諸葛恪 はじめ神童あと……

諸葛恪(しょかつかく)字は元遜(げんそん)
徐州琅邪郡陽都県の人(203~253)
呉の臣。
諸葛瑾(しょかつきん)の長男。
「呉録」に曰く。
身長7尺6寸(183cm)で髭や眉は薄く、かぎ鼻で額が広く、口が大きく声が高かった。
「江表伝」に曰く。
若くして優れた才能で名を知られ、才知にあふれたきらびやかな言葉を用い、臨機応変に受け答えしたため対等に議論できる者はいなかった。
孫権は引見して高く評価し、父の諸葛瑾へ「藍田に玉が生じる(立派な家柄は立派な人物を輩出する)とは嘘ではない」と言った。(『諸葛恪伝』)
諸葛恪は名声高く、孫権にも高く評価されていたが、諸葛瑾は常々彼を嫌い、家の安全を保てぬ子だと心配していた。(『諸葛瑾伝』)
義弟の張承(ちょうしょう)は(※ちなみに張承は諸葛瑾の4歳下)幼くして名声高かった諸葛恪を「諸葛家を滅ぼすのは諸葛恪だ」と評していた。(『張昭伝』)
20歳前後で騎都尉に任じられ、顧譚(こたん)・張休(ちょうきゅう)・陳表(ちんひょう)らとともに太子の孫登(そんとう)の側近となり、道理や学問を教え「四友」と呼ばれた。無位無官のように礼を略し、同じ乗り物で出掛け、同じ部屋で寝た。
229年、太子中庶子から左輔都尉に転じた。(『孫登伝』・『諸葛恪伝』)
「江表伝」に曰く。
孫登は胡綜(こそう)に命じて「賓友目」を作らせ、その中で諸葛恪は「卓越した英才を具え、比倫を絶している」と評された。
羊衜(ようどう)はそれに反論し「諸葛恪は才能あっても緻密ではない」と評したことで彼らから冷たく扱われたが、後に反論された4人はみな道を誤り、人々は羊衜には根拠があったのだと称えた。(『孫登伝』)
頭の回転の速さを示す逸話がいくつもある。
諸葛瑾は面長でロバに似ていた。ある時、孫権が群臣の前にロバを連れてくると、顔に「諸葛瑾」と書かれた札を付けた。諸葛恪は「2文字付けさせてください」と願い出て、筆を取ると「之驢(のロバ)」と書き加えた。一同は大笑いし、ロバは諸葛瑾に下賜された。
孫権が「あなたの父と叔父の諸葛亮はどちらが賢いか」と尋ねると、諸葛恪は「父です。父は仕えるべき主君を知っていますが、叔父は知りません」と答え、孫権は大笑いした。
酒席で給仕を務めた時、張昭(ちょうしょう)は酔いが回っており「無理強いするのは老人をいたわる礼に背く」と断った。孫権が「言い負かして飲ませよ」と命じると、諸葛恪は「師尚父(太公望)は90歳でも陣頭に立ち年齢を理由に辞退しませんでした。あなたは軍役ではもう先頭に立ちませんが、宴会で皆が先頭に立てようとするのは、老人を大切にしないとは言えません」と説き、張昭は反論できず杯を飲み干した。
蜀の使者が訪れた時、孫権は「この諸葛恪は乗馬を好む。帰国したら丞相(諸葛亮)に頼み良馬を贈って欲しい」と伝えた。諸葛恪はそれを聞くや座を降りて感謝した。孫権が「馬がまだ来ていないのに早くはないか」と問うと「蜀は陛下の遠く離れた厩舎です。馬は必ず来ますから謝意を表さずにはいられません」と答えた。
「諸葛恪別伝」にも多くの逸話がある。
蜀から費禕(ひい)が訪れた時、孫権は(費禕を試そうと)到着しても群臣は食事を続け無視するよう命じた。
費禕がそれを見て「鳳凰が現れれば麒麟は食事をやめるが、ロバやラバは愚かだからやめない」とからうと、諸葛恪は「鳳凰が来ると聞いていたのに、燕雀が現れて鳳凰を名乗っている。弾弓(パチンコ)で射て追い返してやろうか」と言い返した。
もてなしが始まり、費禕が料理を題材に賦を作ると、諸葛恪も対抗して作り、どちらも立派な作品だった。
孫権が太ってきた諸葛恪に「いったい何に興じて、ますます太ってつやつやしくなってきたのだ」と問うと「富は家を潤し、徳は身を潤すと言います。楽しみにふけっているのではなく、己の行動を正しているから身が潤っているのです」と返した。
