
王経は処刑されたが連座した母は「人はみな死ぬものです。以前お前の仕官を止めたのは死に場所を得られないことを心配したからです。こうして死に場所を得られたなら何を恨むことがあるでしょう」と言った。
265年、司馬炎は「法によって殺されたが志操を貫き通したのは評価すべきだ」とし孫を取り立てさせた。(『夏侯尚伝』)

「晋紀」に曰く。
太常の陳泰(ちんたい)は抗議して参内せず、強引に連れ出されると涙を流した。司馬昭に「私に何をさせたいのか」と聞かれ「賈充を処刑し天下に謝罪してください」と答え、司馬昭に「それはできない。別のことを考えてくれ」と言われると「私はただこれを進言するために来ました。別の手などありません」と返した。司馬昭は黙りこくった。

「魏氏春秋」に曰く。
司馬孚・陳泰は曹髦の遺体を膝枕する礼を取り、号泣し哀悼した。司馬昭が現れると陳泰は慟哭し、司馬昭も泣きながら「どうすればよい」と尋ねた。陳泰は「賈充を斬れば少しは天下への謝罪になるでしょう」と言ったが司馬昭はしばらく考え「他の手を考えてくれ」と答えた。陳泰は「これ以上の言葉はありません」と言い、血を吐いて死んだ。

裴松之は「陳泰が太常になったことはなく、「晋紀」が何を典拠に書いたのかわからない。「魏氏春秋」は(官位が合っているだけ?)ややマシだがただもう一度書き直しただけで、これも典拠がない。作者の孫盛は同様のことをよくやるが大抵は元の文章に劣る。他人の言葉を転記する際には元の通りにすべきだ」と批判する。(『陳羣伝』)

司馬昭・司馬孚らは「曹髦の挙兵を止められなかった我々にも責任はあり、皇太后もなお憐憫の情を抱いているようです」と言上し王の礼で弔う許可を得た。
「漢晋春秋」に曰く、曹髦は都から30里離れた浜辺に葬られた。みすぼらしい車が数台付き従うだけで旗もなく、人々は顔を覆って泣く者さえいた。(※裴松之は「王礼で弔われたならここまで酷くはあるまい。曹髦の死を快く思わない人が過剰に記したのだろう」と指摘する)

曹奐が帝位に迎えられた。
司馬昭は相国・晋公・九錫を辞退し、郭太后はその謙譲を称えた。
司馬昭は「私は曹髦を傷つけないよう命じましたが成済は従わず殺してしまったため軍法に照らし処刑しました。私は曹髦に身を委ねご裁断に従うつもりでしたが、彼の狙いは皇太后の殺害だと知り、あわてて諌めようとしたもののその間に成済が殺してしまったのです。一族も連座させてください」と言上した。
郭太后は「5つの刑罰の中で親不孝の罪が最も重く、私を殺そうとした曹髦はもはや君主と呼べず大逆罪には当たらないが、司馬昭の悲痛な思いに応えよう」と許可した。
「魏氏春秋」に曰く、成済兄弟は屋根の上に逃げ追っ手に悪口雑言を浴びせたが射殺された。
「世語」に曰く、石苞(せきほう)は任地に戻る前に曹髦に面会し一日中語り合った。司馬昭がなぜ長く滞在したのか問うと石苞は「非常に優れた人物だからです」と答えた。石苞が出発した数日後に曹髦は殺された。

郭太后は「君主の名と字は避けるしきたりだが、曹髦の名も字も(ありふれて?)非常に避けづらい。改名を議論せよ」と詔勅した。(『高貴郷公紀』)

「襄陽記」に曰く。
263年、魏が蜀を攻めると誰もが成功しないと予期したが、呉の張悌(ちょうてい)は「司馬氏は国内をまとめ上げ曹髦の死にも動揺しなかった」などの例を上げ成功すると予想した。人々は笑ったが的中した。(『孫晧伝』)

陳寿は「才能優れ若くして完成し、議論を好み文章を尊重するなど曹丕の風格があった。しかし軽はずみな性格で憤怒に任せて自ら死を招いた」と評した。
また曹髦の死について司馬師が偽った郭太后への反逆をそのまま載せつつも、通常は「崩ず」と書くべきところを「卒す」と記し、亡くなった場所も省くなど異変があったことを匂わせている。

「演義」では諸葛誕の討伐に出たことは司馬昭が留守中の変事を恐れて無理やり連れ出したことに変更された。最期は専権に歯向かい戦死したと史実通りに描かれる。