曹叡 三代目の麒麟児

曹叡(そうえい)字は元仲(げんちゅう) 豫州沛国譙県の人(206~239)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
魏の二代皇帝。 曹丕と甄姫の子。曹操の孫。
祖父の曹操はかわいがりいつも側に置いた。
220年、13歳(※曹叡の年齢は2歳上に誤記される)で武徳侯に封じられ、221年に斉公、222年に平原王に進んだ。
しかし母の甄姫が221年に誅殺されたため曹丕に疎まれ、太子に立てられなかった。(『明帝紀』)
毛皇后(もうこうごう)は黄初年間(220~226)に曹叡の側室となった。曹叡と同じ輿に乗るのを許されるほど寵愛された。(『明悼毛皇后伝』)
226年、曹丕は重体に陥りようやく太子に立てた。
同月に即位し、大赦を行い、卞太后(べんたいこう)を太皇太后、郭皇后(かくこうごう)を太后とし諸臣を封爵した。
甄姫に皇后を追贈し、弟の曹蕤(そうずい)を陽平王に封じた。(『明帝紀』)
即位を祝い饗宴を開くべきだと建議された時、王子の頃に傅役だった高堂隆(こうどうりゅう)は故事を引いて反対し、曹叡も敬意をもって受け入れた。(『高堂隆伝』)
5等あった王后の位を曹丕は5つ増やし、曹叡はさらに3つ増やし1つ省いた。
太和年間(227~232)には夫人の位を皇后の次、貴賓と同位に引き上げた。(『后妃伝』)
帝位につくと毛氏を貴嬪にしたが、正室の虞氏(ぐし)を皇后に立てなかった。卞太后がそれを慰めると、虞氏は「曹氏の男は下賤の女を好む」と暴言(※曹操・曹丕はともに身分の低い側室を皇后に立てた)を吐いたため、正室からも廃された。(『明悼毛皇后伝』)
陳羣(ちんぐん)は初めて政治に携わる曹叡に「徳を高め教化を行き渡らせ、臣下が敵対しないよう用心してください」と上奏した。
太和年間(227~232)、曹真(そうしん)が蜀を攻めようとすると不利を説き、(莫大な)戦費を計算して反対した。曹叡はその意見をそのまま伝えたが曹真は従わず進軍したものの、長雨により足止めされ、陳羣の具申により撤退の勅命が下った。(『陳羣伝』)
孫権が荊州江夏郡を攻撃した。群臣は救援を求めたが、曹叡は「孫権は水戦に慣れているのにあえて陸戦を仕掛けたのは急襲するためだ。だが江夏太守の文聘(ぶんぺい)はよく防ぎ、攻撃側には倍の兵力が必要だがそれも足りていない。持久戦になったから絶対に長居はしない」と言い、援軍は送らず治書侍御史の荀禹(じゅんう)を慰労に向かわせた。
荀禹は道すがら1千の兵を集め、江夏に到着すると山に登って狼煙を上げ、それを見た孫権は撤退した。
子の曹冏(そうけい)を清河王に封じたが2ヶ月後に没した。 三公や武官を再編した。(『明帝紀』)
曹洪(そうこう)の乳母の当(とう)が罪を犯した時、卞太后は宦官の呉達(ごたつ)を派遣し釈放させようとしたが、司馬芝(しばし)は無視してさっさと処刑を命じた。
事後に報告し独断を詫びたが、曹叡は「処理は正しく何も謝罪することは無い。今後も宦官が何か言ってきても取り合う必要はない」と言った。
青龍年間(233~237)に大司農となり、農業政策の重要さを説き、曹叡も従った。(『司馬芝伝』)
華歆(かきん)は病を理由に太尉を辞退し管寧(かんねい)を後任にしようとしたが曹叡は許可せず、繆襲(きゅうしゅう)に復帰を命じる詔勅を届けさせ、その中で「朕は席を立ち君が来るのを待つ。君が到着したら朕も席につこう」と言い、繆襲にも「間違いなく床から立ち上がるのを見るまで帰るな」と命じ、やむなく華歆は復帰した。(『華歆伝』)