孫権に「あなたは滕胤(とういん)と自身をどう比較するか」と聞かれ「宮中で見事な立ち居振る舞いをする点で私は滕胤に敵いませんが、計画を練り策謀をめぐらす点で滕胤は私に及びません」と答えた。
諸葛恪が孫権に馬を献上したが、耳に穴が空けられていた。
范慎(はんしん)が「馬は家畜とはいえ天からの授かり物だ。それを傷付けるのは仁を損なうのではないか」とからかうと、諸葛恪は「母親の娘への情愛は最も深いが、ピアスを着けるため耳に穴を空ける。どうして仁を損なうのか」と返した。
孫登が「諸葛恪は馬糞を食え」とからかうと、諸葛恪は「太子様は鶏卵を召し上がれ」と返した。孫権が「馬糞を食えと言われたのに鶏卵を勧めるのか」と聞くと、諸葛恪は「どちらも出どころは同じです」と答え大笑いさせた。
「江表伝」に曰く。
ある時、宮廷の庭に頭の白い鳥が現れた。孫権が「あれはなんという鳥だ」と聞くと諸葛恪は「白頭翁です」と答えた。
張昭は最年長(白髪頭)の自分がからかわれたと思い「諸葛恪は嘘をついています。白頭翁がいるなら白頭母を探させましょう」と言った。諸葛恪は「鸚母(オウム)はいるが鸚父はいません。つがいが必ずいるなら将軍(張昭)には鸚父を探していただきましょう」と返し、張昭は言葉に詰まり一同は大笑いした。(『諸葛恪伝』)
孫権は口達者な上に人をからかう癖があり、弁舌優れた諸葛恪・羊衜に費禕へ論戦を挑ませたが、屈服させられなかった。孫権は「君は必ずや蜀の股肱の臣となるから、たぶん何度も会えないだろう」と費禕を称えた。(『費禕伝』)
「江表伝」に曰く。
費禕と諸葛恪は悪口を言い合い、諸葛恪は「蜀という字は水があれば濁り、目を横にして身を屈め、腹には虫がいる。呉という字は口がなければ天で、下は青海原に臨み、天子の帝都である」と言った。
(※裴松之は「正史では費禕を屈服させられなかったとある」と指摘する)(『呂岱伝』)
孫権は実務でその才能を発揮させようと考え、兵糧を統括する節度に任じたが、節度は文書処理が煩雑で、諸葛恪の好むところではなかった。
「江表伝」に曰く、徐詳(じょしょう)が初代の節度を務め、没すると諸葛恪を用いようとした。それを聞いた諸葛亮は陸遜へ手紙を送り「兄(諸葛瑾)は年老い節度は務まらず、諸葛恪もいいかげんで向いていません」と助言した。陸遜がそれを伝え、諸葛恪は兵を指揮する役目に移った。(『諸葛恪伝』)
顧譚が代わって左節度となった。
陸機の「顧譚伝」に曰く、諸葛恪らは非凡な才能で人々から抜きん出ていたが、顧譚は優れた見識で並ぶ者がなかった。(『顧雍伝』)
「呉録」に曰く。
歩騭(ほしつ)は「魏が長江を砂袋で堰き止めて大軍を通そうとしている」と上表した。
孫権は「決してありえない。もし外れたら牛千頭をご馳走しよう」と退け、呂範(りょはん)・諸葛恪に「これを読むと失笑を禁じえない。長江は天地開闢の時から流れ続け、砂袋で塞げるわけがない」と言った。(『歩騭伝』)
「呉書」に曰く。
229年、諸葛瑾が大将軍になった時、諸葛恪・諸葛融(しょかつゆう)ら二人の子も高位にあり、蜀では諸葛亮が丞相を務め、魏では族弟の諸葛誕も名声を馳せていた。三国で一門が代表的な地位にあることを人々は称えた。(『諸葛瑾伝』)
234年、丹陽郡は強兵の産地として知られていたが、山越に支配されており、周辺の従順な民しか徴兵できていなかったため、諸葛恪は3年で平定し4万の兵を獲得すると豪語した。
人々はみな無理だと考え、諸葛瑾も失敗すると思い「恪の奴は我が家を大いに盛んにする代わりに、一族を根絶やしにしてしまうだろう」と嘆息した。
諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守として300の儀仗隊を率い赴任した。32歳だった。
