曹丕 冷徹なる二代目

曹丕(そうひ)字は子桓(しかん) 豫州沛国譙県の人(187~226)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
曹操と卞氏(べんし)の子。 魏の初代皇帝。
曹操は族子の曹休(そうきゅう)を「我が家の千里の駒」と見込み、父のいない彼を引き取り曹丕とともに起居させ、我が子のように扱った。(『曹休伝』)
204年、甄姫は袁煕(えんき)に嫁いでいたが、曹操が冀州を制圧すると曹丕の妻に迎えられた。
曹叡と東郷公主(とうきょうこうしゅ)をもうけた。(『文昭甄皇后伝』)
曹操は并州征伐に向かい、崔琰(さいえん)を留守に残し曹丕を助けさせた。曹丕は狩猟に熱中しそのことばかり考えていたが、崔琰に諌められ狩猟の道具を壊した。(『崔琰伝』)
袁氏征伐に功績あった田疇(でんちゅう)は爵位を辞退し、それが不敬であるとして弾劾された。曹操は曹丕や大臣らに議論させ、曹丕は故事を引き意志を尊重して節義を認めてやるべきだと言い、荀彧・鍾繇(しょうよう)も同様の意見を述べた。
曹丕は後に帝位につくと改めて田疇の節義を採り上げ、従孫に後を継がせた。(『田疇伝』)
208年、聡明だった子の曹沖(そうちゅう)が早逝し曹操は酷く悲しんだ。曹丕が慰めると「私にとっては不幸だが(ライバルの消えた)お前たちにとっては幸いだ」と曹操は毒づいた。(『鄧哀王沖伝』)
210年、銅雀台が完成すると曹操は子らを全員連れて登り、賦を作らせた。曹植(そうしょく)が筆を執るやたちまち素晴らしい作品を作り上げ感心させた。(『陳思王植伝』)
211年、五官中郎将・副丞相となった。(『文帝紀』)
五官中郎将になると自ら(人事を司る)毛玠(もうかい)を訪ね、身内の推挙を頼んだが「私はよく職務に努めているために罪を逃れているのです。今お話になられた人物はいずれも昇進の序列から外れており、命令はお受けできません」と断られた。(『毛玠伝』)
曹丕は五官中郎将になると常林(じょうりん)を功曹に任命した。
同211年、曹操が馬超を討伐した時、河間郡で田銀(でんぎん)・蘇伯(そはく)が反乱した。
留守をあずかる曹丕は自ら討伐しようとしたが、常林は「私は博陵太守・幽州刺史を務めたので当地のことはよく知っています。民は争いを嫌い、田銀・蘇伯は犬や羊が集まったようなもので、智力は小さいのに野心が大きく、害をなしません。あなたは天下の抑えであり、軽はずみに遠征しては、勝っても武威を発揮することにはなりません」と反対し、曹丕は配下を討伐に派遣した。(『常林伝』)
曹丕・曹植は文学者として並び称され、王粲(おうさん)・徐幹(じょかん)・陳琳(ちんりん)・阮瑀(げんう)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)は友人として遇された。(※王粲ら6人に孔融(こうゆう)を加えた7人が建安七子)(『王粲伝』)
曹操は遠征に出る時、張範(ちょうはん)と邴原(へいげん)を留守に残し、曹丕には必ず二人に相談するよう言い置き、曹丕は子や孫として礼を尽くした。(『張範伝』)
劉廙(りゅうよく)は曹丕の側近になると信任され、書状を送る時は草書で構わないと許され、恐縮した。(『劉廙伝』)
213年、郭貴人(かくきじん ※後の皇后)の家は没落し、召使いとして働いていたが30歳で曹操に見出され、曹丕の侍女となった。
聡明な彼女は曹丕の参謀として後継者争いに数々の献策をし、やがて側室となった。(『文徳郭皇后伝』)
217年、魏の太子に立てられた。(『文帝紀』)
曹植は才能高く何度も太子に立てられかけたが、意のままに振る舞い自己を飾らず努力せず、酒に溺れていた。曹丕は自己を制御し感情を抑え自己を飾り、宮女や側近の支持を受けたため太子となった。(『陳思王植伝』)
曹丕が太子になったのを祝い大盤振る舞いするよう勧められた卞氏は「年長だから後継者に選ばれただけです。教育がなっていないと責められなかったことを喜ぶだけで、大層な贈り物をする必要がありますか」と却下した。
曹操はそれを聞き「腹を立てた時も顔色を変えず、喜んだ時も節度を忘れない。これこそ最も難しいのだ」と喜んだ。(『武宣卞皇后伝』)
夏侯尚(かこうしょう)と親密だった。(『夏侯尚伝』)
曹丕と曹植が激しく後継者争いをした時、曹丕は礼に背いてまで荀彧にへりくだったが、荀彧の死後に子の荀惲(じゅんうん)は曹植と親しくし、また夏侯尚と不仲だったため、義兄弟(※荀惲の妻は曹丕の姉妹)ながら曹丕にはひどく憎まれた。
しかし荀惲が早逝すると、遺児は甥(姉妹の安陽公主の子である)にあたるためかわいがった。(『荀彧伝』)
曹丕は太子の頃、曹操に「荀攸(じゅんゆう)は人の手本となる人物だ。お前は礼を尽くして尊敬しなければならん」と言われた。荀攸が病気になると、曹丕は見舞いに訪れただひとり寝台の下で拝礼した。これほどの敬意と特別扱いを受けた。(※荀攸は立太子前の214年没で、太子の頃というのは誤記だろうか)(『荀攸伝』)
曹丕が後継者争いの対策を問うと賈詡は「徳ある態度を尊重し、無官の人物のように謙虚に振る舞い、朝晩怠らず子として正しい道を歩みなさい」と助言した。