鍾繇(しょうよう)は老齢で膝を痛め拝伏や立ち上がりがままならず、華歆も高齢で病を得たため、朝廷には車に乗って参内させ、衛兵が抱えて席につかせるよう取り計らった。以後、三公に病があれば慣例となった。(『鍾繇伝』)
王朗(おうろう)は甄姫の墓に詣でた時、生活に困窮する民を見て、宮殿造営に勤しむ曹叡を諌めた。
曹叡の子が幼くして何人も亡くなると、王朗は心を痛め「布団が分厚く心地よすぎて、かえって強い身体に育てるには向いていないのではないか」と上奏し、曹叡は感謝した。(『王朗伝』)
蔣済(しょうせい)は当時、専権を振るっていた劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)が力を持ちすぎていると諫言し、曹叡は「文武両道にして忠節を尽くし立派である」と(諫言に従わなかったが)称えて護軍将軍に昇進させ、散騎常侍を加えた。(『蔣済伝』)
劉放・孫資は最も曹叡の寵愛を受けた。劉放は文才に優れ、曹操~曹叡三代が詔勅で降伏を呼びかける時には文書を作成することが多かった。(『劉放伝』)
当時、孫権は豫州南方の東関に駐屯し、長江からは400里離れていた。豫州は国境を守るばかりで孫権は北方に不安がないため、東西から連携して攻められ敗北することが少なかった。
賈逵(かき)は長江への直通路を造り、孫権の本隊を脅かせば東西の連携を断ち切り、東関も落とせると進言し、駐屯地を南へ移した。曹叡は判断を称えた。(『賈逵伝』)
鄭渾(ていこん)は魏郡太守を務め、村々は一つにまとまり人々は財物に恵まれていた。曹叡はそれを称え将作大匠に昇進させ、天下に治績を布告させた。(『鄭渾伝』)
劉劭(りゅうしょう)の「趙都の賦」を見事だと称え、「許都の賦」と「洛都の賦」も勅命で作らせた。(『劉劭伝』)
曹叡が尚書門を訪れ自ら文書を調べようとすると尚書令の陳矯(ちんきょう)はひざまずき「それは私の職責です。私が職務にふさわしくないなら罷免し、そうでないならばお帰りください」と諌めた。曹叡は恥じ入り引き返した。(『陳矯伝』)
徐宣(じょせん)は曹叡が行幸すると留守を任され、帰還後に尚書の担当官が決裁を求めると、曹叡は「(徐宣が先に決裁したなら)私が見ても徐宣が見ても同じだ」と全く見なかった。
刑罰の軽重や宮殿造営を諫言すると、曹叡は自筆で詔勅を下し、それを納めた。(『徐宣伝』)
曹叡が宮殿造営に励み、後宮に多数の女子を入れさせたが世継ぎに恵まれないでいると、高柔(こうじゅう)は故事を引いて諌めた。曹叡は「真心をもって気に掛け常に良い言葉を述べてくれるのは存じている。これ以外のことも具申してくれ」と返答した。(※従わなかった)(『高柔伝』)
ある時、諸葛瑾(しょかつきん)にのみ孫権は「陸遜が言うには、魏は曹丕が没したから動揺し瓦解するだろうと思っていたが、案に相違し全く揺るがず、それどころか善政を敷き曹操の時代よりも堅固になった、とのことだ。だが私はそうは思わない。曹操の配下をまとめる手腕は古今にも稀なもので、曹丕はその万分の一にも及ばない。後を継いだ曹叡はなおさらだ。曹叡はそれを知っているから民衆の歓心を買うために統治を緩めただけだ。重臣の陳羣や曹真は曹操・曹丕に頭を押さえつけられていたが、曹叡は幼く抑えが効かない。彼らは派閥を作って争いを始め、混乱と滅亡へと至るだろう。陸遜は物事の判断に長じているが、こればかりは判断を誤ったのだ」と評した。
(※裴松之は「曹叡は聡明で自ら政治を行い、孫権の読みは外れた。しかしこれを史書に載せたのは、幼君が立てば混乱と滅亡を招くのは道理であり、記録すべき言葉だと考えたからだろう。また次の曹芳の代にまさしく的中しており、曹芳の時代への批判をこのような形で表したものだろうか」と指摘する)(『諸葛瑾伝』)