まず服従している民を屯田地に移住させ、険阻な地に将兵を送り、戦いを禁じて防御を固めさせた。収穫の時期になると周辺の穀物を残らず刈り尽くさせ、山越は飢えに苦しみ、守備兵に阻まれ略奪もできず、次々と降伏した。
諸葛恪は降伏した山越を取り調べたり、拘束することを厳に禁じた。
山越の周遺(しゅうい)は長く反抗しており、切羽詰まって降伏しただけで反乱の機会をうかがっていた。県長の胡伉(ここう)はそれを察すると周遺を捕らえたが、諸葛恪は命令違反として胡伉を殺し、その旨を孫権に上表した。
山越はそれを見て、諸葛恪はただ服従することを望んでいるだけで処罰する気はないと悟り、こぞって山を下りた。
その中から兵を選抜し、豪語した通りに3年で4万の兵を集めた。1万を自らの配下とし、残りは他の将に配った。
孫権は大いに喜び、薛綜(せつそう)を送ってねぎらい、威北将軍に任じ、都郷侯に封じた。(『諸葛恪伝』)
顧譚の弟の顧承(こしょう)と共同で事に当たり、顧承は兵8千を得た。(『顧雍伝』)
陳表も助勢し兵1万を得た。(『陳武伝』)
諸葛恪は願い出て廬江・皖口で屯田を行い、舒を襲撃して民を残らず捕虜にした。そして寿春の攻略を狙ったが孫権は許可しなかった。
赤烏年間(238~251)、司馬懿が諸葛恪を攻撃しようとすると、孫権は望気者(占い師)の言葉に従い、諸葛恪を柴桑に引き上げさせた。諸葛恪は不満に思い、陸遜へ手紙を送り道理を説いた。陸遜がかねがね細かいことを守らないと諸葛恪に不満を抱いているのを知っていたから、先手を打ったのである。(『諸葛恪伝』)
陸遜は諸葛恪に「私は先輩を尊重し、昇任する際には一緒に昇進するよう計らい、後輩を援助してきた。だがあなたは上の者をないがしろにし、下の者は無視している。徳を保ち身を守る基本に背くものだ」と忠告していた。(『陸遜伝』)
241年、呉は複数路から魏を攻めた。全琮(ぜんそう)、朱然(しゅぜん)、諸葛瑾が攻め込み、諸葛恪も六安を攻めたが司馬懿が救援したため撤退した。(※芍陂の役)(『呉主伝』)
同241年、孫登は病没し、遺言で「諸葛恪の才略は広く通達し、その器は輔弼の臣として時務の処理に当たるに十分」と評した。(『孫登伝』)
同241年、諸葛瑾が没した。
諸葛恪は自身の功績で列侯されていたため、弟(三男)の諸葛融が爵位と兵を継いだ。
父・兄は質素で軍中でもきらびやかな衣装を着なかったが、諸葛融だけが綺羅を尽くした。(『諸葛瑾伝』)
243年、六安を攻め謝順(しゃじゅん)を撃破し、民を捕虜とした。
司馬懿が舒へ侵攻したため皖から柴桑へ兵を移した。(『呉主伝』)
245年、陸遜が没すると荊州の兵権を任された。
246年、大将軍に上り、仮節を授かり武昌に駐屯した。(『呉主伝』・『諸葛恪伝』)
同246年、陸抗(りくこう)は諸葛恪と任地を交換し柴桑に駐屯した。陸抗は離任前に駐屯地を整備させていたが、諸葛恪は壊れたまま離任したため恥じ入った。(『陸遜伝』)
「通語」に曰く。
二宮の変で陸遜・諸葛恪・顧譚・滕胤らは礼に従い太子の孫和(そんか)を推した。(『孫和伝』)
長男の諸葛綽(しょかつしゃく)は二宮の変に深く加担したため再教育を命じられ、諸葛恪に毒殺された。(『諸葛恪伝』)
251年、蜀の使者の樊建(はんけん)が訪れた時、孫権は重病で会見できず、前の使者の宗預(そうよ)と比べてどうかと尋ねられた諸葛恪は「才能・見識は及びませんが性質は勝ります」と答えた。(『諸葛亮伝』)
251年、孫権は病篤くなると太子の孫亮がまだ幼いため、諸葛恪を都へ呼び戻し、太子太傅を兼任させ、孫弘(そんこう)・滕胤・呂拠(りょきょ)・孫峻(そんしゅん)らとともに後事を託し、252年に没した。(『呉主伝』・『諸葛恪伝』)
「呉書」に曰く。
孫権が誰に後事を託すべきか議論させると、朝臣は揃って諸葛恪を推し、孫峻も強く推薦した。孫権は諸葛恪の独断専行を危惧していたが、孫峻が他にいないと繰り返したため、同意した。