曹操が内密に後継者について問うと、賈詡は黙ったまま答えず、やがて「袁紹と劉表(りゅうひょう)のことを考えていました」と長子に後を継がせなかったため死後に家を滅ぼした二人の名を挙げた。曹操は大笑いし、曹丕を太子に立てた。(『賈詡伝』)
曹操は後継者について封緘した文書で様々な人々へ内密に相談した。崔琰だけが封をせず返書をし「年長の曹丕を選ぶのが当然です。私は死をもって主張します」と言った。崔琰の姪(兄の子)は曹植に嫁いでいたが、公正な態度に曹操は感嘆し、中尉に昇進させた。(『崔琰伝』)
桓階は(かんかい)は曹丕は徳に優れ年長であるから太子とするのが当然だとたびたび上申し、公にも内密にも推薦した。(『桓階伝』)
衛臻(えいしん)は曹植派の丁儀(ていぎ)から誘いを掛けられたが、大義を盾に拒否した。(『衛臻伝』)
涼茂(りょうぼう)は曹丕に招かれ長史、左軍師に転任し216年、魏が建国されると尚書僕射、中尉・奉常と昇進していった。
曹丕が太子となると太子太傅を務め、敬意と礼遇を受けた。(『涼茂伝』)
何夔(かき)は太子少傅に任じられ、曹丕や諸侯の属官を選んだ。涼茂が没すると何夔が後任となった。
太傅として毎月一日に参内すると、曹丕は正装に着替えて出迎え礼を尽くした。
何夔が太僕に昇進すると、曹丕は送別会に招いたが法を盾に固辞した。(『何夔伝』)
邢顒(けいぎょう)は曹植を補佐していたが、曹操に後継者について意見を求められると、暗に曹丕を勧めた。
曹植のもとを離れ丞相府で軍事に参与し、東曹掾を経て太子少傅、太子太傅として曹丕に仕えた。(『邢顒伝』)
曹丕は太子になると鍾繇に釜を贈り、称賛する銘文を彫りつけた。(『鍾繇伝』)
太子だった曹丕は狩猟にふけり、朝早くに城を出て夜に帰ってきた。
桟潜(さんせん)は故事を引き「王公は国を守り、変事に用心するものです。狩猟に羽目を外し、一日中、獲物を追う楽しみと引き換えに、無限の危険性を忘れておられるのは、理解しかねます」と諫言した。
曹丕は不機嫌になったが、狩猟を幾分かは控えるようになった。(『高堂隆伝』)
同217年、鮑勛(ほうくん)は曹丕の太子中庶子に任じられると、公正な彼は曹丕の思い通りにならず、気に入られなかった。
後に黄門侍郎を経て、魏郡の都尉の時、郭貴人の弟が罪を犯した。曹丕は何度も自筆の手紙を送り罪の免除を頼んだが、鮑勛は気にせず公正に裁いたため、大いに恨まれた。
曹丕は裏から手を回し、鮑勛を免職させた。(『鮑勛伝』)
曹丕は陳羣(ちんぐん)を深い敬意を持って重んじ、友人として遇した。陳羣は人間関係を上手く取り持ち、曹丕は「私には顔回(のように関係を取り持ってくれる陳羣)がいるから、門人たちは日に日に仲良くなる」と常に感嘆した。(『陳羣伝』)
217年までに建安七子は全員没した。曹丕は呉質(ごしつ)へ手紙を送り、彼らの文才を偲んだ。(『王粲伝』)
218年、烏丸征伐へ向かう弟の曹彰(そうしょう)へ手紙を送り「大将として法規を遵奉することは、曹仁のようであらねばならない」と戒めた。(『曹仁伝』)
220年、曹操が没すると丞相・魏王を継いだ。母の卞氏(べんし)を王太后とし改元した。
同年、官位を再編するとともに宦官の昇進に上限を設けた。
祖父の曹嵩(そうすう)・祖母の丁氏(ていし)を王・王太后とし、子の曹叡を列侯した。(『文帝紀』)
群臣は旧例にこだわり献帝の勅命を待ってから王位につくべきだと意見したが、陳矯(ちんきょう)は「王(曹操)が都の外で没し天下は恐慌をきたしている。太子(曹丕)は喪に服さずすぐに即位し期待に応えるべきだ。それに寵愛された曹彰が(軍を率い)近くにおり、もし後継者争いが起きれば国家は危難に陥る」と反対し、一日で即位の儀礼を全て整えた。
翌朝には王后(卞氏)の命令として曹丕を即位させ、すぐさま大赦も行った。曹丕は「陳矯は国の重大事に臨んで人並み外れた才略を発揮した。一代の俊傑だ」と称えた。(『陳矯伝』)
曹操が没すると反乱を恐れ、各地の太守を曹操の故郷の人物に交代させるべきだという意見が上がったが、徐宣(じょせん)は「中華は統一され誰もが忠節を尽くしたいと思っている。それなのに不信の念を抱き交代させては心をくじくことになる」と反対した。
曹丕はこれを聞き「いわゆる国家を担う臣だ」と感心し、帝位につくと御史中丞に任じ、関内侯に封じた。
城門校尉に転じ、1ヶ月で司隷校尉に上り、散騎常侍に転任した。
孫権の討伐に出た時、突風により曹丕の船が横倒しになった。後方にいた徐宣は誰よりも先に助けに向かい、曹丕は彼を勇気があると称え、尚書に昇進させた。(『徐宣伝』)
群臣が魏を讃え、後漢を貶める中、衛臻は後漢が魏へ禅譲したことを一人讃えた。曹丕はそれを評価し、廃位後の献帝と同等の処遇を衛臻に与えるよう命じ、尚書・侍中吏部尚書に転じた。
後に曹丕が追放した曹植の様子を尋ねると、徳性を褒め称えたが、曹丕の寵愛する曹霖(そうりん)については触れなかった。(『衛臻伝』)
5等あった王后の位を5つ増やした。(『后妃伝』)
南征に赴き、孫権は貢物を贈って恭順を示し、孟達(もうたつ)が蜀から寝返った。 故郷の譙県に駐留し大饗宴を催した。
戦死者を手厚く葬るよう布告し、兵を進めた。
後漢王朝から禅譲され帝位についた。改元し大赦した。
献帝を山陽公に封じ領邑1万戸と様々な特権を与えた。 曹嵩・曹操・卞氏らを皇帝・皇太后とし、配下らに爵位を与えた。
