諸葛瑾  諸葛亮の人格者の兄



諸葛瑾(しょかつきん)字は子瑜(しゆ)
徐州琅邪郡陽都県の人(174~241)

呉の臣。
諸葛亮・諸葛均(しょかつきん)の兄。

「呉書」に曰く。
若い頃に都へ出て学問を修めた。母が没すると心を尽くして喪に服し、継母に慎み深く仕え、人の子たる道をよく尽くした。

孫策が急逝した200年頃、戦乱を避けて江東へ移住した。
孫策の後を継いだばかりの孫権の姉婿である弘咨(こうし)に高く評価され、孫権へ推挙された。
魯粛らとともに賓客として遇され、長史となり、中司馬に転じた。(『諸葛瑾伝』)

「呉書」に曰く。
諸葛瑾・歩騭(ほしつ)・厳畯(げんしゅん)は徐州出身で、ともに呉郡へ移った。三人とも隠れなき名声を持ち一代の英俊とされた。(『歩騭伝』)

208年、赤壁の戦いを前に魯粛は孫権の使者として劉備と同盟を結び、諸葛亮が劉備に仕えていたため「私は諸葛瑾の友人です」と自己紹介し、諸葛亮とも親しくなった。(『魯粛伝』)

215年、蜀に使者として赴いた。弟の諸葛亮と公の席で顔を合わせることはあったが、私的には会わなかった。(『諸葛瑾伝』)

諸葛瑾は劉備が益州を制圧したため荊州を返還するよう求めたが、劉備は「涼州を制圧したら返す」と答えた。
孫権は激怒し、呂蒙に命じて荊州南部を制圧させた。魏が漢中へ侵攻したこともあり、劉備は和睦を求め、孫権も諸葛瑾を送ってそれに応じた。(『呉主伝』)

孫権と話し、諫言する時には決して強い言葉を用いず、思いをわずかに態度に表し、主張のおおよそを述べるに留めた。もし孫権がすぐには受け入れなければ話を他へ移し、やがてまた他事にかこつけて意見を述べ、例え話で同意を求めたため、孫権もよく心を変え聞き入れた。

孫権はある時、朱治(しゅち)に強い不満を持った。しかしかつて孝廉に推挙された恩があり、重臣として平素から礼を尽くしていたため詰問するのもはばかられ、怒りを内に秘めた。
諸葛瑾はそれを察すると、正面から言うのではなく手紙を書き、その中で物事の道理を語るのにかこつけて朱治の非を責め、さらに朱治に成り代わって弁解した。
孫権は喜び、「顔回(孔子の弟子)は人々に親密な関係をもたらしたと聞くが、あなたが今やったようなことをしたのだろうか」と笑った。

孫権が殷模(いんも)を譴責し処刑しそうになった時、群臣の多くが取りなしたが孫権はますます腹を立て言い争いをした。諸葛瑾はただ一人黙っていたため、孫権が問いただすと「私は殷模と同じく郷里が壊滅し、生物も根絶やしにされたため(※曹操の徐州虐殺か)墓を捨て一族を引き連れ(孫権の)教化を慕いやって参り、ご恩愛をいただきました。その恩返しをさせる立場なのに、逆に殷模にはご恩に背く真似をさせてしまい、謝罪の言葉すらありません」と答えた。
孫権は悲しみに打たれ「特にあなたに免じて赦そう」と言った。(『諸葛瑾伝』)

孫権の従弟の孫皎(そんこう)とは特に厚い交わりを結んだ。
孫皎が甘寧と争うと、孫権はそれをたしなめる手紙を送るとともに、諸葛瑾に口頭でも注意させた。(『孫静伝』)

張承(ちょうしょう)は諸葛瑾・歩騭・厳畯と親しかった。
妻を亡くすと父の張昭(ちょうしょう)は諸葛瑾の娘を後妻にもらってやろうとしたが、諸葛瑾とは友人のため渋った。孫権はそれを聞くと口添えしてやり、結局めとった。(※諸葛瑾は張承より4歳上なだけである)(『張昭伝』)