孫権は没する前に全権を委ね、諸葛恪は宮中の作法や法令を的確に改正し、朝廷の内外は落ち着いた。
翌日、孫権は没した。
孫弘は険悪だった諸葛恪に粛清されるのを恐れ、孫権の死を隠し詔勅を偽造して排除しようと企んだが、孫峻がそれを密告し、諸葛恪は孫弘を誅殺した。
弟の諸葛融へ手紙を送り、心を引き締めて国家のために尽くさねばならないと抱負を語った。
太傅にも任じられ、位人臣を極めた。官吏の監察を取りやめ、未納の税金を帳消しにし、関税も撤廃したため民は歓喜し、諸葛恪が外出すると一目見たいと押し寄せた。(『諸葛恪伝』)
韋曜(いよう)を推薦して太史令とし、「呉書」の編纂に当たらせた。(『韋曜伝』)
同252年、かつて孫権が放棄した東興に堤を築き、それを挟む形で2つの城を造り、全端(ぜんたん)・留略(りゅうりゃく)にそれぞれ1千の兵で守らせた。
魏は領内で勝手をされたのを恥辱と感じ、胡遵(こじゅん)・諸葛誕に7万の兵で攻撃させ、堤防を決壊させるよう命じた。諸葛恪は4万の兵で迎撃に出た。
胡遵は浮き橋を造って2城を攻撃したが、険阻な地形ですぐには落とせなかった。留賛(りゅうさん)・呂拠・唐咨(とうし)・丁奉らの先鋒が到着した時、魏軍は彼らを小勢と侮り、寒空の下で酒を飲んでいた。留賛らが鎧を脱いで矛も捨て、刀と盾だけを手に城壁をよじ登り始めても嘲笑するだけだった。ところが呉軍は果敢に攻撃し、泡を食った魏軍は四散した。浮き橋も壊れて退路を失い、数万の兵が戦死し、韓琮(かんそう)・桓嘉(かんか)らも討たれた。(※東興の戦い)
呉軍は車馬と家畜をそれぞれ数千頭手に入れ、奪った兵糧や兵器を山積みして凱旋した。
諸葛恪は陽都侯に進み、荊州・揚州牧を加えられ、呉の兵権全てを任され、莫大な恩賞を賜った。(『諸葛恪伝』)
将らは「魏軍は諸葛恪がやって来たと聞いて動揺しており、攻撃すればすぐ撤退するだろう」と言ったが、丁奉は「違う。敵には見通しがありこけおどしで撤退しない。敵が攻めてこないことを頼らず、敵を打ち破る力を頼みにするべきだ」と言い、3千の兵で果敢に先制攻撃を仕掛けて大勝した。(『丁奉伝』)
韓琮は功臣の韓当(かんとう)の子で、魏へ寝返り略奪を働いていたため孫権を歯噛みさせていた。諸葛恪は孫権の墓へ詣で韓琮を討ったことを報告した。(『韓当伝』)
傅嘏(ふか)は「諸葛恪が政治を正し人々の心を一つにすれば、滅亡の時を引き伸ばすことができます。孫権を失った呉は上下ともに危機感を抱き防備を固めており、勝つことは難しい」と出兵に反対していた。(『傅嘏伝』)
同252年12月、雷雨により武昌の宮門が燃え、建て直すと内殿でも火事が起こった。
「呉録」に曰く、諸葛恪は武昌への遷都を考え、武昌宮を建て直させていたが、それが燃えたのである。(『孫亮伝』)
諸葛恪は孫和の正室の張氏(ちょうし)の伯父にあたった。張氏が陳遷(ちんせん)を皇后と諸葛恪のもとへ挨拶に向かわせると、諸葛恪は「間もなく彼ら(皇后)より優位に立てるとお伝え下さい」と言付けした。
これが世間に漏れ、諸葛恪が遷都を行おうと武昌を整備させていたことから、(孫亮を廃し)孫和を武昌に迎えようとしていると噂された。(『孫和伝』)
諸葛恪は諸王が長江沿いの要害にいることを好まず、他郡へ移住させた。(『孫休伝』)
孫奮(そんふん)は腹を立てて従わず、法をないがしろにしたが諸葛恪に不祥事をいくつも知っているからいつでも処罰できると脅され、ますます荒れ狂った。(『孫奮伝』)
諸葛恪は増長し、12月に東興の戦いがあったばかりなのに、翌春にも出兵しようとした。朝臣は兵が疲弊していると反対したが聞き入れず、強硬に反対した蔣延(しょうえん)は議場からつまみ出された。諸葛恪は議論をぶってなにがなんでも出兵する姿勢を示し、朝臣は説得を諦めた。