初めて洛陽宮を造営し行幸した。
たびたび狩猟に出掛けることを諌めた戴陵(たいりょう)に激怒し、死罪になるところを一等減じた。(『文帝紀』)
黄初年間(220~226)、祖父母(卞氏の両親)に爵位を追贈しようとすると、陳羣に「古典には女性に爵位を授ける制度はありません。秦王朝がそれに背き、漢王朝はそれを踏襲しただけで、古代の王者の典則ではありません」と反対され、「この意見は正しい。命令を撤回する。この詔勅を収蔵し永く後世の典範とせよ」と命じた。
(※230年、曹叡はそれに背き祖母・曾祖母に爵位を授けた)(『武宣卞皇后伝』)
曹仁には格別の恩寵を示し、王位につくと昇進させて2千戸を加増し、父の曹熾(そうし)に爵位を追贈するとともに墓守10軒を置き、武功を立てると大将軍、大司馬に相次いで昇進させた。(『曹仁伝』)
曹洪(そうこう)は吝嗇で、曹丕は若い頃に借金を断られたことを根に持っていた。曹洪の食客が罪を犯すと、曹丕は処刑を命じ、群臣の反対も聞かなかった。卞太后が郭皇后を「曹洪を今日死なせたら、明日は曹丕に命じてあなたを退位させます」と脅し、郭皇后が曹丕に泣きついたため曹洪は罪を減じられた。
曹操の代からの功臣への処遇に多くの人々は釈然としなかった。(『曹洪伝』)
夏侯惇が没すると曹休に任務を引き継がせ、自ら見送りに立ち、車からわざわざ降りて手を握った。(『曹休伝』)
王位につくと蔣済(しょうせい)を相国長史に転任させ、帝位につくと東中郎将に任じた。
都に残りたいと願い出たが、曹丕は「良臣に辺境を鎮めさせたいのだ」と詔勅を下し却下した。 蔣済は「万機論」を著して献上し、曹丕は称えた。
夏侯尚へ「君は腹心であり、特別な任務を授けられ、必死の働きに値する恩寵と寵愛を受けている。配下には刑罰を行い恩賞を施し人を殺し人を生かせ」と詔勅を下した。夏侯尚は蔣済にもそれを見せた。
蔣済は都へ赴き、曹丕に天下の様子を尋ねられると「特に良いことはありません。亡国の言葉があるだけです」と言った。
そして顔色を変えた曹丕へ「刑罰を行い恩賞を施すとは尚書(書名)にある天子だけが用いる戒めの言葉です。古人は慎重で戯れに用いませんでした」と諫言した。曹丕は納得し、詔勅を撤回した。(『蔣済伝』)
王位についた曹丕は龐悳の墓へ使者を送り、古代の忠臣と並べて称え諡を与えた。(『龐悳伝』)
王位についた曹丕は諸王(兄弟)を都から領国へ出した。曹彰の北方での異民族討伐を称えた。(『任城威王彰伝』)
王位についた曹丕は曹植の側近の丁儀・丁廙(ていよく)兄弟とその一族の男を処刑した。(『陳思王植伝』)
曹丕は袁渙(えんかん)が呂布の脅迫を聞かなかった逸話に感心し、従弟の袁敏(えんびん)に人となりを尋ねた。
「袁渙は柔和に見えますが、大義に関わる状況に直面し、危難に臨んだ時は、孟賁や夏育(※古代の勇者)でさえも超えられないほどです」と答えた。(『袁渙伝』)
何夔は重病にかかると辞職を願い出たが、曹丕は「君には勲功も美徳もあり、神は必ず助けるだろう」と慰留した。
しかし逝去し、靖侯と諡された。(『何夔伝』)
鮑勛は「狩猟より政治に励んでいただきたい」と重ねて上奏し、激怒した曹丕はその場で上奏文を破り捨てた。
鮑勛は全くめげず、狩猟に賛成した劉曄(りゅうよう)の処罰まで求めたため、曹丕は狩りを切り上げて帰り、鮑勛を左遷させた。(『鮑勛伝』)
曹丕が王位につくと王朗(おうろう)は御史大夫に上り、安陵亭侯に封じられた。民を育み刑罰を減らすよう上奏した。
同年、曹丕が帝位につくと司空に上り、楽平郷侯に進んだ。曹丕が狩猟を好み、日が暮れてから帰ると王朗は諫言したが、「戦闘訓練である」とごまかされた。(『王朗伝』)
曹操が肉刑(※身体切断等の刑)の復活を議論させると、鍾繇・陳羣は賛成したが、王朗ら多くの者は反対した。結論は保留された。(『陳羣伝』)
曹丕の代に再び議論されたが、軍事を優先するためまたも結論は保留された。(『鍾繇伝』)
程昱(ていいく)は公(宰相)に任じようとした矢先に没し、曹丕は泣いて悲しんだ。(『程昱伝』)
孟達(もうたつ)が寝返ると立ち振舞いが見事だったため曹丕は大いに寵愛し新城太守に任じた。
劉曄(りゅうよう)は「孟達は一時の利得を好み、才能に頼り策を弄するので、恩寵を受けても道義を持ちません。新城郡は呉・蜀の国境にあり、もし反乱すれば国家に災難をもたらします」と主張したが、曹丕は聞かなかった。
はたして曹丕の死後に孟達は反乱した。(『劉曄伝』)
涼州刺史に任じた温恢(おんかい)が赴任前に没すると「国家の柱石たる素質を持ち、先帝(曹操)からの功績は明白である。事務を執行し王室に忠誠だった。だからこそ万里彼方の任務を授け、一方面の政治を任せたのである。だが中途で倒れてしまい、甚だそれを悼む」と詔勅を下し、子の温生(おんせい)を関内侯に封じたが、早逝し爵位は途絶えた。(『温恢伝』)
曹丕は王位につくと、鄴の都は数万戸あり治安が悪かったため、賈逵(かき)を鄴県令とし、一月ほどで(鄴のある)魏郡太守に昇進させた。
曹丕が親征すると再び丞相主簿祭酒に任命された。
賈逵は以前、他人の罪に連座したことがあり、曹丕はそれを知ると「春秋時代の叔向は功績により十代先の子孫まで赦免された。ましてや賈逵の功績は自身のものである」と言った。
