曹休 曹家の御曹司

曹休(そうきゅう)字は文烈(ぶんれつ) 豫州沛国譙県の人(??~228)
魏の臣。 曹操の族子。
10数歳で父を亡くし、一人の客人とともに亡骸を担いで仮に埋葬し、年老いた母を連れて長江を渡り揚州呉郡へ移住した。 「王沈魏書」に曰く。
祖父がかつて呉郡太守を務めた。官舎で祖父の肖像画を見つけると椅子から降りて拝礼し、涙を流した。同席の者はみな感心しため息をついた。
曹操が挙兵すると姓名を変えて荊州から北へ帰り目通りした。曹操は「我が家の千里の駒だ」と側近に言い、曹丕とともに起居させ我が子のように扱った。
いつも征伐に連れて行き、虎豹騎を率いさせ宿衛を任せた。(『曹休伝』)
「王沈魏書」に曰く。
虎豹騎は天下の精鋭揃いで指揮官は百人の将校から選抜することもあった。曹真(そうしん)・曹休の後は曹純(そうじゅん)が率いたが、曹純も没すると誰に任せるか曹操は悩み、ついに「曹純ほどの者はもう得られない」と自ら指揮をし後任を選ばなかった。(『曹仁伝』)
217年、劉備が張飛・呉蘭(ごらん)を下弁に駐屯させると、曹操は曹休を騎都尉に任じて曹洪(そうこう)の副将とし「お前は参軍だが実際には指揮官だぞ」と言い含め、それを聞いた曹洪は指揮を任せた。
張飛が後方に回り、前の呉蘭と背後の張飛のどちらに備えるべきか意見が分かれると曹休は「張飛が本当に背後を断つつもりなら隠密に行動するはずですが、逆に声を張り上げ気勢を示しています。敵の態勢が整う前に呉蘭を急襲して破れば、張飛も撤退します」と言い、曹洪は採用しその通りになった。
中領軍に昇進した。(『曹休伝』)
曹操は辛毗(しんぴ)・曹休を副官に付け「高祖は金と女を好んだが張良・陳平がその欠点を正した。辛毗・曹休の心配は軽くないぞ」と欲深い曹洪を戒めた。(『辛毗伝』)
220年、曹丕が王位につくと領軍将軍となり、功績を採り上げ東陽亭侯に封じられた。
同年、夏侯惇が没すると鎮南将軍・仮節・都督諸軍事となり、赴任の際には曹丕自ら見送りに出て、車を降りて手を握った。
孫権が歴陽に兵を駐屯させると撃破し、長江を渡って蕪湖を襲わせ数千の軍営を焼いた。これらの功により征東将軍・揚州刺史に上り安陽郷侯に進んだ。(『曹休伝』)
「魏略」に曰く。
曹休が都督青徐諸軍事になると、臧覇(ぞうは)は「朝廷は私の進言を聞かないが、1万の兵を貸してくれれば長江の彼方を横行して見せる」と言った。
曹休は許可を求めたが曹丕はかつて曹操が没した際に臧覇ら青洲兵が勝手に都を去ったのを思い出し、兵を与えることを懸念した。後に臧覇が来朝したのを利用し朝廷に迎え兵権を取り上げた。(『臧覇伝』)
「魏略」に曰く。
220年、曹丕は呉質(ごしつ)に手紙を送り「南皮で遊んだ時にいた者はもう3人しか生きていない。そのうち曹真・曹休は大いに出世したが、君だけが下役としてひっそり暮らし、私の遊びにも招いてやれない」と残念がった。(『王粲伝』)
「王沈魏書」に曰く。
母が没すると孝行の限りを尽くし哀悼したため痩せ衰えた。曹丕は使者を送り服喪を切り上げさせ、食事を摂らせようとするとますます憔悴した。
(官を辞して)故郷へ帰り母を埋葬したいと願い出ると、曹丕はまたも使者を送り一晩で終えて復職するよう命じた。葬儀を終えると親しく声をかけて慰めた。曹丕が寵愛し重んじるのはこれほどだった。
また曹丕は曹休の領邑から300戸を分け下の子の曹簒(そうさん)を列侯した。(『曹休伝』)
「魏略」に曰く。