「漢晋春秋」に曰く、姜維へ使者を送り蜀と共同戦線を張った。
平素から親しくしていた聶友(じょうゆう)も手紙で諌めたが、諸葛恪は先の議論を文章にして「あなたは自然の道理がおわかりでも、天運の移り行きは見えないのだ。これをよく読めばご理解いただけるだろう」と返書した。
かくして反対を押し切り20万の大軍を催したため、人心を失っていった。
「呉録」に曰く。
聶友は郡の功曹の時に都へ使いし、諸葛恪に見込まれ対等の友人として遇された。当時、顧譚・顧承兄弟が並ぶ者のない名声を馳せていたが、諸葛恪が聶友をそれに並べようとしたため名を知られた。(『諸葛恪伝』)
滕胤も「出兵したばかりで民は疲れ果て、敵には十分に備えがある。戦果が得られなければこれまでの労苦が水の泡となる。人々が出兵を望んでいないのに一人でどこへ行かれるのか」と諌めたが、諸葛恪は「反対する者は物事を判断できず、安楽な生活に心惹かれているだけだ。あなたまで反対したら私は誰に理解してもらえるのか。曹芳は暗愚で臣下に実権を握られ、臣民の心はバラバラになっている。我々は戦勝の勢いに乗って攻めるのであり、勝てないわけがない」と退け、滕胤に後を任せ出兵した。(『滕胤伝』)
253年、淮南に出兵し国境の魏の民を領内へ連れ帰ろうと考えたが、将らに「民に逃げられるだけで得るものはなく、合肥新城を包囲し、救援に来た魏軍を撃破した方が良い」と勧められ、それを採用した。
だが数ヶ月に渡り包囲しても落とせず、兵は疲弊した挙げ句に夏の暑さに耐えかねて生水を飲んだため疫病にかかり、無数の死者を出した。
諸葛恪は報告を信じず処刑しようとしたため、誰も実情を告げなくなった。だが内心では失敗を自覚していたため恥といらだちから不機嫌になり、反対する朱異(しゅい)の兵を没収し、蔡林(さいりん)の献策を無視して亡命に追いやった。
魏は呉軍の疲弊を察知すると援軍を送り、諸葛恪は撤退したが、負傷と病から多くの兵が脱落し、多数の死者と捕虜を出した。誰もが悲憤を抱き、貴賎を問わず怨嗟の声を上げたが、諸葛恪は意に介さなかった。長江沿岸まで戻るとそこに1月も留まって屯田を続け、帰還を促す詔勅が矢継ぎ早に届けられようやく都に帰ったが完全に声望を失った。(『諸葛恪伝』)
「呉書」に曰く。
朱異は石頭城に転進すればたやすく攻め落とせると献策したが容れられず、諸葛恪の反論の手紙を床に叩きつけ「俺の策を聞かずに前科者(※不明)の意見を聞きやがって」と暴言を吐いたため、兵を奪われ更迭された。(『朱桓伝』)
諸葛融は仮節を授かり、諸葛恪の本隊に連動し、西へ向かい魏軍と戦った。(『諸葛瑾伝』)
朱績(しゅせき)は以前、諸葛融と連携して王昶(おうちょう)を攻撃する約束をしたが、諸葛融が現れなかったため取り逃がした。その失態を責めたが、諸葛恪が高位にあったため罷免されず、もともと諸葛兄弟と険悪だったのがますます酷くなった。
合肥新城の戦いでも諸葛恪は朱績に共同作戦を要請しておきながら、結局は諸葛融にその任務をさせた。(『朱然伝』)
「漢晋春秋」に曰く。
司馬師に対策を問われた虞松(ぐしょう)は「諸葛恪が精鋭を率いているのに包囲したまま動かないのは、(救援の兵と)合戦に持ち込もうと狙っているのです。それに乗らなければ城は落とせず合戦もできず、兵は疲弊し自ら撤退するでしょう」と看破した。
「魏略」に曰く。
合肥新城を守る張特(ちょうとく)は3千の兵を率いていたが、劣勢によりその半数は負傷者や病人となった。
張特は呉軍へ「魏の法では百日間戦い、救援がなければ降伏しても家族は罪に問われません。すでに九十日以上が経過しました。城兵の半数はまだ抗戦を望んでいますので、彼等を説得し降伏させます。明朝には城兵の名簿を作って渡しましょう」と申し出た。