227年、曹操を天帝と、曹丕を上帝と合わせて祀った。甄姫の霊廟を都に建立した。初めて祖先の霊廟を造営した。
毛皇后を立てた。(『明帝紀』)
毛一族も同様に厚遇されたが、父の毛嘉はもともと身分が低かったため粗野な振る舞いを笑われた。(『明悼毛皇后伝』)
毛皇后の弟の毛曾(もうそう)も名家の出の夏侯玄(かこうげん)と同席した時、夏侯玄はこれを恥辱に感じ不愉快さをあらわにしたため、曹叡は怒り左遷した。(『夏侯尚伝』)
同227年、祖父の甄逸(しんいつ)に爵位を追贈し、孫の甄像(しんぞう)に家を継がせた。
祖先の霊廟を建立すると地面から玉璽が発掘され「天子は慈しみ深い母を思慕する」と書かれており、曹叡は襟を正し霊前に報告した。
母の夢を見たのをきっかけに母方の親族に血縁と身分から等級を付け、それぞれに官位と莫大な下賜品を与えた。
祖母の張氏(ちょうし)が没すると自ら葬儀に列し、百官も従った。(『文昭甄皇后伝』)
太和年間(227~232)のはじめ、諸葛亮が北伐の兵を起こすと曹叡は自ら迎撃に出ようとしたが、鍾毓(しょういく)は反対し、黄門侍郎に昇進した。(『鍾繇伝』)
太和年間(227~232)、高堂隆が異常気象は役人の職務怠慢が原因だと訴えると、和洽(かこう)も同意し節倹を勧め、曹叡が血道を上げていた宮殿造営も遠回しに批判した。
和洽は清貧を重んじたため、田畑や宅地を売って生計を立てるほどで、それを聞いた曹叡は余分に恩賞を与えた。(『和洽伝』)
太和年間(227~232)頃、孫礼(そんれい)は尚書となり、気候不順で穀物が少ないため宮殿造営の労役をやめるべきだと頑強に諌めた。曹叡は聞き入れた。
監督していた李恵(りけい)は「あと一月続け完成させたい」と上奏したが、孫礼はすぐさま現場へ向かい詔勅と称して民を解放させた。曹叡は立派だとして咎めなかった。
曹叡が狩猟に出た時に虎が近づくと、孫礼は馬を降りて剣で立ち向かおうとし、曹叡は馬に乗れ(逃げろ)と勅命を下した。(『孫礼伝』)
228年、長安に行幸し(蜀に侵攻された地域を慰撫し、蜀に降伏を呼びかけ)た。 大旱魃があった。
儒学に長じた者を抜擢し登用するよう詔勅した。 子の曹穆(そうぼく)を繁陽王に封じたが翌年に没した。
公卿と側近に優れた将を一人ずつ推挙させた。(『明帝紀』)
同228年、并州刺史の梁習(りょうしゅう)は大司農に任じられた。20余年に渡り刺史を務めたが私腹を肥やさなかったことを曹叡は格別に思い、手厚い礼遇と賜り物を与えた。(『梁習伝』)
同228年、曹休(そうきゅう)が没し満寵(まんちょう)が後任の都督となった。元の任地の兵や民が満寵を慕いついて行き、担当官は中心人物を殺してそれを止めようとしたが曹叡は親衛隊として1千人の随行を許可し、他は咎めなかった。
満寵が「疲れと老いで惑乱している」と讒言されると召し寄せて自ら確認し、任地へ戻した。満寵は朝廷に留まりたいと願ったが、「廉頗・馬援は老いてもそれを示さなかったが、君は老いていないのに老いたと思い込んでいる。国境を安定させ恩恵を与えてくれ」と却下した。
238年に前線から呼び戻され、節倹に努め余財のない満寵を称え曹叡は多くの恩賞を与えた。(『満寵伝』)
229年、高祖父母の曹騰(そうとう)と呉氏(ごし)に皇帝・皇后を追贈した。(※曹騰は宦官で初めて帝位を贈られた)
王后に子がおらず一族から後継ぎを立てた場合、その親に王后を追贈しないよう詔勅した。
「裁判は天下の生命である」と常々言い、大きな裁判には常に参加し取り調べた。
洛陽に霊廟が完成し、曹騰~曹丕4代の位牌を鄴から安置させた。(『明帝紀』)
