曹芳 廃位された三代皇帝

曹芳(そうほう)字は蘭卿(らんけい) 豫州沛国譙県の人(232~274)
魏の三代皇帝。
二代皇帝の曹叡は子がなかったため(後継者として)曹芳・曹詢(そうじゅん)兄弟を養育し、彼らの素性は厳重に秘された。
「魏氏春秋」に曰く、曹楷(そうかい)の子か。
235年、斉王に立てられた。
239年正月、重体となった曹叡は太子に立て、曹芳は8歳で同日に即位した。(『斉王紀』)
「魏略」に曰く。
曹叡は臨終の床に曹芳・曹詢を招いて司馬懿に合わせ、曹芳を指差し「これはまだこんなふうだ(幼く何もわからない)。この子をよく見守って間違いを犯さないようにしてやってくれ」と頼み、曹芳に命じて司馬懿の頭を抱きかかえさせた。
「魏氏春秋」に曰く。
曹叡は司馬懿の手を取り「君が来るまで死ぬのを我慢した。曹爽(そうそう)とともに補佐してやってくれ」と言い、司馬懿は「先帝(曹丕)が陛下を私に託したのをご覧になったでしょう」と請け負った。(『明帝紀』)
大赦を行った。
「朕はつまらぬ人間ながら大業を継承し、一人ぼっちで病にかかり(苦しみを)訴える相手もいない(ような心地だ)。曹爽・司馬懿は朕を両側から補佐し、三公らは百官を統率し心に鞭打ち意向に沿うように」と詔勅を下し、曹叡の遺言で宮殿造営を中止させ、宮中の60歳以上の奴婢を解放させた。
同年2月、(曹爽の画策により)司馬懿を太傅(名誉職)に任じ政治から遠ざけた。軍事はこれまで通り受け持たせた。
7月、初めて朝廷に出て上奏を聞いた。 12月、正月が曹叡の命日のため祝われなくなったとして夏王朝の暦に戻された。(『斉王紀』)
芳林園(宮廷の庭園)を華林園に改めた。宋代でも同じ名で呼ばれていると裴松之は記す。(『文帝紀』)
240年、前年12月からこの年の3月まで雨が降らず、無実の罪人や微罪の者を解放し、公卿らに優れた進言をするよう詔勅した。
宮中の衣服が豪奢に過ぎると戒め、金銀を溶かして軍費にあてるよう命じた。 都近辺の穀物の収穫を巡察し、高齢者と農民に褒美を与えた。
241年、初めて「論語」を学び、孔子・顔淵を祀った。 呉の朱然(しゅぜん)が樊城を包囲し、司馬懿が撃退した。
242年、前年に続き南安郡で、12月には魏郡で地震があった。
243年、元服した。 夏侯淵ら功臣を曹操の霊廟前に祀った。
倭の卑弥呼から貢物を贈られた。
244年、曹爽に蜀を討伐させたが敗走した。 日食があった。
「尚書」を学び終え孔子・顔淵を祀った。司馬懿・曹爽や講義した者に褒美を与えた。 兄の曹詢が没した。
功臣の荀攸(じゅんゆう)を一年遅れで祀った。(※裴松之は「多くの重臣が前年に祀られたのに、荀攸が鍾繇(しょうよう)の後回しにされ、郭嘉や許褚が外されたのは理解し難い」と指摘する)
245年、南安郡で地震があった。 曹操の霊廟に先祖を合わせて祀り、先年に定めた21人の功臣も祀った。
その一人の王朗(おうろう)が制定した「易伝」を官吏登用の試験課目に加えた。 司馬懿に輿に乗ったままの上殿を許した。
246年、市場で売られている老齢の奴婢を解放し救済させた。(※裴松之は「即位時にも同じ詔勅を出したのになぜ制定されずまた布告したのか。死にかけの病人もいたと言うがそもそも70歳の老人や病人が売り物になるのか。どれもこれも理解しがたい」といぶかる)
翌7日さらに「19日に祭祀を行う予定だが道が既に整備されていた。雨が降ったら無駄になるのに労力を費やしている。しかも老人や子供を殴って働かせていると聞いた。そんな道を通ってどうして先祖の霊廟に徳をもたらせるのか。(そのようなことのないよう)今日から徹底せよ」と詔勅した。
「礼記」を学び終え孔子・顔淵を祀った。
247年、日食があった。
何晏(かあん)が「身を慎み、佞臣を遠ざけてください。皇后や庭園を訪ねる時には大臣を伴い、ついでに文書を調べ、政治について相談し経書の議論をしてください」と上奏した。