呉軍は納得し攻撃を中止した。張特はその夜に家屋を壊して資材を得ると、城の補修に用いた。
そして明朝「私は死ぬまで戦う」と呉軍に宣告した。態勢を立て直した合肥新城の守りは堅く、呉軍は撤退した。
魏の兵士の劉整(りゅうせい)は城外へ出て都に連絡を取ろうとしたが、呉軍に捕らえられた。情報を吐けば助けると言われた劉整は「くたばり犬めが何を言っている。私は死して鬼となりお前らを追い払ってやる。さっさと殺せ」と罵倒し(そのまま殺され)た。
同じく兵士の鄭像(ていぞう)も捕まり、城へ援軍は来ないと言うよう命じられたが「援軍は間近に来ている」と大声で叫び続け(そのまま殺され)た。(『斉王紀』)
傅嘏は「諸葛恪は青州・徐州に攻め入ろうと喧伝しているが、淮水も海も簡単には通れず、かつて孫権が出兵した時もほとんど生き残らなかった。諸葛恪も全戦力を傾けた賭けには出られない。水路から攻める陽動をして、淮南を攻めようとしているだけだ」と読み的中させた。(『傅嘏伝』)
帰るやいなや孫嘿(そんもく)を呼びつけ「なぜ詔勅をでっち上げて呼び戻した」と叱責し、遠征中の人事を白紙に戻しやり直させた。威信を張ろうと多くの者を断罪・問責したため、みな戦々恐々とし、孫嘿は病と称して隠棲した。諸葛恪も(反感を買っているのを自覚し)、宿衛を側近と入れ替え、再び青州・徐州への出兵を準備させた。
孫峻は人々の不満に乗じて諸葛恪を粛清しようと企み、孫亮と計画を練り、孫亮に目通りする名目で酒宴に招いた。
諸葛恪はその前夜、胸騒ぎがして眠れず、朝に顔を洗おうとすると水が生臭かった。着物も臭く、水も着物も取り替えても臭いままで心が沈んだ。
出立しようとすると犬が着物をくわえて離さず、「犬が行かせたくないようだ」と言って部屋に戻り、しばらくして立ち上がろうとするとまた犬に止められた。従者に命じて引き離し、ようやく家を出た。
怪異は淮南への出兵の前後から多数あり、出兵前には屋敷の中に喪服の者が入り込み、配下もその者も「いつの間に入ったのかわからない」と言った。
出兵中には役所の屋根の梁が真ん中から折れ、帰還中には白虹が二度も現れたという。
孫峻は兵を伏せて待ち構えていたが、計画が漏れてしまうのを恐れ、諸葛恪を宮門の前で出迎え「体調が優れなかったら帰るといい」と探りを入れた。諸葛恪は大丈夫だと言ったが、張約(ちょうやく)・朱恩(しゅおん)に「酒宴の準備が尋常ではなく何か裏がありそうだ」というメモを密かに渡され、腹痛を理由に引き返そうとした。
だが滕胤に出くわし、彼は孫峻の計画を知らなかったため「あなたは帰還してからまだ目通りしていない。ここまで来たなら押して参内すべきだ」と言われ、ためらったものの剣と靴をはいたまま参内した。
酒宴が始まっても毒殺を警戒していたが、孫峻は「体調に障ると思うならいつも飲んでいる薬酒を取り寄せるといい」と安心させ、諸葛恪は警戒を解き、持参した酒を飲んだ。
しばらくして孫亮が奥へ引き上げると、孫峻は厠へ行って着替え、戻ると「詔勅により諸葛恪を捕らえる」と宣告した。諸葛恪はあわてて立ち上がったが剣を抜く間もなくめった斬りにされ、張約が斬りかかったが孫峻の左手を傷つけただけで、逆に右手を斬り落とされ(殺され)た。
衛兵が駆けつけると孫峻は「諸葛恪を捕らえようとしたがもう終わった」と言い、掃除させて酒宴を続けた。
次の異聞がある。「呉歴」に曰く。
諸葛恪は張約・朱恩に渡されたメモを滕胤に読ませた。滕胤は帰るよう勧めたが、諸葛恪は「孫峻のこわっぱに何ができる。心配なのは毒酒だけだ」と言い、薬酒を携えて参内した。
孫盛は「諸葛恪と滕胤は親密で(※次男が滕胤の娘をめとっている)相談するのが自然である。ただ諸葛恪は気が強く、しかも孫峻を軽蔑していたから滕胤の勧めに従わなかったのだろう。滕胤のせいで災禍を受けたという正史の記述より優れている」と指摘する。
「呉録」に曰く。