曹丕は薛夏(せつか)を非常に評価し、曹休が来朝すると紹介しともに相談するよう持ちかけるほどだった。(『王朗伝』)
「呉質別伝」に曰く。
曹丕が呉質と曹休を招いた時、郭皇后(かくこうごう)に挨拶させた。曹丕は呉質にだけ「君は拝伏せず見てもよい」と許すほど親密だった。(『王粲伝』)
222年、曹丕は親征し曹休を征東大将軍に任じ黄金の鉞を与え張遼ら20数軍を指揮させた。呂範(りょはん)らを撃破し揚州牧となった。(『曹休伝』)
趙儼(ちょうげん)を軍師として招いた。(『趙儼伝』) 「王沈魏書」の詔勅に曰く、4万の兵を斬り1万の船を奪った。(『文帝紀』)
曹休は攻撃の許可を求めたが、曹丕は早馬を出して止めさせた。
董昭(とうしょう)は「陛下は曹休が命令を聞かないかもしれないと憂いているようですが、(副将の)臧覇らは富貴な身分だから功名を求めず、危険を冒しません。臧覇らの協力を得られなければ曹休も進軍をやめるでしょう。私が懸念するのは、いざ進軍の許可を出しても彼らが従わないことです」と言った。
後に暴風によって孫権軍の船が曹休の軍営に流れ着き、戦端が開かれた。大勝し曹丕はすぐに進軍を命じたが、董昭の懸念通りに従わず、好機を逃した。(『董昭伝』)
大風により呂範の兵が数千人も溺死した。曹休は臧覇に命じて決死隊1万で襲撃し数千の首級と捕虜を得た。
全琮(ぜんそう)・徐盛(じょせい)は帰還するところを追撃し尹盧(いんろ)を討ち取り数百の首級と捕虜を得た。(『呉主伝』)
大風により水夫の大半が失われたが、徐盛は残った兵をまとめ長江を挟み曹休と対峙した。寡兵で攻撃を防ぎ撤退させた。(『徐盛伝』)
226年、曹丕は危篤になると曹真・陳羣(ちんぐん)・曹休・司馬懿に後事を託した。(『文帝紀』)
曹休ら4人は開府を許可された。(『陳羣伝』)
同226年、曹叡が即位すると長平侯に進んだ。
皖城に駐屯する呉の審悳(しんとく)を討ち取り、韓琮(かんそう)・翟丹(てきたん)を降伏させ400戸を加増され2500戸となり、大司馬に上り都督諸軍事・揚州牧を兼務した。(『曹休伝』)
228年、曹植(そうしょく)は上奏し曹真か曹休の麾下に用いてくれるよう求めたが却下された。(『陳思王植伝』)
同228年、曹休・司馬懿は二方面から呉を攻めた。周魴(しゅうほう)の偽装投降に騙されて敵地深くへ入り込んでしまい、大敗した。
石亭まで退くと夜中に兵が騒いだため大量の武具や輜重を捨てて撤退した。(※石亭の戦い)
魏に名を知られた山越や名将に、曹休に偽装投降を仕掛けるよう指令が下り、周魴は小人物には荷が重く、漏洩の恐れもあると考え、自ら応じた。
7通の手紙を送って呉の内情や将兵の配置を教え、必勝の策を立てて信じさせると、曹休は罠に掛かり10万の兵で侵攻した。周魴は都からの詰問に謝罪し髪を剃りさえしたため(※当時は重罪人の証である)曹休は騙されたのだった。
陸遜らとともに魏軍を分断し、数万もの首級と捕虜を得た。(『曹休伝』・『周魴伝』)
蔣済(しょうせい)は曹休が呉の討伐へ向かうと、その不利さを訴え、すぐ救援を送るべきだと進言した。既に曹休は敗走しており、救援が間に合ったため全滅を免れた。(『蔣済伝』)
従軍した孫礼(そんれい)も深入りは危険だと諫言したが却下された。(『孫礼伝』)
満寵(まんちょう)は「曹休は聡明果敢ですが戦の経験はあまりありません。進むは容易ですが退くのは困難な進路を採っており、もし無彊口まで進んだら不測の事態に備えるべきです」と上奏した。
返書が届く前に曹休は無彊口を通った呉軍に退路を断たれ大敗した。朱霊(しゅれい)・王淩(おうりょう)の奮戦により曹休は命拾いした。
