宋建  涼州に30年君臨した謎の王



宋建(そうけん)字は不明
涼州隴西郡の人(??~214)

賊徒。

「献帝春秋」に曰く。
184年、涼州義従の宋建・王国(おうこく)らは反乱した。
偽って金城郡へ降伏し辺允(へんいん)・韓約(かんやく)へ面会を求め、韓約は渋ったが金城太守の陳懿(ちんい)は会うよう勧め、王国らに人質に取られた。
陳懿を殺し、辺允・韓約は反乱の一味と見なされ、賞金首となったためそれぞれ辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)へ改名した。(『後漢書 董卓伝』)

宋建は枹罕に拠点を定め河首平漢王を名乗り、元号を改め百官を配置し、30年に渡り君臨した。(『武帝紀』)

「続漢書」に曰く。
212年、周羣(しゅうぐん)は彗星が現れると「西方の領主がみな領土を失う」と予言した。涼州の韓遂、枹罕の宋建、主君の劉璋、漢中の張魯(ちょうろ)が3年以内に滅亡した。(『周羣伝』)

214年、夏侯淵・張既(ちょうき)・張郃に討伐され1ヶ月余りで陥落して斬られ、涼州は平定された。(『武帝紀』・『夏侯淵伝』・『張既伝』・『張郃伝』)

曹操は「30年割拠した宋建を一度の戦で滅ぼし、関右地域を闊歩し向かうところ敵なしだった。「論語」で孔子が弟子の顔回へ「私達は及ばない」と言ったのと同じである」と夏侯淵を激賞した。(『夏侯淵伝』)

「献帝伝」に曰く。
献帝は曹操を魏王に封じる詔勅で「韓遂・宋建は蜀と手を結び国家を危険に陥れようと企んだが、君(曹操)に討伐された」と称えた。(『武帝紀』)

「傅子」に曰く。
宋建は牛を生贄にして神に祈ったが、敗れて焼身自殺した。
文欽(ぶんきん)は毎日天を祀っていたが殺された。
諸葛誕は夫婦で巫女を集め邪神を崇めたが一族皆殺しとなった。
天下の人々が目撃した(神にすがっても無駄だという)良い手本である。(『諸葛誕伝』)