219年、関羽の討伐に功績あり、宣城侯に封じられ、綏南将軍となった。(没した)呂蒙に代わり南郡太守となり、公安に家を置いた。
劉備が関羽の報復に向かうと(※夷陵の戦い)孫権は講和を望み諸葛瑾に手紙を送らせ「関羽の仇討ちという小事にかまけ大局を忘れていませんか。あなた(劉備)と関羽の関係は孫策との親しさに勝るでしょうか。荊州は中原より小さく制圧しても利益は少なく、呉は魏よりも先に戦う相手ではありません」となだめさせたが聞き入れられなかった。
(※裴松之は「中原に蜀の威声を届けるという関羽の軍事行動は、成否はともかく適切な計略だった。ところが孫権は邪悪な意図で曹操を助け、漢王室を守るという大義名分を失った。討伐されるべきは孫権である。諸葛瑾は大義を説いたが、劉備と関羽は一人の人間のようなもので、手足を無理やりもぎ取られた憤りと悲痛が、そんな言葉で止められるものだろうか。こんな手紙を本文に載せたのは全くの無駄である」と批判する)

当時、諸葛瑾が劉備と内通していると言う者がいたが、孫権は「私は諸葛瑾と死生を越えて心を変えないという誓いを結んでいる。諸葛瑾が決して私を裏切らないのは、私が諸葛瑾を決して裏切らないのと同じだ」と退けた。

「江表伝」に曰く。
諸葛瑾が讒言された時、陸遜は孫権の口からそれを否定するとともに、諸葛瑾にも言葉を掛け安心させてやって欲しいと上表した。
孫権は「諸葛瑾は長年に渡り仕えてくれ、肉親同様で深く互いを理解し合っている。彼は道に非ざれば行わず、義に非ざれば言わない人物だ。諸葛亮が使者として訪れた時、私は二人は兄弟で、兄に弟が従うのは道理であり、引き止めるべきだ。私から劉備に了解を得れば反対もできまい、と言った。だが諸葛瑾は、弟はひとたび君臣となれば二心を抱く道理がありません。弟が呉に仕えないのは、私が蜀へ行かないのと同じです、と断った。この言葉は天地神明を貫くもので、讒言など話にならない。
私はこれまでにも同様のでたらめを見るたびに、その文章を諸葛瑾に送ってやり、彼からは君臣の道理を論じる返事があった。私と彼の関係は心を結び合った交わりで、他人の言葉に邪魔などできはしない。
あなた(陸遜)の厚い気持ちを知り、上表はそのまま諸葛瑾に送り読んでもらった」と答えた。

222年、左将軍に上り、公安督となり、仮節を授かり宛陵侯に進んだ。

夷陵の戦いの後、魏は呉へ侵攻し、朱然(しゅぜん)の守る江陵が大軍で包囲された。(『諸葛瑾伝』)

夏侯尚(かこうしょう)・曹真(そうしん)は江陵を包囲し、諸葛瑾は長江を挟んで対峙した。夏侯尚は夜中に密かに長江を渡ると、攻撃しつつ火を掛けて撃破した。疫病が流行したため包囲を解き撤退した。(『夏侯尚伝』)

軍を率いる諸葛瑾・楊粲(ようさん)は対策に悩み、潘璋(はんしょう)がイカダを作って燃やし、魏軍の築いた浮き橋へ突入させる策を立てたが、それを察知した夏侯尚は撤退した。(『潘璋伝』)

「呉録」に曰く。
援軍の諸葛瑾は鷹揚な性格で物事の道筋を考え、計画を十分に立てた上で動くため臨機応変な策を採らず、孫権は不満だったが、結局は救援に成功した。華々しい勲功は無かったが兵を損なわずに守り切ったことを評価された。