孔乂(こうがい)が「宮殿の装飾が華美に過ぎます。庭園で騎馬を乗り回すのをやめ、外出時には車に乗ってください」と上奏した。
両者とも曹芳の欠点を指摘し諫言したのである。
248年、孫資(そんし)・劉放(りゅうほう)・衛臻(えいしん)が揃って引退した。
暴風で屋根が飛び、樹が折れた。
249年正月、曹爽らを伴い曹叡の陵墓に詣でた隙をつき、司馬懿が決起し都を占拠した。
曹爽・何晏らは宦官と結託して謀叛を企んでいたと発覚し、三族皆殺しとなった。 大赦を行った。 司馬懿を丞相に任じたが固辞された。
「漢魏春秋」に曰く、他に様々な特権や1万戸の領邑、九錫を与えられようとしたが全て固辞した。
同年4月に改元した。
250年、孫資が復帰した。
251年、大赦を行った。
王淩(おうりょう)・曹彪(そうひょう)の謀叛の企みが発覚した。王淩・曹彪は自害した。 甄皇后(しんこうごう)が没した。
司馬懿が没し、子の司馬師が後を継いだ。 曹操の霊廟に祀られた功臣を官位によって並び替え、司馬懿が最上位に改められた。(『斉王紀』)
王淩・令狐愚(れいこぐ)は年少の曹芳では帝位を担えず、曹彪が相応しいと考えたのである。(『王淩伝』)
曹叡は母の実家を厚遇し、曹叡の死後もそれは続き伯父の孫娘にあたる甄皇后が立てられた。(『文昭甄皇后伝』)
252年、張皇后(ちょうこうごう)を立て、大赦を行った。 2匹の魚が武器庫の屋根に現れる異変があった。
三方から呉を攻めたが大敗した。(東関の戦い)
253年、大赦を行った。
呉の諸葛恪(しょかつかく)が東関の戦いの勝利に乗じて合肥新城を包囲したが撃退された。(『斉王紀』)
諸葛恪は出陣に反対されると「曹芳は暗愚で政治は有力者に握られ臣民の心はばらばらだ」と退けたが大敗した。(『滕胤伝』)
魏の旧臣で、蜀の費禕(ひい)を暗殺した郭脩(かくしゅう)を「聶政や傅介子(※暗殺で歴史に名を残した古人)をも超える」と激賞した。
裴松之は「蜀は魏にとって仇敵ではなく、滅亡を危惧するような大敵でもない。劉禅は凡庸暗愚で費禕は中くらいの才能しかなく、この二人が生きようが死のうが魏の興亡には影響しない。郭脩ももともと魏にとって重要な存在ではなく、節操を守れず蜀へ降伏し、魏から俸禄をもらっているわけでもないのに勝手にもっともらしい態度でとんでもない無駄死にをした。なんの信義も功績もなく聶政や傅介子とは比較にもならない。(それを激賞するのは)全くの無茶である」と非難した。
即位からこの年まで郡以下の単位で新たに設置・廃止されたり、すぐ戻されたりがおびただしく、いちいち記録することが不可能だと陳寿は記す。
254年、毌丘倹(かんきゅうけん)が呉の捕虜となりながら屈服せず殺された劉整(りゅうせい)・鄭像(ていぞう)を顕彰するよう上奏し、曹芳も詔勅で称えた。
張皇后の父の張緝(ちょうしゅう)と李豊(りほう)・夏侯玄(かこうげん)らが謀叛を企み誅殺された。 大赦を行った。
張皇后を廃し、王皇后(おうこうごう)を立て、大赦を行った。
9月、司馬師が曹芳の廃位を画策し、郭太后(かくたいこう)に「曹芳は成年になっても政治に携わらず、女色にふけり、毎日役者とともに醜悪な戯れをほしいままにしている。後宮の縁者の女を引き入れて乱交させた。孝養と恭順は日に日に失われ、道理にもとる傲慢さはますます甚だしい。大業を受け継ぎ先祖の霊廟を戴くことは不可能である」と命じさせ、斉王に戻した。23歳だった。
宮殿が新たに建てられたが、制度は藩国の礼式に下げられた。
「王沈魏書」に曰く。
司馬師が郭太后の命令書を示すと朝臣らは真っ青になった。司馬師は涙を流し方策を尋ね、朝臣らは殿(司馬師)が決断することですと答え、連名で廃位に同意した。
その上奏に記された曹芳の罪を簡潔に記す。