黎陽まで来た時、軍列を乱す者があったため、賈逵が斬り捨てて整えさせた。譙県に至ると豫州刺史に任命された。
当時、平定されたばかりで州郡の行政が行き渡らなかったため、高官の任命には徳よりも才能を重視し行状を正すよう意見した。
豫州でも兵曹従事が前の刺史の時から休暇を取り、賈逵の着任から数ヶ月後に帰ってきたりと乱れていたため、州の二千石以下の官吏から阿諛追従する者を一掃するよう上申した。
曹丕は「まことの刺史である」と称え、同様にするよう天下に布告し、関内侯に封じた。
賈逵と曹休は険悪で、賈逵へ節(指揮権)を与えようとすると曹休が「彼は剛毅で、平素から将軍たちを侮り軽んじているから都督は務まらない」と讒言し取りやめさせたこともあった。(『賈逵伝』)
曹丕が即位すると、曹植と蘇則(そそく)は漢の滅亡を嘆き、喪に服した。曹丕は蘇則の件は知らなかったが、曹植が喪に服したと聞き「私は天に応えて禅譲されたのに、大声で泣いた者がいるそうだ」と当てこすった。
蘇則は自分のことだと思い、髭を逆立て反論しようとしたが、侍中の傅巽(ふそん)はそれに気づき、蘇則をつねり「君のことではない」と教えて黙らせた。
曹丕が「反乱を鎮圧し西域との交通が復旧したから敦煌から真珠を贈ってきた。交易を再会すべきか」と問うと、「陛下の教化が行き渡り、御徳が砂漠(敦煌)にまで流れれば求めずとも自然と交易が始まるでしょう。自ら求めるのは尊重できません」と蘇則は答え、曹丕は黙った。
狩猟に出た時、檻が壊れ捕まえた鹿が逃げ出した。曹丕は激怒し担当官を皆殺しにしようとしたが、蘇則は土下座し「古代の聖王は禽獣のことで人を害さないと聞きます。陛下は堯帝のような教化をしているのに狩りの遊びで大勢を殺そうとしています。良くないと思い死を覚悟して反対します」と述べた。
曹丕は「御身は直言の臣だ」と言い全員を赦免したが、それから蘇則を煙たがるようになった。 後に東平相に左遷された。(『蘇則伝』)
杜畿(とき)は曹丕が親征する際には留守中の政務を取り仕切った。曹丕の船の試運転中に転覆し溺死すると、曹丕は涙を流し「忠義の至りであり大いに悼む」と詔勅を下し「戴侯」と諡した。(『杜畿伝』)
既に没した李通(りつう)の功績を改めて採り上げ「官渡の戦いの際に右顧左眄せず、二心を持つ人々を服従させた。子が既に爵位を継いでいるが李通の勲功に報いるには足りない」とし、子らを昇進させた。(『李通伝』)
軍事で何か問題があると青州を治める臧覇(ぞうは)にいつも諮問した。(『臧覇伝』)
許褚は曹丕が帝位につくと万歳亭侯に進み、武衛将軍に上り近衛兵を指揮して大いに親しまれた。(『許褚伝』)
曹丕は故郷の譙県に住民を大いに移し屯田させたが、土地が痩せていたため民は困窮した。
盧毓(ろいく)はそれを哀れみ肥沃な梁国へ移すよう上奏した。曹丕は許可したが心中ではしゃくに障り、左遷して移民を統率させた。盧毓は自ら視察するなど民の利益に専心し、人々から頼られた。(『盧毓伝』)
曹丕が帝位につくと辛毗(しんぴ)は侍中に上り関内侯に封じられた。
暦の改定が議論されたが、「論語」を引いて反対し、曹丕も同意した。
曹丕は冀州から10万戸を河南へ移住させたいと考えた。当時は蝗害が続き民が飢えていたため群臣は反対したが、曹丕の意志は固かった。
群臣とともに目通りを願うと、曹丕は諫言されると思って気色ばみ、誰も口を開けずにいる中、辛毗は敢然と「陛下は私を愚かだと思わなかったから側近くに起き、諮問官につけて下さったのになぜ議論しないのですか。個人のことではなく国家のことについての議論なのに、なぜ私を怒るのですか」と意見し、黙って奥に引っ込もうとする曹丕の衣の裾をつかみさえした。
曹丕はしばらくして出てくると「どうしてあなたの態度はそんなに厳しいのだ」とぼやき、辛毗は「移住させれば民心を失う上に、与えるべき食物がありません」と答えた。
移住は決行されたが半数に減らされた。
狩猟にお供し、曹丕が「キジを射るのは楽しいな」と喜ぶと、辛毗は「陛下は大変楽しいでしょうが、我々は大変苦しいことです」と言った。曹丕は黙って何も答えなかったが、狩猟に出るのは稀になった。(『辛毗伝』)
曹丕が帝位につくと郭淮は祝賀の使者として都へ向かったが、途上で病にかかり療養した。到着すると祝宴は始まっており、曹丕が「夏王朝の禹は招きに遅れた諸侯を処刑したという。天が等しく慶賀しているのになぜお前は遅れてきた」と叱責すると郭淮は「夏王朝の政治が衰えてから刑罰を用いられたと聞きます。今は夏王朝の前の堯・舜の時代(※中国史上最も理想の時代とされる)が再来しており、処刑は免れられると思っていました」と当意即妙に答えた。
曹丕はいたく気に入り、雍州刺史代行に抜擢し射陽亭侯に進めた。5年後、正式に刺史となった。(『郭淮伝』)
劉放(りゅうほう)は文才に優れ、曹操~曹叡三代が詔勅で降伏を呼びかける時には文書を作成することが多かった。(『劉放伝』)
曹丕は鐘の鋳造の名手だった柴玉(さいぎょく)を寵愛していたが、杜夔(とき)に糾弾されて柴玉は失脚した。また杜夔に左𩥄(さてん)とともに笙と琴を演奏させようとしたが、不服そうな顔をされ、不快に思っていた。
後に理由をつけて杜夔を投獄すると、左𩥄らに音楽を習わせるよう迫った。だが杜夔は「自分が習得しているのは由緒正しい音楽であり、左𩥄のような俗物に教えることはできないし、彼らも楽官である以上は基礎はあるはずだ」と不満をあらわにした。