曹叡に祖先のどこまでに尊号を与えるべきか議論を命じられると、劉曄(りゅうよう)は故事を引き高祖父の曹騰までが妥当と言い、衛臻(えいしん)も同意したため法制化された。(『劉曄伝』)
同229年、孫権は帝位につき「曹叡のこわっぱは曹丕の悪行の後を継ぎ、武力を頼んで国土を盗み、いまだ誅殺されていない」と非難した。(『呉主伝』)
230年、才能ある者を登用し、表面だけ取り繕った者を罷免するよう詔勅した。 曹丕の「典論」を石に刻み霊廟の外に建てた。
東方へ行幸し中岳を祀った。 大洪水が起こった。死刑囚を除き大赦をした。金星と木星に異変があった。 甄姫を改葬した。
公卿に才能・人格ある者を推挙させた。 冬10月から翌年3月まで雨が降らなかった。(『明帝紀』)
かつて曹丕は祖父母(卞氏の両親)に爵位を追贈しようとすると、陳羣に「古典には女性に爵位を授ける制度はありません。秦王朝がそれに背き、漢王朝はそれを踏襲しただけで、古代の王者の典則ではありません」と反対され、「この意見は正しい。命令を撤回する。この詔勅を収蔵し永く後世の典範とせよ」と命じた。
同230年、曹叡はそれに背き祖母・曾祖母に爵位を授けた。(『武宣卞皇后伝』)
同230年、低地にあった甄姫の陵墓を改葬させた。(『文昭甄皇后伝』)
同230年、鍾繇が没すると喪服で弔問し成侯と諡した。(『鍾繇伝』)
諸葛誕は夏侯玄・鄧颺(とうよう)らと親しく名声を集めたが、虚名をはびこらせていると糾弾する者がおり、曹叡は彼らを嫌い罷免した。
曹叡が没するまで彼らは表舞台に戻れなかった。(『諸葛誕伝』)
董昭(とうしょう)の「教化を損ない、反乱した魏諷(ぎふう)らの罪よりも重い」という進言により罷免されたのである。(『董昭伝』)
231年、雨乞いを行った。 子の曹殷(そういん)が生まれ、大赦をしたが翌年に没した。
「先帝(曹丕)は諸王を都の外へ出したが、それは母に政治を執らせ(その一族に権力を握られ)るのを防ぐためだろう。しかし諸王とは12年も会えずにいる。諸王・公侯に嫡子1人ずつを朝廷に送らせよ。ただし母(の一族)には政治を執らせないよう重ねて書き記す」と詔勅した。
月に異変が2度あった。日食があった。
232年、「魏の建国時に諸王に藩国を与えたが、定まった制度はなく後代の規範とはならない」とし再編させ、国の単位を郡に改めた。
東方へ巡遊し弱者救済をした。 月に異変があった。 摩陂へ行幸し許昌宮を造営した。
金星に異変があった。彗星が現れた。(『明帝紀』)
同232年、娘の曹淑(そうしゅく)が1歳にならず没すると、領土と爵位を追贈し霊廟を建て、同時期に亡くなった甄姫の一族の子と冥婚させ、郭皇后の従弟の郭悳(かくとく)に家を継がせた。(『文昭甄皇后伝』)
陳羣は「1歳にもならない人物を成人の礼で送り、朝廷を挙げて服喪するなど聞いたこともありません。せめて陛下自身で群臣を率い霊柩車で送るのはおやめください。人々はそのまま遷都するのではないかと危ぶんでいます。人々を惑わせ、費用が掛かるだけです。いたずらに天下を騒がせる必要はありません」と諫言した。(『陳羣伝』)
同じく楊阜(ようふ)も「曹操・曹丕の葬儀の時でさえ、変事を恐れ都を留守にはしませんでした。歩くことさえできない赤児のために野辺送りは必要ありません」と反対したが曹叡はどちらも聞き入れなかった。
楊阜は曹叡が礼に背いた軽装でいると「それは礼の上ではなんという法服ですか」と尋ねた。曹叡は黙って答えなかったが、楊阜と会う際には必ず法服を着た。