「役者と女官を全裸で乱交させ后妃とともにそれを見物した。一族の女にも同じことをさせた。女官の長官の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、はじき(パチンコ)で撃ち、なおも諫言されると熱した鉄で全身を焼いた。
甄皇后が没した時、王皇后を立てたかったが郭太后に反対され「魏の王室は全て皇后を愛情で選んだではないか」と立腹し張皇后を疎んじた。
郭太后の母が没した時も喪に服さず、龐煕(ほうき)に諫言されると「私は自然に振る舞っているだけで誰にも左右できない」と言った。郭太后が怒り夫人を2人殺すと「母子の恩愛はおしまいだ」と怒り、こっそり2人を弔った。
一族の美女を後宮に引き入れ手をつなぎ散歩した。龐煕に諫められるとはじきで撃った。遊び暮らして文書を読まず、郭太后が様子を見に行くと「出掛けず中にいる」と嘘をつかせた。令狐景・龐煕は罰を恐れ媚びへつらうようになった」
「魏略」に曰く。
郭芝(かくし)が廃位の命令を携え参内した時、曹芳は郭太后と話していた。廃位を聞くと曹芳は退出し、郭太后は不機嫌だった。説得されて従者に皇帝の印綬を持ってこさせた。
代わりに斉王の印綬を授けられた曹芳は郭太后に泣いて別れを告げ、数十人の朝臣が見送ったが司馬孚(しばふ)はこらえきれずに泣き、他の多くの者もつられて泣いた。
郭太后は司馬師と交渉し曹髦を帝位につけさせた。
「魏晋世語」や「魏氏春秋」に異説がある。
曹芳は許允(きょいん)とともに司馬昭の暗殺を企んだ。司馬昭が現れると、役者の雲午(うんご)らが「青い頭の鶏」と繰り返し歌った。鴨=押=暗殺許諾の押印と察した曹芳はおじけづき、実行できなかった。これにより廃位されたのである。
非常にわかりづらいし、裴松之は「この時点で許允は(張緝らと共謀した疑いで)もう配流されている」ともっともなツッコミをしている。(『斉王紀』)
曹髦は即位すると「斉王は思いのままに度外れな行為をし先祖の恩徳を覆してしまった」と述べた。(『高貴郷公紀』)
255年、毌丘倹・文欽(ぶんきん)は反乱し上奏で「斉王は聡明で不行跡もなかった。司馬懿もその能力に感嘆し、君臣の義は定まり(曹爽の誅滅の際も)司馬懿を疑わないほどだった。しかし邪悪な司馬師は実権を奪うため罪をでっち上げて廃位した」と非難した。
「世語」に曰く、曹芳が廃位された時、子の毌丘甸(かんきゅうでん)に挙兵をそそのかされた。(『毌丘倹伝』)
「魏世譜」に曰く。
265年、魏が晋に禅譲すると邵陵県公に落とされた。 274年に没し厲公と諡された。享年43。(『斉王紀』)
265年、司馬炎は「王淩は曹芳の廃位に失敗したが曹芳も結局帝位を守れなかった。王淩・鄧艾は謀叛の罪に問われた時に潔く降った」として名誉回復させた。(『鄧艾伝』)
孫権は曹叡が即位した際、若い曹叡では抑えが利かず群臣が分裂すると予想したが的中しなかった。
(※裴松之は「曹叡は聡明で自ら政治を行い、孫権の読みは外れた。しかしこれを史書に載せたのは、幼君が立てば混乱と滅亡を招くのは道理であり、記録すべき言葉だと考えたからだろう。また次の曹芳の代にまさしく的中しており、曹芳の時代への批判をこのような形で表したものだろうか」と指摘する)(『諸葛瑾伝』)
陳寿は「嫡子がなければ親族のうち最も徳優れた者を後継者とするのが不変の法則である。しかし曹叡は情愛に囚われて幼子に位を譲り、(信頼できる)一人に後を託さず、あくまで一族の者を参与させた結果、曹爽の誅滅と曹芳の追放を招いた」と評した。
「演義」では張緝らに司馬懿の誅殺を命じたが失敗し、廃位に追いやられた。
また曹叡の臨終の際には後継者に指名しようとした曹芳が司馬懿に抱きついたまま離れず、曹芳を指差しながら息絶えたとアレンジされ、父に母を殺されておきながら、同様に妻を殺し子にも恵まれなかった曹叡の自業自得の孤独を描いた好アレンジである。
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