杜夔は罷免され、無官のまま没した。(『杜夔伝』)
221年、天地と光武帝、太陽を祀った。
孝廉の基準を緩和し、三公の子弟を1人列侯し、潁川郡の税を1年間免じた。郡の再編を行った。
孔子の子孫の孔羨(こうせん)を列侯し祖先を祀らせた。 董卓の廃止した通貨を復活させ、五岳と四瀆(山河)を祀った。(『文帝紀』)
帝位につくと、山陽公(献帝)の2人の娘が側室となり、郭貴人らが寵愛されたため甄姫は恨み言を言った。
曹丕は非常に腹を立て自害を命じた。(『文昭甄皇后伝』)
夢占い師の周宣(しゅうせん)に「宮殿の瓦が2枚落ち、つがいの鴛鴦に変化する夢を見た」と相談した。
周宣は「後宮でにわかに人が亡くなられます」と答えた。
曹丕が実はそんな夢を見ていないと明かすと(※それにしても曹丕は性格が悪い)周宣は「夢は意(心)に他なりません。意が言葉に表現されれば吉凶は定められます」と言った。
この言葉が終わらないうちに、宮女が人を殺したという急報が届いた。
曹丕は今度は「青い気が地面から立ち昇り、天までつながる夢を見た」と相談した。 周宣は「高貴な女性が冤罪で死にます」と答えた。
曹丕は甄姫に自害を命じたことだと思い当たり、止めさせようとしたが間に合わなかった。
曹丕はさらに「銅銭をこすって文様を摩耗させようとするが、ますますはっきりしてくる」夢を伝えたが、周宣は何も言わなかった。曹丕が重ねて尋ねると「これは陛下の家庭のことです。そうしたいのに太后がお許しにならないのでしょう」と答えた。
曹丕は弟の曹植を処刑させたかったが、卞太后に反対されていた。
曹丕は周宣を中郎とし、太史を兼任させた。(『周宣伝』)
甄姫の没した翌日に日食が起こり、慣例により太尉の罷免を上奏されたが「災害異変は元首を譴責するものであり、股肱に責任はない」とし以後の災害異変による三公の弾劾を禁じた。
孫権を呉王に封じ大将軍に任じ九錫を与えた。 穀物の高騰により復活させた通貨を廃止した。(『文帝紀』)
同221年、張遼が参内すると曹丕は合肥の戦いの話を聞き、感嘆して側近へ「召虎(周代の名将)と同じだ」と言った。
張遼とその母のために家を建て、配下を全て虎賁(近衛兵)に取り立てた。
病気になると劉曄に命じて太医(典医)とともに見舞いにやり、自らも見舞って手を取り、衣や自身と同じ食事を贈った。
少し回復したため出征したが、再び病が重くなり没すると、曹丕は涙を流し悲しんだ。(『張遼伝』)
同221年、呉が降伏し、捕虜になっていた于禁(うきん)は帰国した。髭も髪も真っ白になり、顔はやつれ、泣きながら頭を地面に打ち付けて拝礼した。曹丕は労をねぎらい安遠将軍に任じ、曹操の陵墓へ参拝するよう命じた。そこには関羽に敗れた于禁が降伏し、龐悳が激怒する絵が飾られており、于禁は面目なさと怒りから病を得て没した。厲侯(※疫病神のような意味)と諡された。(『于禁伝』)
同221年、灌均(かんきん)は曹丕に迎合し、曹植を「酒に溺れ粗暴傲慢で使者を脅した」と弾劾したが、母の卞太后への遠慮から侯への格下げだけに留めた。(『陳思王植伝』)
222年、日食があった。 才能あれば年齢にこだわらず推挙するよう詔勅を下した。
西域の諸外国から使者が到着し、外交が通じるようになった。 子の曹叡・曹霖(そうりん)と曹彰(そうしょう)ら11人の弟を王に封じた。
荊州牧を兼務する孫権の領する荊州南部を荊州とし、北部を郢州と改めた。
孫権は夷陵の戦いで劉備に大勝した。
その前、曹丕は蜀軍が700里に渡って陣営を連ねていると聞き「劉備は戦を理解していない。700里の陣営で敵と渡り合える者はいない。高原・湿地・険阻の地を包んで陣を構築する者は撃破される。これは戦の禁忌だ。孫権から勝利の上奏が今にも届くだろう」と予見し、7日後に上奏が届いた。
冀州で蝗害による飢饉が起こったため救済させた。
女性の政治への関与を禁止し、太后への相談、后の一族の政治への補佐、叙爵も禁じ後世まで伝えるよう命じた。 郭皇后を立てた。
盗掘を避けるため埋葬を簡素にするよう命じた。(『文帝紀』)
桟潜(さんせん)ら群臣は郭皇后を側室で身分も低いと反対したが曹丕は押し切った。(『文徳郭皇后伝』)
夷陵の戦いで蜀の黄権(こうけん)は本隊が撤退したため孤立し、やむなく魏に降伏した。
曹丕が引見し「逆臣の立場を捨てて良臣となったのは、陳平・韓信(※項羽から劉邦へ寝返った名臣)を真似したのか」とからかうと、黄権は「私は劉備に厚遇され、呉に降伏することはできず、退路を断たれたため魏へ帰順しただけです。死を免れるために懸命で、古人のことを考える余裕はありませんでした」と答えた。曹丕は感心し鎮南将軍に任じ、育陽侯に封じ、侍中を加官し、車に同乗させた。
同じく降伏した蜀の人は「黄権の妻子が処刑された」と言ったが黄権は信じず、はたして誤報だった。(『黄権伝』)
孫権が反逆したため郢州を荊州に戻した。(※先制攻撃したのは魏である) 討伐の兵を催し、曹丕も宛まで進んだ。日食があった。(『文帝紀』)
曹休も攻撃の許可を求めたが、曹丕は早馬を出して止めさせた。
