曹仁  鉄壁



曹仁(そうじん)字は子孝(しこう)
豫州沛国譙県の人(168~223)

魏の臣。
曹操の従弟。

若い頃から弓術・馬術・狩猟を好んだ。
群雄割拠の様相を呈すると1千人余りの若者を集めて挙兵し淮水・泗水を荒らし、曹操も挙兵すると別部司馬を務め行厲鋒校尉に任じられた。

「英雄記」に曰く。
異父弟の曹純(そうじゅん)は14歳で父を亡くし、曹仁とは別に暮らしていた。

(193年?)袁術との戦いでは自ら多くの首級と捕虜を奪い、194年の徐州討伐では騎兵を率いて先鋒を務め、別働隊で呂由(りょゆう)を捕縛し、本隊に合流し大戦果を上げた。さらに4県を攻めて救援部隊も撃破した。
呂布が反乱すると句陽を攻め落とし劉何(りゅうか)を捕らえた。
青州平定・献帝庇護でも手柄を立て広陽太守に任じられたが、曹操は智略と勇気を評価していたため赴任させず議郎のまま騎兵隊を指揮させた。
張繡(ちょうしゅう)との戦いでも別働隊を率い3千人の住民を捕虜にし、帰還中に本隊が追撃されると叱咤激励しつつ獅子奮迅の働きで窮地を救い、勝利に繋げ曹操を感心させた。(『曹仁伝』)

199年、史渙(しかん)・于禁とともに黄河を越えて眭固(すいこ)を討ち取った。(『武帝紀』・『于禁伝』)

200年、官渡の戦いで袁紹が劉備に後方撹乱させ許昌以南を動揺させると、曹仁は「我々は袁紹と対峙し救援できないと南方は判断しているところに劉備が攻めてきたから、寝返るのは当然です。しかし劉備は袁紹傘下になって日が浅く、まだ思いのままに指揮できないから撃破できます」と言い、騎兵を率いて劉備を撃破し、寝返った諸県を全て取り戻した。
韓荀(かんじゅん)が西方の交通を遮断したがこれも撃破し、袁紹は懲りて二度と別働隊を出さなかった。さらに史渙らと輸送隊を襲い兵糧を焼き払った。(『曹仁伝』)

汝南郡で反乱した劉辟(りゅうへき)とそれを援護する劉備を撃破した。(『武帝紀』)

206年、壺関の戦いではじめ曹操は陥落させたら敵兵を全て生き埋めにしろと命じていた。数ヶ月経っても落とせず、曹仁が「城を包囲したら生きる道を示してやらなければ、城兵は必死に抵抗します。そのうえ城は堅固で兵糧も豊富だから、被害が増え包囲の日数も増えるばかりです」と諌め、降伏を受け入れさせた。
これまでの功績により都亭侯に封じられた。(『曹仁伝』)

208年、荊州征伐では行征南将軍となり、赤壁の戦いに敗れた曹操は曹仁を江陵に駐屯させ周瑜の数万の軍と戦った。(『曹仁伝』・(『周瑜伝』)
先鋒隊数千に対して牛金(ぎゅうきん)に300の兵で攻めさせたが包囲された。曹仁は激昂し自ら出撃しようとすると、陳矯(ちんきょう)らは「敵は大軍でとても敵わず、300人を見殺しにしてもさして損害はありません。あなた自ら救援に出るなど言語道断です」と引き止めたが、曹仁は返事もせず数十人の手勢を率いて出撃した。
敵軍から100歩ほどの所に堀があり、陳矯らはそれを盾にして戦うと思ったが、曹仁は堀を乗り越えて突撃し、牛金を救った。まだ取り残された者がいるのに気づくと引き返して救出し、戦死したのは数人で敵軍を撤退させた。陳矯らは曹仁が死んでしまうと震え上がっていたが、無事に帰還すると「将軍は天上世界の御方だ」と嘆息した。
曹操はますます感心し安平亭侯に移封された。(『曹仁伝』)

徐晃とともに江陵を攻め周瑜と戦った。(『徐晃伝』)
劉備は関羽に北方を遮断させ曹仁は孤立した。李通(りつう)は逆茂木を引き抜いて突入し包囲を破り曹仁を救出した。(『李通伝』)

夷陵を守る甘寧が曹仁に包囲されると、周瑜は呂蒙の献策で凌統に曹仁を食い止めさせ、その隙に半数の兵を率いて甘寧を救出した。
曹仁は5~6千の兵で包囲して矢の雨を浴びせ、甘寧には数百の兵しかなく城兵は動揺したが、甘寧だけは何事もないように談笑していた。(『呉主伝』・『甘寧伝』)
209年、1年に渡る戦いの末についに曹仁は江陵を捨て撤退した。(『呉主伝』)