曹叡は宮殿造営を始め、美女で後宮を満たし、狩猟にふけった。大雨と落雷が相次ぎ、楊阜は天の怒りだと厳しく諌め、さらに冷遇されていた曹植ら親族と仲良くするよう訴えた。
曹叡は「極めて厳しい言葉だが誠意と篤実さにあふれている。君主の過失を補い、良い点は褒め、悪い点は矯正し至れり尽くせりだ。たいそう感じ入った」と称えた。(『楊阜伝』)
青龍年間(233~237)、曹叡は宮殿造営に注力し長安から後漢王朝で使われた大鐘を取り寄せた。高堂隆が「無益で政治を傷つける」と反対すると、曹叡は卞蘭(べんらん)に「音楽は政治に関係なく鐘に罪はない」と反論させた。
高堂隆は故事を引いてとうとうと説明し、曹叡を納得させた。
宮殿で火災が起こり、詔勅でいかなる咎によるものか問われ、高堂隆は「節制せず宮殿造営しているからです。むやみに宮女を増やすから造営が必要になるのであり、宮女を減らすべきです」と諌めた。
曹叡が宮殿造営で火災の難を抑えた故事を引くと、高堂隆は故事で言い返し、焼け落ちた宮殿の修復もやめるよう諌めたが、曹叡は聞き入れなかった。
建築中にカササギが巣を作ったため曹叡が理由を問うと、「宮殿が完成せず、住むこともできない凶兆です。あなたに幸福をもたらし社稷(国家)を安定させられれば、私は身が灰になり一族が滅びてもなお、生を受けたように思うから諫言するのです」と言い、曹叡は態度を改めた。
同年、彗星が現れると「人々は宮女に掛ける費用と軍事・内政に掛ける費用が等しいと恨みを抱いています」と諫言した。
また当時は内外で事件が多く、法を峻厳に適用し過ぎていたため改正するよう上奏した。(『高堂隆伝』)
曹叡はたびたび高堂隆が宮殿造営を諌めるので不機嫌だった。盧毓(ろいく)は「主君が聡明であれば臣下は正直です。古代の聖王は自分の落ち度を知るために、誤ったことがあれば鳴らすよう太鼓を置かせました。近侍の臣下は忠言を尽くすもので、その点で私たちは高堂隆に及びません。彼は狂直と呼ぶべき(稀有の)人物です。どうか容認してください」とかばった。(『盧毓伝』)
233年、摩陂の井戸に青龍が現れ、行幸して見物し、青龍元年に改元した。摩陂を龍陂と改め、大いに祝った。
公卿に才能・人格ある者を推挙させた。 夏侯惇・曹仁・程昱(ていいく)を曹操の霊廟前に祀らせた。 弟の曹蕤(そうずい)が没した。
日食があった。 祠典(祭祀の規定を定めた書)に記されていない山川を祀ることを禁じた。 洛陽宮で火事があった。
鮮卑の軻比能(かひのう)が反乱し、歩度根(ほどこん)とよしみを通じたため、并州刺史の畢軌(ひつき)は討伐を訴え出た。
曹叡は「歩度根は軻比能に誘われたが迷いがある。討伐軍を差し向ければかえって結託させてしまうだろう」と反対したが、畢軌はすでに蘇尚(そしょう)、董弼(とうひつ)を出撃させていた。軻比能は息子に1千騎を与え歩度根の民を迎えに行かせたが、これが討伐軍と出くわし、不意をつかれたのか2将は敗北し首を打たれた。
歩度根は国境を出て軻比能と合流し、魏へ攻撃を加えた。都から派遣された秦朗(しんろう)にようやく撃退され、鮮卑軍は北方へ逃げた。(『明帝紀』)
青龍年間(233~237)に曹叡は自ら賈逵の祠に詣で「思い出すと悲しみがこみ上げる。生前は忠誠を抱いて勲功を立て、死後は慕われる不朽の人物である。天下にあまねく奨励せよ」と命じた。(『賈逵伝』)
234年、金星に異変があった。 「処罰のための鞭打ちで無実なのに命を落とす者が多い」と鞭・杖打ちを削減させた。
元の献帝が没し、曹叡は喪に服し皇帝として葬儀を行わせた。大赦をした。 疫病が大発生した。崇華殿(後宮)が炎上した。
曹丕の霊廟に献帝の死を報告させた。皇帝の諡をし漢の礼式で葬らせた。