董昭(とうしょう)は「陛下は曹休が命令を聞かないかもしれないと憂いているようですが、(副将の)臧覇らは富貴な身分だから功名を求めず、危険を冒しません。臧覇らの協力を得られなければ曹休も進軍をやめるでしょう。私が懸念するのは、いざ進軍の許可を出しても彼らが従わないことです」と言った。
後に暴風によって孫権軍の船が曹休の軍営に流れ着き、戦端が開かれた。大勝し曹丕はすぐに進軍を命じたが、董昭の懸念通りに従わず、好機を逃した。(『董昭伝』)
曹丕は自ら宛へ進駐し、夏侯尚に諸軍を統率させ曹真(そうしん)とともに江陵城を攻めた。諸葛瑾(しょかつきん)は長江を挟んで布陣し、中洲に陣取り長江には水軍を待機させた。
夏侯尚は夜中に1万の兵を率いて下流を渡り、挟撃を仕掛け大勝した。江陵城を包囲したが疫病が大流行したため曹丕は撤退させた。(『夏侯尚伝』)
江陵城の攻撃にあたり夏侯尚は中洲に布陣し、浮き橋を作ろうとした。
董昭は「武帝(曹操)は智勇ともに人並み外れながら敵を侮りませんでした。夏侯尚は敵を侮って退路を考えず兵を狭い浮き橋に集めようとしています。孤立すれば中洲の兵は全て寝返るでしょう。また長江の水も増水し氾濫の危険があります」と上奏した。
曹丕は即座に撤退を指示したが、危惧通りに退路が一本しかなかったため追撃で痛手を被った。10日後には長江も突如として増水し、曹丕は「なんと明晰な判断か。張良・陳平が対処したとしてもこれ以上ではない」と董昭を激賞した。(『董昭伝』)
曹仁が数万の兵で侵攻すると、朱桓(しゅかん)のもとには5千の兵しかなく将兵は恐慌をきたしたが、朱桓は「勝敗を決するのは将の手腕であり、兵の多寡ではない。曹仁の指揮が私に勝ると思うか? 兵法には攻める者(の勢い)は倍に、守る者は半分になるとあるが、それは野戦で士気も同じな場合の話だ。魏軍は遠征で疲れ切っているが、我々は城と険阻な地形に守られ休養も十分で百戦百勝の情勢だ。たとえ曹丕がやって来ても心配無用なのに、ましてや曹仁ごときは問題にもならない」と檄を飛ばし、策を立てて大勝した。(『朱桓伝』)
賈詡は呉・蜀のどちらを先に討伐すべきか問われると「呉・蜀は小国ながら山と川に守られ、劉備・諸葛亮と孫権・陸遜は強敵です。群臣にも劉備・孫権に匹敵する者はなく、今は武よりも文を先にし政治に励むべきです」と答えた。曹丕は従わず、江陵城を攻め大敗した。(『賈詡伝』)
劉曄は劉備が孫権を攻めることも、孫権が背くこともただ一人的中させた。孫権の討伐にも「彼らは勝利を得たばかりで上下の心が等しく、しかも長江に隔てられているから勝つのは困難です」と反対したが曹丕は聞き入れなかった。(『劉曄伝』)
曹丕は大軍で呉を攻めようと考えたが、辛毗は「呉は昔から頭痛の種ですが、四海は平定され、魏の徳に服従するのは時間の問題です。しかし陛下は先帝(曹操)でさえ長江を前に何度も引き返し、その頃から兵も増えていないのに討伐しようと考えています。これから10年、国を富ませれば壮年の兵はまだ戦え、幼年の者が兵に加わり、そうすれば一度の戦で呉を平定できるでしょう」と反対した。
曹丕が「つまり子孫に敵を残しておけと言うのか」と皮肉ると「周の文王が殷の紂王を討たず、子の武王に残したのは時節をわきまえていたからです」と返した。
曹丕は従わず討伐したが、長江を前に撤退した。(『辛毗伝』)
同222年、異母弟の曹拠(そうきょ)の領国が湿地帯のため、その母の故郷である彭城王に変えてやったが、すぐ済陰王に移された。(『彭城王拠伝』)
同222年、南陽郡宛県に行幸するにあたり「百官は郡県に迷惑を掛けない」よう通達した。ところが宛の県令は曲解し、「郡県が百官に迷惑を掛けない」よう市場を閉鎖した。行幸した曹丕はゴーストタウンと化した宛を見て「私は盗賊なのか」と激怒し、南陽太守の楊俊(ようしゅん)と県令を逮捕した。
曹丕はかつて後継者争いの際に、敵対こそしなかったが曹植の方を評価した楊俊を憎んでおり、自害を命じた。
司馬懿、王象(おうしょう)、荀緯(じゅんい)らは平伏し、頭から血を流すほど助命嘆願したが許されず、楊俊は罪を認め、自害した。
人々は冤罪だと悲しみ悼み、王象は失意から病を得て没した。(『楊俊伝』)
222~226年、桓階が重病になると曹丕は自ら見舞い「あなたに幼子を託し、天下の運命をあずけるつもりだ。頑張ってくれ」と励まし、爵位を安楽郷侯に進め600戸を与え、桓階の3人の子も関内侯に封じた。危篤になると太常に任じた。
そのまま没し、曹丕は涙を流して悲しみ、貞侯と諡した。(『桓階伝』)
223年、仇討ちを禁じた。洛陽に帰った。月に異変があった。疫病が大流行した。
ペリカンの群れが現れたため「これは君子を遠ざけ小人を近づけた時に現れる。しかるべき地位にいない人材を推挙せよ」と命じた。
曹彰が都で没した。 火星に異変があった。大雨により河が反乱し大きな被害を受けた。(『文帝紀』)
同223年、司馬懿と陳羣(ちんぐん)が鮑勛を御史中丞に推挙し、曹丕もやむなく認めた。皇帝にも諫言する彼を恐れ、人々は襟を正した。(『鮑勛伝』)
同223年、曹植は参内して上奏し、曹丕は文辞を称え思いやりある詔勅でねぎらった。(『陳思王植伝』)
同223年、劉備は重体に陥ると諸葛亮に後事を託し「君の才能は曹丕の十倍あり、きっと国家を安んじ大業を成し遂げるだろう。後継ぎに補佐すべき才能があれば補佐し、なければ君が国を奪うとよい」と言った。諸葛亮は涙を流し「私は心から股肱として力を尽くし忠誠を捧げます。最後には命を捨てます」と誓った。