周瑜は左鎖骨に矢傷を負い、曹仁は周瑜が臥せっていると聞いて攻め寄せたが、負傷を押して督戦する姿を見て撤退を決断した。
「呉録」に曰く、劉備は「張飛に1千の兵を与え、あなた(周瑜)が2千の兵を出してともに退路を断てば曹仁はすぐに撤退する」と持ちかけ、周瑜も計画に乗った。(※曹仁は1年粘った)(『周瑜伝』)

211年、馬超討伐では行安西将軍として全軍を指揮して潼関を守り、蘇伯(そはく)・田銀(でんぎん)が反乱すると行驍騎将軍として七軍を指揮し討伐した。(『曹仁伝』)

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に行驍騎将軍・安平亭侯として連名した。
217年、夏侯惇・張遼とともに居巣に駐屯し孫権に備えた。(『武帝紀』)

行征南将軍に戻り仮節を授かり、樊城に駐屯し荊州を守った。
218年、侯音(こうおん)・衛開(えいかい)が宛城で反乱すると龐悳とともに討ち取り、正式に征南将軍となった。(『曹仁伝』・『龐悳伝』)

「楚国先賢伝」に曰く。
この反乱で太守の東里袞(とうりこん)をかばって死んだ応余(おうよ)を曹仁は表彰し、酒で魂を祀った。(『高貴郷公紀』)

征南将軍の曹仁が来朝した時、曹操がまだ来ていなかったため許褚と語り合いたいと招いたが「王(曹操)はもうお出ましになるでしょう」と言い引き返した。曹仁は恨み、許褚もある人に態度を咎められたが「あの方は王のご親族の重臣ですが、外地(魏)の大名です。私は朝廷(後漢)の臣下であり、大勢で話し合えば十分で、個人的な付き合いはしません(※他国の臣下同士であり親しく付き合う立場ではない)」と答えた。曹操はそれを聞くといよいよ寵愛し、中堅将軍に昇進させた。(『許褚伝』)

219年、関羽が攻め寄せると漢水の氾濫により于禁(うきん)が降伏し、龐悳は殺され樊城も1丈ほどを残して水没した。関羽の水軍に包囲され兵糧は尽きかけ救援も望めなかったが、曹仁が決死の覚悟を示し激励したため将兵は一人も寝返らなかった。
やがて徐晃が駆けつけ水位も下がり、包囲を破った。(『曹仁伝』・『龐悳伝』)

まだ水位が上がりきらないうちに城を捨てるよう勧める者もいたが満寵(まんちょう)が「山からの水だからすぐに引きます。関羽が思い切って進撃しないのは我々の追撃を恐れているからで、もし城を捨てれば黄河以南を全て失います」と諌め、曹仁も籠城を決意した。(『満寵伝』)

趙儼(ちょうげん)は徐晃の補佐を命じられたが、包囲は固く、他の援軍もまだ到着していなかった。
兵は不足していたが諸将が戦いを挑むよう勧めると、趙儼は「包囲は固く、水攻めもされていて曹仁と連携も取れない。まずは間者を送って援軍の到着を知らせ、曹仁軍の士気を上げる。他の援軍も10日以内には到着するし、それまでは曹仁も持ちこたえるだろう。援軍が集まるまで進軍は控えるべきだ。もしその前に樊城が陥落したら私が責任を取る」と言い、攻撃を控えさせた。
そして地下道を掘り、矢文を城内へ送り、連絡を取った。他の援軍も到着すると攻撃し、関羽は撤退した。
諸将は追撃を勧めたが、趙儼は「孫権は関羽との戦いで疲弊し、我々が漁夫の利を得るのを恐れ、魏へ従属を申し出てきた。ここで関羽を追撃すれば、今度は孫権は我々の背後を襲う恐れがある。関羽は逃して孫権の目の上のたんこぶにするのがいいでしょう。王(曹操)も同じことを考えるはずです」と反対した。
曹仁も同意し、はたして曹操からも追撃をやめるよう命令が届いた。(『趙儼伝』)

孫権は関羽を不意打ちしたいから計画を秘密にして欲しいと曹操に頼んだが、董昭(とうしょう)は「密かに関羽と曹仁に知らせるべきです。もし関羽が撤退すれば包囲が解けすぐ利益が得られます。曹仁に救援があると教えれば配下が反乱を考えなくなります。関羽は激しい気性で自信家だからすぐには撤退せず、結果的に孫権の不意打ちも成功するでしょう」と進言した。徐晃に命じて曹仁・関羽に孫権参戦を教えた。董昭の読み通りになった。(『董昭伝』)

曹操は徐晃がなかなか包囲を突破できずにいると、自ら遠征しようと考え、群臣に意見を求めると桓階(かんかい)だけが反対した。桓階は「大王(曹操)は曹仁らが事態に対処し、実力を発揮できると思っているのになぜ自身で出向こうとするのか。彼らが包囲の中にありながら二心を抱かないのは、大王が遠方から威圧しているからです。決死の覚悟で戦っている彼らが敗れるとなぜ心配するのですか」と言い、納得した曹操は豫州潁川郡郟県の摩陂に進出するだけに留め、やがて関羽も撃退された。(『桓階伝』)