曹休が没すると満寵が後任の都督揚州諸軍事となった。(※229年と誤記される)(『満寵伝』・『王淩伝』)
曹休は罠に掛かったのを悟ったが、呉軍が3万しかいないのを知ると、撤退前に数を頼みに攻撃を仕掛けた。(『朱桓伝』・『陸孫伝』)
朱桓(しゅかん)は「曹休は皇族というだけで重責を受けている、知勇兼備の将ではない」と退路を予測して伏兵を任せるよう求めた。しかし陸遜は既に孫権と作戦をあらかじめ立てていたため許可しなかった。(『朱桓伝』)
陸孫は朱桓・全琮とともに三方から攻め、曹休の伏兵を強行突破した。1万の首級と捕虜を得て、1万の輜重と兵糧・武具を奪った。(『陸孫伝』)
周魴も出撃し呉軍は数万の首級と捕虜を得た。(『周魴伝』) 是儀(しぎ)・劉邵(りゅうしょう)も計略に参与した。(『是儀伝』)
「賈逵伝」に詳細が記される。 賈逵は満寵・胡質(こしつ)らを率い東関へ進撃し、曹休・司馬懿も別路から侵攻した。
曹休は呉の周魴が内応を望んでいると言い、敵地深くへ侵入し連携することを求めた。曹叡も司馬懿は軍を止めて(陽動し)賈逵・曹休は合流し周魴と連携するよう命じたが、賈逵はこれを罠と読み、水陸両面から侵攻し不測の事態に備えた。
200里進んだところで捕らえた敵兵が、曹休が敗れ孫権に退路を断たれたと吐いた。諸将は判断に迷ったが賈逵は「進退窮まり一日の内に全てが決まる。進んで敵の不意を突こう。救援を待っても退路を断たれていては何人いても役に立たない」と言い、倍の速度で進軍するとともに旗指物と陣太鼓を盛んにすると、呉軍は大軍と勘違いし撤退した。
もともと曹休との仲は険悪で、曹丕が賈逵に節(指揮権)を与えようとすると曹休が「彼は剛毅で、平素から将軍たちを侮り軽んじているから都督は務まらない」と讒言し取りやめさせたこともあったが、賈逵に命を助けられたのである。(『賈逵伝』・『周魴伝』)
「魏略」に曰く。 曹休は賈逵の到着が遅れたのを恨み、叱責した挙げ句に捨ててきた物資を回収するよう命じた。
賈逵は「国家のために豫州刺史を務めており、捨てた物資を拾うためではない」と言い返し帰還した。互いに上奏し朝廷は賈逵が正しいと承知していたが、皇族の重鎮である曹休を処罰できずどちらも責めなかった。
「王沈魏書」に曰く。 曹休はさらに遅参の罪を咎めたが賈逵は全く言い返さず、人々は立派だと思った。(『賈逵伝』)
上書して謝罪したが、曹叡は楊曁(ようき)を送って慰撫し、前にも増して厚遇した。憤激から病を発し背中に悪性の腫瘍ができて没した。壮侯と諡された。
敗戦の翌月だった。(『曹休伝』・『文帝紀』・『陸孫伝』)
子の曹肇(そうちょう)が後を継いだ。(『曹休伝』)
「孫資別伝」に曰く。
曹叡に誰を校尉に任用すべきか問われた孫資(そんし)は曹真・曹休を例に親族に任せるのが妥当だが、校尉程度の役職ならば他に信頼できる者を作るべきと進言した。(『劉放伝』)
243年、功臣の一人として曹操の霊廟前に祀られた。(『斉王紀』)
「演義」では弓の名手とされ、凌統を落馬させたり、献帝から玉璽を奪ったりとオリジナルの活躍をする。石亭の戦いでの周魴は曹休に罠を疑われて自刎しようとしたのを止められ、髪を切ってその代わりにし信用させた、とアレンジされた。
また賈逵に救援されると諫言を聞かなかったことを恥じており史実よりイメージは悪くない。
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