劉備は後継ぎの劉禅に「お前は丞相(諸葛亮)とともに働き、父と思って仕えよ」と言い遺して没した。(『諸葛亮伝』)
劉備が没すると群臣はみな祝賀を述べたが、蜀の旧臣の黄権だけはそれに加わらなかった。
曹丕はもとより黄権の器量を高く評価していたが、脅して人物を試してやろうと考え、問責の勅使を次々と送った。勅使が道路で入り乱れるほどで配下はみな肝を潰したが、黄権の態度も顔色も全く変わらなかった。(『黄権伝』)
224年、反逆と大逆を除き密告を禁じた。 大学を立て、「五経」の試験を制定し博士を設置した。
水軍を率い寿春へ赴き、揚州の境の官民のうち5年以下の刑罰を受けた者を赦免した。 金星に異変があった。
冀州で再び飢饉が起こり救済させた。日食があった。 淫祠邪教を禁じた。(『文帝紀』)
民衆の間で流言飛語がなされると、曹丕はそれを密告した者に賞金を与え、流布した者を殺した。高柔(こうじゅう)はかえって誣告を増やすだけだと反対し、はじめ曹丕も従わなかったが、その通りに誣告が増えたため「密告者は密告された者の罪で処罰する」と布告し、誣告は絶えた。(『高柔伝』)
曹丕が親征すれば孫権は自ら迎撃するだろうと臣下は予測したが、劉曄は「孫権は陛下は牽制に来ただけで、攻撃は臣下に任せると考え、自ら動かないでしょう」と言った。
数日待ったが孫権は動かず、曹丕は引き上げた。劉曄に「君の予測は正しかった。呉・蜀を滅ぼす策も出してくれ。彼らの考えを悟るだけではいかん」と命じた。(『劉曄伝』)
曹丕は長江を前に「かしこ(呉)には(孫権ら)人物がいるから今すぐ攻め取ることは不可能だ」と言い撤退した。(『呉主伝』)
徐盛(じょせい)は偽の城壁を数百里に渡って設け、偽物だとばれないよう軍船で近づけない策を立てた。諸将は反対したが強硬に主張して造らせると、曹丕はまんまと騙され、長江も増水したため撤退した。(『徐盛伝』)
曹丕が自ら呉を討伐しようとすると、蔣済は水路の困難さを訴え、「三州論」を著し反対した。曹丕は従わず討伐したが、数千の軍船が渋滞して進めなかった。
この機に兵を留め屯田すべきだと建議されたが、蔣済は「東も北も河に近く、増水の時期に攻められやすい」と反対し、曹丕も同意し撤退した。
処置を任された蔣済は水路を増やし、堤を設けて水を堰き止め、連結させた船を一斉に移動させ帰還した。
曹丕は「事を理解していないというのはまずいものだ。私は船の半数を焼き捨てる覚悟だったが、君は全て回収し、しかも後に残ったのに私とほぼ同時に帰還した。君の言葉を聞くたびに心に染み入ってくる。討伐のこともよく意見してくれ」と称えた。(『蔣済伝』)
同224年、鍾繇は太尉に上った。
当時の三公の華歆(かきん)・王朗・鍾繇は曹操以来の名臣で、曹丕は「この三公こそ一代の傑物だ。後の三公が彼らに並ぶのは難しいだろう」と称えた。(『文帝紀』・『鍾繇伝』)
華歆は清貧を重んじ、俸禄や下賜品は全て親類縁者に分け与え、家にはわずかの蓄えもなく、公卿に奴婢(犯罪者の家族の女)が贈られた時も全て嫁入り先を探して解放してやった。曹丕は感嘆し「司徒は国家の元老で全てを取りさばく役目がある。太官(食事係)が御馳走を並べているのに司徒が粗食に甘んじているのはおかしい」と詔勅を下して華歆とその一族へ衣服を賜った。
三公の府で「孝廉は徳行を見るべきで試験は必要ない」と議論されると華歆は「学問が廃れればそもそも登用すべき人材がいなくなる」と反対し、曹丕も同意した。(『華歆伝』)
同224年、夏侯尚には愛妾がおり、正室をないがしろにしていた。曹丕はその正室が一族の娘だったため憤り、愛妾を殺させた。
夏侯尚は悲嘆の余り錯乱し、愛妾を墓から掘り起こしては顔を見る有様だった。曹丕はさらに腹を立て「杜襲(としゅう)が彼を軽蔑するのももっともだ」と言ったが、曹操の代からの重臣であり恩寵は薄れなかった。(『夏侯尚伝』)
杜襲はかつて「夏侯尚は人に益を与えられる友ではないから特別に待遇する価値はない」と曹丕へ忠告していた。当時は酷く不愉快に思ったが、この時に思い出したのである。(『杜襲伝』)
同224年、「過去の王者は状況に応じて制度を作った。高祖(劉邦)は郡を増やし、光武帝は天下が消耗していたため逆に郡を減らした。現在はその頃よりも衰えている。よって諸王の領国を全て県に落とす」と詔勅を下した。(『彭城王拠伝』)
225年、許昌から沛郡を慰問させ貧民を救済した。 水軍を率い呉の討伐に赴いた。火星に異変があった。
利成郡の反乱を鎮圧させ、首謀者を除き赦免した。
徐州まで軍を進め、長江を前に閲兵式を行った。兵数10万、数百里に渡って軍旗がはためいた。
しかし寒さにより長江が凍結し船が進めなかったため撤退した。(『文帝紀』)
鮑勛は呉への遠征の際にも「呉・蜀は要害に囲まれており失敗するでしょう」と意見し、再び左遷された。無視して出陣した曹丕は敗北した。
同225年、夏侯尚は重体になり都へ帰還した。曹丕は(さすがに反省し)たびたび家を訪ねては手を握って涙を流した。
そのまま没し、悼侯と諡された。(『夏侯尚伝』)
同225年、曹丕は遠征の帰途に曹植の宮殿へ立ち寄り、500戸を加増した。(『陳思王植伝』)