諸葛亮が侵攻すると司馬懿に迎撃させ「ひたすら防御に専念せよ。蜀軍は戦に持ち込めなければ兵糧が尽き撤退する。そこを追撃するのが完全な勝利を得る方法である」と詔勅した。
金星に異変があった。
呉も蜀に連動し侵攻した。満寵は合肥新城を放棄し寿春で迎え撃ちたいと訴えたが、曹叡は「先帝(曹操・曹丕)は合肥・襄陽・祁山を前線の要とした。これは(孫子の兵法に言う)必ず争うべき土地だからである。合肥新城は陥落しない。守りを固めさせ、私が自ら討伐に出る。到着する頃には孫権は撤退するだろう」と命じた。
合肥新城は落ちず、曹叡の本隊がまだ数百里の彼方にある段階で呉軍は撤退した。
群臣は長安へ行幸し司馬懿の援護もするべきだと進言したが、曹叡は「孫権が撤退したため諸葛亮は肝を潰し、司馬懿が制圧している。心配する必要はない」と言い、寿春へ進んで慰撫し、都へ帰った。
諸葛亮は陣没し、蜀軍は撤退した。(『明帝紀』)
司馬懿は以前から決戦を挑みたいとたびたび要請してきたが、曹叡は却下し続けていた。
この年にはもう抑え切れないと感じ、辛毗(しんぴ)を大将軍軍師・使持節に任じてその指示に従うよう命じ止めさせた。(『辛毗伝』)
満寵は援軍と休暇中の兵を呼び戻すよう要請した。劉劭も同意し「大軍を派遣したと偽り、退路を断つ動きを見せれば戦わずして呉軍は撤退するでしょう」と献策した。曹叡は従い、その通りになった。(『劉劭伝』)
月に異変が2度あった。都で地震があり、東南からどよめきが起こった。 死罪を減らすよう詔勅した。(『明帝紀』)
同234年、伯父の甄儼(しんげん)に諡号を追贈した。(『文昭甄皇后伝』)
曹幹(そうかん)は母が曹丕の後継者争いに貢献したため厚遇され、同様にするよう遺言された曹叡は常に目を掛けていた。
同234年、曹幹は時節を間違い、勝手に賓客と交際する罪を犯したと上奏された。だが曹叡は詔書を送り戒めるだけに留め、処罰しなかった。(『趙王幹伝』)
235年、洛陽宮を大造営し、動員された民衆は農業をできなかった。楊阜・高堂隆ら直言の臣が何度も厳しく諌めた。曹叡は聞き入れなかったが彼らを咎めなかった。
洛陽の崇陽殿が炎上した。 一族の曹芳を斉王に、その兄の曹詢(そうじゅん)を秦王に立てた。 崇華殿を再建し九龍殿と改名した。
金星に異変があった。(『明帝紀』)
鍾毓も宮殿造営に反対し、むしろ荒地の開墾を進めるべきだと進言し、採用された。(『鍾繇伝』)
陳羣も諫言したが曹叡は「王者の宮殿は数あって当然である。天下統一後はそれを守るだけでよく、以後に土木工事をする必要がないようにしているのだ。これは蕭何の事績にならったもので(同じ宰相の)君の職務である」と退けた。
陳羣は「蕭何は宮殿が焼失していたから再建したのであり、しかも壮麗なものではありませんでした。人間は己の欲求に理由を付けるもので、それが天子の行いなら誰も反対できません。先にも武器庫を壊したり建てたり考えがころころ変わりましたが止められないのです。漢の明帝(劉荘)は鍾離意の諫言により宮殿造営をやめましたが、結局死後に建てました。私の言葉が聞き入れられないのなら、私は(蕭何どころか)鍾離意にも及ばないことになります」と厳しく諌めた。曹叡はやめなかったが計画を縮小した。(『陳羣伝』)
衛臻(えいしん)もたびたび厳しく諫言し、担当者の越権行為を、曹叡の干渉をはねつけて公正に裁いた。(『衛臻伝』)
王基(おうき)も故事を引き諌めた。(『王基伝』)
毌丘倹(かんきゅうけん)は曹叡が東宮(太子の宮)にいた頃からたいそう親しく、宮殿造営を「賊国(呉・蜀)を除き衣食を充実させるのが急務で、宮室を立派にしてもなんの益もありません」と諌めた。(『毌丘倹伝』)