220年、曹丕が王位につくと侍中となり、後に駙馬都尉に任じられ、河東太守・典農中郎将を代行した。(『趙儼伝』)

同219年、孫権が合肥を攻めると、温恢(おんかい)は裴潜(はいせん)に「合肥よりも荊州が心配だ。川の水かさが増えているのに曹仁は孤立し、危機に気づいていない。関羽に攻められれば一大事だ」と話した。果たして曹仁は関羽に樊城を包囲され窮地に陥った。(『温恢伝』)

曹操は曹植(そうしょく)に救援させようとしたが泥酔して命令を受けられなかったため取りやめた。(『陳思王植伝』)

曹仁は若い頃は身を慎まなかったが、長じてからは厳格に法を守り、常に条文を側に置き照らし合わせながら事をなした。
甥の曹彰(そうしょう)が烏丸討伐に向かう際に、その兄の曹丕は「大将として法を遵奉すること、曹仁のようであらねばならない」と戒めるほどだった。

220年、曹丕が王位につくと車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事・陳侯に進み2千戸を加増され3500戸となり、父の曹熾(そうし)にも陳穆侯を追贈され墓守10軒が置かれた。
孫権が襄陽を陳邵(ちんしょう)に奪わせると徐晃とともに奪回し、高遷(こうせん)に命じて漢水南部の住民を北部へ移住させた。(『曹仁伝』)

221年、大将軍に上り、反乱した鄭甘(ていかん)を討ち取った。臨頴に駐屯地を移し、大司馬となった。(『文帝紀』・『曹仁伝』)

烏江を占領し、合肥に駐屯した。(『曹仁伝』)

222年、数万の兵で濡須を攻めた。
曹仁は東に陽動の兵を送り、守る朱桓(しゅかん)が兵を分けて東に向かわせると、曹仁の本隊が濡須へ急行し、兵を呼び戻すのも間に合わず、朱桓のもとには5千の兵しかなかった。
将兵は恐慌をきたしたが、朱桓は「勝敗を決するのは将の手腕であり、兵の多寡ではない。曹仁の指揮が私に勝ると思うか? 兵法には攻める者(の勢い)は倍に、守る者は半分になるとあるが、それは野戦で士気も同じな場合の話だ。魏軍は遠征で疲れ切っているが、我々は城と険阻な地形に守られ休養も十分で百戦百勝の情勢だ。たとえ曹丕がやって来ても心配無用なのに、ましてや曹仁ごときは問題にもならない」と檄を飛ばした。
そして軍旗や軍鼓も使わず、いかにも弱そうに見せかけた。

223年、曹仁は罠に掛かり、子の曹泰(そうたい)に城を攻めさせ、常雕(じょうちょう)に別働隊を任せ諸葛虔(しょかつけん)・王双(おうそう)に呉軍の妻子がいる中洲を襲わせ、自身は後方を固めた。
朱桓は中洲を救援させると常雕を攻撃させ、自ら曹泰の軍営に焼き討ちを仕掛けた。常雕を討ち取り、王双を捕縛し、1千の首級を上げ大勝した。(『呉主伝』・『朱桓伝』)

曹仁が中洲を攻めようとすると、蔣済(しょうせい)は「自ら地獄に入り、滅亡を招きます」と強く反対したが、曹仁は聞き入れず大敗した。(『蔣済伝』)

死の前日に出された詔勅には「孫権との戦いで1万の捕虜を得た」と記される。(『文帝紀』)

223年に没し忠侯と諡された。
「王沈魏書」に曰く、享年56。

子の曹泰が後を継ぎ、鎮東将軍・仮節まで上った。
下の子2人も列侯され、またかつて救出した牛金も後将軍まで上った。(『曹仁伝』)

蔣済が後任となり曹仁の兵を継いだ。(『蔣済伝』)

233年、建国の功臣の一人として夏侯惇・程昱(ていいく)とともに曹操の霊廟の前に祀られた。(『明帝紀』)

239年、配流されていた周瑜の子の周胤(しゅういん)を弁護する上疏の中で周瑜の大きな功績として「曹仁から江陵を奪った」ことが挙げられた。(『周瑜伝』)

「傅子」に曰く。
曹仁の武勇は古代の孟賁・夏育に引けを取らず、張遼はそれに次ぐ。(『曹仁伝』)

陳寿は夏侯惇・夏侯淵ら一族の有力者とともに列伝し「一族として高官となり重んじられ、君主を補佐し勲功を樹立し、揃って功労があった」とまとめて評した。

また弟の曹純も勇猛で「曹仁伝」に附伝されるが、210年に早逝した。

「演義」では短気な性格に設定され、史実にない徐庶(じょしょ)・諸葛亮に大敗する逸話が追加された。
「真・三國無双」では江陵・樊城の戦いぶりからか鉄壁の守備を誇る。