孫峻が詔勅により捕らえると宣告すると、孫亮は驚き「私には関係ない」と繰り返し、乳母に連れられ奥に引き取った。
裴松之は「正史にも「呉歴」にも孫亮が奥へ行ってから孫峻が詔勅を告げたとあり、こんなことはありえない」と指摘する。(『諸葛恪伝』)
諸葛融も討伐され、急に攻撃されたため狼狽してなすすべもなく、包囲されると自害した。3人の子も殺された。(『諸葛瑾伝』)
「捜神記」に曰く。
諸葛恪が殺された時、まだそれを知らない妻は家にいた。召使いの女から血の匂いがし、どんどん酷くなった。さらに様子がおかしくなり妻が「目がぎょろぎょろしているがどうしたのか」と聞くと、女は天井に頭がつくまで飛び上がり、腕まくりして歯ぎしりしながら「諸葛様が孫峻に殺された」と言った。
間もなく家族を逮捕するため兵が現れた。
「志林」に曰く。
孫権に後事を託された時、呂岱(りょたい)は「あなたは全てのことに十度ずつ思慮をめぐらせるように」と戒めた。諸葛恪は「季文子が三度まで思慮をめぐらせた時、孔子は二度で十分だと言った。あなたは私が季文子に及ばないと言ったのだ」と言った。呂岱は返す言葉もなく、人々も呂岱の失言だと考えた。
「志林」の著者の虞喜(ぐき)は「後事を託されるのは最高に重い任務であり、己を虚しくして低い身分の者からも意見を求め、常により良い政治のあり方を求めなければ成功しない。まして呂岱は国家の元老で知恵者なのに、その忠告をはねつけたのは、諸葛恪のいいかげんな人となりが、根本的な資質の欠陥によるものだと表している。もし十度まで思慮をめぐらせ広く意見を求めていれば、宮中でつまらぬ悪人(孫峻)の刃に倒れることはなかった。世の人は諸葛恪のとっさの受け答えに感心し、呂岱を嘲笑したが、目先のことに飛びついただけである」と評した。
これより先に「諸葛恪よ、蘆の単衣に割竹の帯を着け、どこであなたを探そう。成子閤で」という歌が流行った。
成子閤は石子岡に通じ、建業の南に長い丘陵があり、そこが石子岡で死者が葬られていた。
諸葛恪の死体は蘆のむしろで巻かれ、腰を割竹で結わえられ、石子岡に投棄された。
「呉録」に曰く、享年51。
次男の諸葛竦(しょかつしょう)と三男の諸葛建(しょかつけん)は、諸葛恪が粛清されると母を連れ逃亡したが、ともに斬られた。甥の張震(ちょうしん)、メモを渡した朱恩も一族皆殺しとなった。
もともと諸葛竦は何度も父を諌め、それが容れられないためやがて災いを受けるのではと危惧していた。(『諸葛恪伝』)
「会稽典録」に曰く。
徐平(じょへい)はかつて諸葛恪に請われて属官となり、山越の討伐に貢献したが内心では酷く軽んじられており、呉の実権を握るとますます粗末に扱われた。
諸葛恪が誅殺され、諸葛建は逃亡したが、徐平の私兵に捕らえられた。徐平は意趣返しせず解放してやったが、別の兵に捕らえられ結局は殺された。(『虞翻伝』)
孫奮は諸葛恪が誅殺されると、政変に乗じて首都の建業へ進出しようとした。謝慈(しゃじ)に止められると殺害してしまい、とうとう地位を剥奪され庶民に落とされ、身柄を章安県に移された。(『孫奮伝』)
孫峻は以前に諸葛恪が陳遷に言ったことを蒸し返し、孫和から王位を剥奪し、さらに自害を命じた。張氏も殉死した。(『孫和伝』)
聶友は諸葛恪が合肥新城から撤退したのを聞くと、滕胤に「人の勢いが盛んな時は山河とて根こそぎにするが、いったん衰えると人の心はバラバラになります。それを思うと悲しみと嘆息を禁じえません」と言っていた。
孫峻は警戒し、鬱林太守に左遷しようと企てたが、聶友は病にかかり悶々としたまま没した。(『諸葛恪伝』)
「魏略」に曰く。
張緝(ちょうしゅう)は諸葛恪が合肥新城で敗れる前に「威光が主君を脅かし、功績が国中を覆っている。死なずに済まない」とやがて処刑されることを予見した。