交州へ配流された虞翻(ぐほん)を赦免するよう何度も取りなしたが、虞翻は親しい者へ「諸葛殿は仁に厚く万物の生命を大切にされるから、その弁護のおかげで私は一命を取りとめた。しかし悪事を重ねて罪は重く、不興を買っており、いくら諸葛殿が援助しても、私は徳が無いし望みも無いでしょう」と述べた。

堂々とした風貌と思慮深さを備え、当時の人々はみな幅広く曲がったところのない度量に敬服した。孫権も尊重し、重要な事柄には常に意見を求めた。
ある時、諸葛瑾にのみ孫権は「陸遜が言うには、魏は曹丕が没したから動揺し瓦解するだろうと思っていたが、案に相違し全く揺るがず、それどころか善政を敷き曹操の時代よりも堅固になった、とのことだ。だが私はそうは思わない。曹操の配下をまとめる手腕は古今にも稀なもので、曹丕はその万分の一にも及ばない。後を継いだ曹叡はなおさらだ。曹叡はそれを知っているから民衆の歓心を買うために統治を緩めただけだ。重臣の陳羣(ちんぐん)や曹真は曹操・曹丕に頭を押さえつけられていたが、曹叡は幼く抑えが効かない。彼らは派閥を作って争いを始め、混乱と滅亡へと至るだろう。陸遜は物事の判断に長じているが、こればかりは判断を誤ったのだ」と評した。
(※裴松之は「曹叡は聡明で自ら政治を行い、孫権の読みは外れた。しかしこれを史書に載せたのは、幼君が立てば混乱と滅亡を招くのは道理であり、記録すべき言葉だと考えたからだろう。また次の曹芳の代にまさしく的中しており、曹芳の時代への批判をこのような形で表したものだろうか」と指摘する)(『諸葛瑾伝』)

歩騭は孫登(そんとう)の求めに応じ、荊州の代表的人物として諸葛瑾・陸遜・朱然・潘濬(はんしゅん)ら11人の名を挙げた。(『孫登伝』)

226年、諸葛瑾・張覇(ちょうは)が襄陽を攻めたが司馬懿・徐晃に敗れ、張覇は戦死した。(『明帝紀』・『徐晃伝』)

同226年、陸遜は法改正を求めつつ、「佞臣がはびこり真心の籠もった意見を申し上げづらい」と上言した。
孫権はそれに応じ、陸遜・諸葛瑾へ改正した法令を見せて改訂させたが、「私は身分にとらわれず採用すべき意見を採り上げるし、佞臣を見分けられる」と答えた。(『呉主伝』)

228年、子のない諸葛亮の要請に応じ、養子に出していた次男の諸葛喬(しょかつきょう)が25歳で没した。(『諸葛亮伝』)

229年、孫権が帝位につくと大将軍・左都護となり、豫州牧を務めた。

「呉書」に曰く。
諸葛瑾が大将軍になった時、諸葛恪(しょかつかく)・諸葛融(しょかつゆう)ら二人の子も高位にあり、蜀では諸葛亮が丞相を務め、魏では族弟の諸葛誕も名声を馳せていた。三国で一門が代表的な地位にあることを人々は称えた。
諸葛瑾は才略こそ諸葛亮に及ばなかったが、徳にかなった行動は極めて純粋だった。妻に先立たれると再婚せず、寵愛する妾の子さえ取り立てなかった。全て情誼にかない慎み深かった。(『諸葛瑾伝』)

蜀は即位を祝う使者として陳震(ちんしん)を送り、諸葛亮は諸葛瑾への手紙で陳震を称えた。(『陳震伝』)

231年、孫権の甥の孫松(そんしょう)が没すると、諸葛亮は諸葛瑾へ手紙を送り、「諸葛喬から孫松殿の人となりを聞いて親しく感じていたし、彼からいただいた贈り物を見ると涙を止められません」と述べた。(『孫翊伝』)