曹叡は子がなかったため(後継者として)曹芳・曹詢を養育し、彼らの素性は厳重に秘された。(『斉王紀』)
同235年、甄像が没すると子をみな列侯した。(『文昭甄皇后伝』)
236年、金星と月に異変があった。
崇文観を設置し文章に秀でた者を登用した。
「古代には刑罰を定めただけで罪を犯す者は現れなかったが、現代では刑罰をどれだけ増やしても悪を止められない。前年に死罪を減らしたがそれでもなお一年に数百人が処刑されている。謀叛人と殺人者を除き死罪をやめ両親に処置を任せよ。恩情を乞う者がいれば私が自ら検討する」と詔勅した。
金星に異変があった。彗星が2日続けて現れた。翌月にまた現れた。(『明帝紀』)
同236年、祖母の張氏、伯母の劉氏(りゅうし)にも爵位を追贈した。(『文昭甄皇后伝』)
徐宣は68歳になると「礼の掟では70歳で引退するべきだ」と引退を申し出たが、曹叡は認めず、236年に在官のまま没した。
曹叡は「至誠を具え方正だった。魏三代に仕え公明にして厳正、太子を託し王朝の運命を預けるに足る節義を持つ、柱石の臣だった。宰相を任せようと思っていたが、その前に没してしまった。車騎将軍を追贈し、三公の礼で葬れ」と命じた。(『徐宣伝』)
管寧は青龍年間(233~237)まで招聘され続け、毎年8月には牛と酒が下賜された。
曹氏三代にわたり断られ続けた曹叡は業を煮やし青州刺史の程喜(ていき)へ「管寧は高潔な生き方を貫こうとしているのか。本当に老いと病で出仕できないのか」と質問した。
程喜は管寧の親族と常に連絡を取っていると言い「長く隠遁を続け知力も衰えたため控えめな態度なのでしょう。高潔さを貫くためではありますまい」と弁護した。(『管寧伝』)
237年、黄龍が現れた。 暦を改め改元し、色の規程を定めた。 大赦をした。 都に地震があった。
曹操~曹叡の3代の霊廟を残し、他は時代が下るに従って取り壊すよう上奏された。
遼東郡で公孫淵(こうそんえん)が反乱し独立した。脅されて協力した者を赦免した。 金星に異変があった。
(公孫淵の討伐に備え?)4州に軍船の建造を命じた。大洪水が起こった。 毛皇后を誅殺した。 月に異変があった。(『明帝紀』)
寵愛は郭氏(かくし)に移り、毛皇后は顧みられなくなった。
曹叡は妃や女官たちと宴を開いた。郭氏は毛皇后も招くよう勧めたが、それを却下し宴があったことも知らせないよう一同に厳命した。
しかし翌日、毛皇后が「昨日は楽しかったですか」と皮肉を放つと、曹叡は密告した者がいると激怒し、侍女ら十数人を殺害し、毛皇后にも自害を命じた。
曹叡は彼女に「悼」と諡し、皇后として葬った。 毛曾も後に左遷された。(『明悼毛皇后伝』)
同237年、甄姫の霊廟を都に建てるよう上奏され、曹操~曹叡の3代と同様に恒久的に取り壊されることのないよう取り計らわれた。
曹叡は絶えず甄姫の一族を気にかけ、伯父の孫の甄儼(しんげん)が幼いうちに高位に就け、大邸宅を建ててやり、たびたびそこを訪れた。亡き伯母の劉氏のために高殿と廟を建て、その地域を母を想う故事にならい渭陽里と名付けた。(『文昭甄皇后伝』)
景初年間(237~239)に曹叡が宮殿造営に血道を上げると、王粛(おうしゅく)は批判しつつも刑罰をはっきりさせるべきと改善案も示した。
また故事について尋ねられ、明快に回答した。(『王朗伝』)
238年、司馬懿に公孫淵を討伐させた。 月に異変があった。
大赦をした。 月に異変があった。彗星が現れた。 司馬懿が公孫淵を討ち取り遼東を制圧した。