司馬師は「諸葛恪はそこらにいくらでもいる男だ。張緝ははるか遠くから諸葛恪について論じ、処刑を見抜いた。彼の智恵は諸葛恪より優れている」と称えた。(『斉王紀』)
鄧艾は「諸葛恪は国政を掌握したばかりなのに、君主を無視し基礎を固めず民をこき使い、5桁の死者を出し災難を抱えて帰国しました。伍子胥・楽毅ら古の賢者すら君主が死ぬと失脚したのに、まして諸葛恪は彼らに及ばず、災禍への配慮すらしていません。滅亡は日ならず訪れるでしょう」と言い的中させた。
(※陳寿は「はるか諸葛恪の失敗を予知しながら、目の前の自分の危機が見えなかった。これぞ目論である」と評した)(『鄧艾伝』)
張嶷(ちょうぎょく)は諸葛瞻(しょかつせん)に「周公旦や霍光ですら流言を受けたが、明君のおかげでかろうじて災難を免れました。諸葛恪は幼君のもとを離れ敵地に入りますが、長期的な計算があるとは思えません。(従弟の)あなたが忠告しなければ、いったい誰が言葉を尽くし忠告するでしょう。軍を引き上げ内政を固め数年後に蜀・呉が連携して攻めても遅くありません」と言っていた。(『張嶷伝』)
臧均(ぞうきん)は「諸葛恪が権勢を振るったため誅殺されたのは当然ですが、父子3つの首が晒され、人々は刑罰の重さを思い知り、今後は逆に心を痛めるでしょう。葬ることを許し、国家の恩が誅殺された者の遺骸にすら及ぶことを示してください」と願い出た。
孫峻・孫亮は許可し、諸葛恪の旧臣が石子岡で遺骸を探し出した。
「江表伝」に曰く。
孫休の代に諸葛恪の功績を記した碑を建てるべきだという朝臣もいたが、盛沖(せいちゅう)は反対し、孫休も「夏の盛りに軍を出し、兵を失ったが尺寸の土地も手に入らなかった。才能があったとは言えない。幼主を輔弼すべき任務を授かりながら、こわっぱ(孫峻)の手に倒れた。智もなかった。盛沖の言う通りだ」と言い、沙汰止みとなった。(『諸葛恪伝』)
滕胤は娘が諸葛竦に嫁いでいたため、辞職を申し出たが、孫峻は故事を引き、思い留まらせた。
滕胤と孫峻は内心ではしっくり行っていなかったが、表面上は互いを立てるように振る舞い、協力して事にあたった。(『滕胤伝』)
次弟の諸葛喬(しょかつきょう)は諸葛恪とともに評判高く、論者は才能は諸葛恪が、性質は諸葛喬が勝ると評した。諸葛喬はまだ諸葛亮に男子がなかったため蜀へ行き養子となったが、228年に没した。
諸葛恪が誅殺され家が断絶すると、この時には諸葛亮の実子の諸葛瞻がいたため、諸葛喬の子の諸葛樊(しょかつはん)が呉へ帰り、諸葛瑾の後を継いだ。(『諸葛亮伝』)
孫峻はもともと名声がなかったが、諸葛恪を誅殺し実権を奪ったことで増長して多くの人を処刑したため、さらに非難された。(『孫峻伝』)
258年、孫峻に続き実権を握った孫綝(そんちん)を誅殺した孫休は、「思うに諸葛恪・滕胤・呂拠は何の罪もないのに孫峻・孫綝によって殺された。心の痛むことだ。速やかに改葬して祭祀を行い、連座して配流された者を赦免せよ」と命じた。(『孫綝伝』)
陳寿は「才気にあふれ大きな見通しをもって仕事のできる人物で、広く称賛を受けていた。しかし驕慢かつ狭量であり、たとえ周公旦でもそんな欠点があれば長所が台無しになってしまうのに、まして諸葛恪ごときではなおさらである。己を誇って他人を踏みつけにすれば、身を滅ぼさずに済むはずがない。もし彼が陸遜や諸葛融に送った手紙で述べたことを(口だけではなく)実行していたら、後悔することも災禍を被ることもなかったのである」と評した。
「演義」では合肥新城の戦いで額に矢を受けて負傷。敗戦を恥じたものの責任逃れを始めたため誅殺された。
孫権亡き後の呉は諸葛恪、孫峻、孫綝と当主以外の独裁者が相次いで国力を傾け、そして四代皇帝・孫晧が滅亡へと追いやるのだった。
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