234年、呉は諸葛亮の北伐に連動し、陸遜・諸葛瑾を夏口に駐屯させるなど三方から魏へ侵攻したが、孫権の意に反して曹叡が自ら迎撃に出て来たため撤退した。(『呉主伝』)

長男の諸葛恪は名声高く、孫権にも高く評価されていたが、諸葛瑾は常々彼を嫌い、家の安全を保てぬ子だと心配していた。(『諸葛瑾伝』)

張承は幼くして名声高かった諸葛恪を「諸葛家を滅ぼすのは諸葛恪だ」と評していた。(『張昭伝』)

「江表伝」に曰く。
孫権は引見した諸葛恪の才を高く評価し、諸葛瑾へ「藍田に玉が生じる(立派な家柄は立派な人物を輩出する)とは嘘ではない」と言った。

諸葛瑾は面長でロバに似ていた。ある時、孫権が群臣の前にロバを連れてくると、顔に「諸葛瑾」と書かれた札を付けた。諸葛恪は「2文字付けさせてください」と願い出て、筆を取ると「之驢(のロバ)」と書き加えた。一同は大笑いし、ロバは諸葛瑾に下賜された。

孫権が「あなたの父と叔父の諸葛亮はどちらが賢いか」と尋ねると、諸葛恪は「父です。父は仕えるべき主君を知っていますが、叔父は知りません」と答え、孫権は大笑いした。(『諸葛恪伝』)

父・兄は質素で軍中でもきらびやかな衣装を着なかったが、諸葛融だけが綺羅を尽くした。(『諸葛瑾伝』)

234年、丹陽郡は強兵の産地として知られていたが、山越に支配されており、周辺の従順な民しか徴兵できていなかったため、諸葛恪は3年で平定し4万の兵を獲得すると豪語した。
人々はみな無理だと考え、諸葛瑾も失敗すると思い「恪の奴は我が家を大いに盛んにする代わりに、一族を根絶やしにしてしまうだろう」と嘆息した。
しかし諸葛恪は言葉通りに成功させ、列侯された。(『諸葛恪伝』)

236年、孫権は自ら合肥を攻め、陸遜・諸葛瑾は襄陽を攻めた。
陸遜は韓扁(かんへん)を孫権のもとへ送り戦況報告させようとしたが、魏軍に捕らえられた。諸葛瑾は「陛下(孫権)は兵を引き、我が軍の実情も知られてしまった。漢水も干上がりつつあり撤退すべきだ」と勧めたが、陸遜は返事せず、平素と変わらない様子だった。諸葛瑾は「陸遜は智略があるから何か理由があるのだろう」と考え、自ら足を運び面会すると、陸遜は「魏軍は陛下が撤退したから我々に集中している。退却は困難で、ひとまず落ち着いた様子を見せて兵を安心させ、巧妙な策を用意しなければならない。動揺を見せれば魏軍が襲いかかってくる」と言った。
そして二人で策を練ると、諸葛瑾に船を任せ陸遜は全軍で襄陽を攻めた。魏軍は陸遜の恐ろしさを知っていたため襄陽へ引き返した。諸葛瑾はすかさず出航し、陸遜は兵を返して船に乗り込み無事に撤退した。(『陸遜伝』)

239年、人事を壟断した呂壱(りょいつ)を誅殺すると、孫権は重臣に陳謝するとともに意見を求めたが、諸葛瑾・歩騭・朱然・呂岱(りょたい)は政治はわからないから陸遜・潘濬に聞くよう言い、陸遜・潘濬も答えづらそうな様子を見せた。信頼を失ったと孫権は悲しむとともに、忌憚ない意見を述べるよう責めた。(『呉主伝』)

諸葛瑾はすぐさま具体的な例を挙げて意見し、てらいのない道理の通ったものだった。(『諸葛瑾伝』)