はじめ曹叡が4万の兵を預けようとすると群臣は多すぎて戦費をまかなえないと反対した。しかし曹叡は「4千里の彼方に赴くのだから、たとえ奇策を用いるとしても結局は兵力に頼るべきだ。戦費を安く上げようと考えてはならない」と押し切った。
長雨が続いた時も撤退を議論されたが、曹叡は「司馬懿は危機に臨み変化に応じて対処できる。公孫淵を捕らえるのは時間の問題だ」と却下した。全て思惑通りとなった。(『明帝紀』)
劉禅は「曹叡は傲慢で兇暴であり遼東は暴虐に苦しみ離反した」と非難し、蔣琬(しょうえん)に出撃を命じた。(『蔣琬伝』)
月に異変があった。 重病にかかった。 郭皇后を立てた。
曹宇(そうう)を大将軍に任じたがすぐに罷免し曹爽(そうそう)を代わりとした。
寿春の農民の妻が登女(仙女)を名乗り、水で病気を治癒したため、曹叡は都に家を建ててやり厚遇した。しかしこの時に水を飲んだが病は治らず、怒って殺した。(『明帝紀』)
郭皇后は曹叡が危篤に陥ってから立后された。(『明元郭皇后伝』)
はじめ曹宇・曹肇(そうちょう)に後事を託したが、気が変わり罷免した。(『曹休伝』)
曹宇は4日に渡り心底から固辞し続けたため曹叡も考えを改めた。(『燕王宇伝』)
曹爽を寝室に引き入れて大将軍に任じ、節鉞を与え司馬懿とともに後事を託した。(『曹真伝』)
239年、遼東から帰還する司馬懿を早馬で召し寄せ、寝室に引き入れて手を取り「私の病は重い。後のことは君に任せる。曹爽とともに幼子(曹芳)を補佐してくれ。君に会えたら思い残すことはない」と告げた。
その日のうちに没した。享年34。(『明帝紀』)
孫礼も寝台の側に呼び曹爽の補佐を託したが、曹爽は彼を疎み左遷した。(『孫礼伝』)
景初年間(237~239)、劉劭は勅命により「都官考課」を作り勤務評定を改め、さらに「楽論」を作り儀礼と音楽を制定しようとしたが、曹叡が没したため果たされなかった。(『劉劭伝』)
曹叡の遺言で宮殿造営は中止された。 同年12月、正月が曹叡の命日のため祝われなくなったとして夏王朝の暦に戻された。(『斉王紀』)
254年、曹髦は帝位につくと曹操・曹丕・曹叡を三祖と並び称した。
257年、諸葛誕の反乱に際し「高祖、光武帝、明帝(曹叡)は自ら討伐に出た」と自分も討伐に出ると詔勅した。(『高貴郷公紀』)
陳寿は「沈着剛毅で決断力と識見を持ち、心意気を持って行動し、人民の君主としてまことに優れた気概があった。しかし戦乱で民は疲弊し天下は分裂していたのに、先代の優れた事業を整え、大業の基礎を固めようとせず、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝のように宮殿を造営した。将来への考慮として重大な失敗だったろう」と評した。
また「三少帝紀」では「嫡子がなければ親族のうち最も徳優れた者を後継者とするのが不変の法則である。しかし曹叡は情愛に囚われて幼子に位を譲り、(信頼できる)一人に後を託さず、あくまで一族の者を参与させた結果、曹爽の誅滅と曹芳の追放を招いた」と評した。
「演義」でもおおむね史実通りに聡明さも駄目さも描かれる。
宮殿造営は諸葛亮の死に安心して始めたとされるが、史実では在位中ずっと造営に励んでいる。また造営に反対されても咎めなかったが「演義」では諫言した者を迫害している。
その最期は後継者に指名しようとした曹芳が司馬懿に抱きついたまま離れず、曹芳を指さしながら息絶えたとアレンジされ、父に母を殺されておきながら、同様に妻を殺し子にも恵まれなかった曹叡の自業自得の孤独を描いた好アレンジである。
「吉川三国志」では即位時に15歳と6歳若く設定された。
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