226年、許昌へ行幸しようとするとひとりでに南門が崩壊した。曹丕は不吉に思い入らず洛陽へ帰った。
5月、危篤になった。曹真、陳羣、曹休、司馬懿に後事を託し没した。享年40。
曹叡が後を継ぎ、葬儀は全て生前に定めた通りに行われた。(『文帝紀』)
徐邈(じょばく)は酒にだらしなく、禁酒令に背いて泥酔し、聴取されると「聖人(清酒)に当たった」と悪びれなかったため曹操は激怒し処刑されかかった。
許昌へ行幸した際に曹丕に「相変わらず聖人に当たっているのか」と以前の失言をからかわれると、故事を引き「懲りずに当たっています。コブは醜ですが、私は酔(醜と酒は同音)で知られています」と当意即妙の返答をしたため「評判はむなしく立つものではない」と感心され、撫軍大将軍に昇進した。(『徐邈伝』)
曹叡は母の甄姫が殺されたため、曹丕が重体になるまで太子に立てられなかった。(『明帝紀』)
かねてから鮑勛を憎んでいた曹丕は些細な罪に乗じて投獄した。
廷尉の高柔(こうじゅう)は懲役5年、三官は罰金刑と判断したが、曹丕は三官以下を逮捕した挙げ句に処刑を命じた。
鍾繇・華歆・陳羣ら名だたる重臣が反対し、父の鮑信(ほうしん)の功績に免じるよう訴えたが、曹丕は聞き入れず処刑を命じた。
そのわずか20日後に急病から曹丕は没しており、誰もが鮑勛の運の無さを嘆いた。(『鮑勛伝』)
異母弟の曹幹(そうかん)の母の王昭儀(おうしょうぎ)は曹丕の後継者争いに貢献したため、臨終に際し曹叡にも曹幹を厚遇するよう遺言された。(『趙王幹伝』)
曹丕は人相見の達人の朱建平(しゅけんぺい)に自身や居合わせた者の寿命を占わせた。
曹丕は「寿命は80歳だが40歳の時に災難がある」と占われた。
40歳の時、重病にかかると「朱建平は私を怒らせまいと、昼と夜を別々に数え80歳と言ったのであり、本当は40歳が寿命なのだろう」と言い遺し病没した。
馬の相も見ることができ、曹丕の乗騎を寿命が今日で尽きると見立てると、はたして馬は曹丕が焚いていた香の匂いを嫌がって噛み付いたため、怒った曹丕に殺されてしまった。(『朱建平伝』)
異母弟の曹茂(そうぼう)は傲慢で強情な性格だったため曹操には愛されず、曹丕の代になってもただひとり王になれなかった。
曹叡の代になり卞太后に免じて王位に上った。(『楽陵王茂伝』)
文学を愛好し、自ら100近い著作を残した。儒者に経伝(経典と注釈)を編集させ1000篇に上り「皇覧」と名付けた。(『文帝紀』)
227年、曹叡は曹操を天帝と、曹丕を上帝と合わせて祭った。
229年、曹騰(そうとう)・曹嵩・曹操・曹丕4代の位牌を鄴から洛陽の霊廟へ移葬した。(『明帝紀』)
同229年、孫権は帝位につき「曹丕は凶暴悪逆で醜名を世に流し、奸邪の行いを重ねてついに天子の位を盗み取った。曹叡のこわっぱは曹丕の悪行の後を継ぎ、武力を頼んで国土を盗み、いまだ誅殺されていない」と非難した。(『呉主伝』)
230年、曹丕の「典論」を石に刻み霊廟の外に建てさせた。 234年、献帝が没すると曹丕の霊廟で祭祀を行いそれを報告した。
235年、郭皇后が没すると曹丕の定めた通りに葬られた。
237年、周にならい曹操・曹丕・曹叡の霊廟だけ残し他は取り壊すよう上奏された。(『明帝紀』)
郭皇后の姉が亡くなるとその子の孟武(もうぶ)は手厚く葬ろうとしたが、郭皇后は曹丕の(質素な)墳墓を見習うよう反対した。(『文徳郭皇后伝』)
高柔は曹叡の代に「文帝(曹丕)は教育事業を起こし太学を復興され、州ごとに試験制度を確立した。これにより天下の人士は学校の教えを耳にし祭儀の礼に親しんだ」と称えた。(『高柔伝』)
ある時、諸葛瑾(しょかつきん)にのみ孫権は「陸遜が言うには、魏は曹丕が没したから動揺し瓦解するだろうと思っていたが、案に相違し全く揺るがず、それどころか善政を敷き曹操の時代よりも堅固になった、とのことだ。だが私はそうは思わない。曹操の配下をまとめる手腕は古今にも稀なもので、曹丕はその万分の一にも及ばない。後を継いだ曹叡はなおさらだ。曹叡はそれを知っているから民衆の歓心を買うために統治を緩めただけだ。重臣の陳羣や曹真は曹操・曹丕に頭を押さえつけられていたが、曹叡は幼く抑えが効かない。彼らは派閥を作って争いを始め、混乱と滅亡へと至るだろう。陸遜は物事の判断に長じているが、こればかりは判断を誤ったのだ」と評した。
(※裴松之は「曹叡は聡明で自ら政治を行い、孫権の読みは外れた。しかしこれを史書に載せたのは、幼君が立てば混乱と滅亡を招くのは道理であり、記録すべき言葉だと考えたからだろう。また次の曹芳の代にまさしく的中しており、曹芳の時代への批判をこのような形で表したものだろうか」と指摘する)(『諸葛瑾伝』)
254年、曹髦は帝位につくと曹操・曹丕・曹叡を三祖と並び称した。(『高貴郷公紀』)
陳寿は「文学的素質を具え、筆を下せば文章となった。広い知識を持ち、記憶力に優れ、多方面に渡る才能があった。もしここに広大な度量があり、公平な誠意を持って努め、道義を立てる努力を傾け、徳心を充実させることができたならば、古代の賢君にも肩を並べただろう」と評した。
また曹髦を「議論を好み文章を尊重する、曹丕の風格を持った人物」と評した。
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