同239年、諸葛瑾・歩騭は連名で、周瑜の子で罪を犯し配流されていた周胤(しゅういん)を赦免するよう上表した。孫権は「すぐには認められないが二人が間に立って指導してくれるなら心配ない」と言い、続けて朱然・全琮(ぜんそう)も同様に上陳すると認めたが、周胤はちょうど病没した。(『周瑜伝』)

「晋紀」に曰く。
241年、呉は三方から魏へ侵攻し、諸葛瑾・歩騭は柤中を攻めた。他2方面の軍が撤退したため引き上げた。(『斉王紀』)

「漢晋春秋」に曰く。
殷礼(いんれい)は朱然・諸葛瑾に襄陽を攻めさせるなど多方面から魏を攻める策を立てたが、孫権は採用しなかった。(『呉主伝』)

同241年、孫登は遺言で「諸葛瑾らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)

同241年に没した。享年68。
白木の(粗末な)棺にその時の服で収め、葬儀は簡略にするよう遺言した。
諸葛恪は既に自らの功績で列侯されていたため、下の子の諸葛融が爵位と兵を継ぎ、公安に駐屯した。(『諸葛瑾伝』)

朱然が諸葛融や、歩騭の子で兵を受け継いだ歩協(ほきょう)の軍をまとめた。(『朱然伝』)

孫権の死後に諸葛恪は実権を握って増長し、諸葛融とともに誅殺された。(『諸葛瑾伝』)

子孫が絶えてしまい、蜀にいた諸葛喬の子の諸葛樊(しょかつはん)は、既に諸葛亮に実子(諸葛瞻)がいたため呉へ帰り、諸葛瑾の後を継いだ。(『諸葛亮伝』)

「傅子」に曰く。
孫権は陸遜・諸葛瑾・歩騭を股肱とし適切な任務と職務を与え、敵の隙に乗じみだりに軍を動かさなかったため、江南の地は安定した。(『呉主伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「諸葛瑾・張承・歩騭は教養高く名声によって国家に栄誉をもたらした。孫権は諸葛瑾の諌めを正しいと受け止めた」と記した。(『孫晧伝』)

周昭(しゅうしょう)は「優れた人物は4つのことを避ける。意見を頑固に主張すること、名誉権勢を争うこと、党派を重視すること、性急に事を運ぶことの4つだ。現代でそれを実践しずば抜けているのは顧邵(こしょう)・諸葛瑾・歩騭・厳畯・張承である」と述べ「厳畯・張承は学問を修めたが、それは利益を求めるためではなかった。諸葛瑾・歩騭・厳畯は無位無官の頃からの親友で、人々は好んで三人に優劣を付けた。はじめは厳畯>歩騭>諸葛瑾と評価したが、昇進につれ序列は逆となった。だがこれは凡人の浅薄な評価に過ぎず、三人の友情は欠けることなく昔のままだった。諸葛瑾・歩騭は富貴を極めたが、厳畯はそれを求めず、諸葛瑾・歩騭も無理に厳畯を引き立てようとせず友情を全うした」と評した。
さらに「張承は諸葛瑾・歩騭・厳畯に名声は次ぎ、諸葛瑾・歩騭と同様に軍事に携わった。その政治手腕を見て功績を比較すれば、優劣の差も爵位の高低もある。だが張承は立場を十分に心得て、きっぱりした態度で自らのやり方を曖昧にせず、私欲を持たず、事に当たれば調子に乗ってやりすぎることはなかった。朝廷では常に礼に従い、何はばかること無く直言し、全ての行動が忠の心で貫かれていた」と絶賛した。(『歩騭伝』)

陳寿は「諸葛瑾・歩騭はともに人を受け入れる器量と模範となる行動とによって、当世で有能な人物だと見なされた。周昭の論は彼らを見事に称賛している」と評した。

「演義」でも主役格の諸葛亮の兄だけあって出番は多いが、さほど活躍は見られない。史実と同様に諸葛恪がいずれ家を滅ぼすことを予見していた。