諸葛亮 英雄ここにあり

諸葛亮(しょかつりょう)字は孔明(こうめい)
徐州琅邪郡陽都県の人(181~234)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
蜀の臣。
諸葛瑾(しょかつきん)の弟。
幼くして父の諸葛珪(しょかつけい)を亡くし、弟の諸葛均(しょかつきん)とともに叔父の諸葛玄(しょかつげん)を頼った。
諸葛玄は袁術に豫章太守に任命されたが、朝廷は朱皓(しゅこう)と交代させたため、旧知の荊州牧の劉表(りゅうひょう)に身を寄せた。
諸葛玄も没すると、諸葛亮は梁父吟(※隠者の歌)を歌いながら農耕に励んだ。
8尺の長身で自らを管仲・楽毅になぞらえたが、崔州平(さいしゅうへい)と徐庶(じょしょ)だけがそれを認めていた。
劉表の客将の劉備と会見した徐庶は意気投合し、諸葛亮を臥龍(寝ている龍)だと紹介した。連れてくるよう言われたが徐庶は「行けば会えますが、無理に連れてくることはできません。将軍(劉備)が来訪されると良いでしょう」と助言した。
劉備は三度目の訪問でやっと会え(※三顧の礼)、「漢王朝を復興させ天下に大義を浸透させるには力不足だが、志を捨てきれない。どうすれば良いか」と尋ねた。
諸葛亮は「袁紹より名声も兵も少なかった曹操が勝ったのは、天が与えた時節だけではなく人間の計略によるものです。曹操は百万の兵と天子を擁し、対等に戦える相手ではありません。江東の孫権は三代に渡る支配で民はなつき人材を集め、これは味方とすべき相手です。ここ荊州は四方に通じる要衝ですが、領主(劉表)はとても保持できません。これこそ天があなたに与えたものです。そして益州は険阻かつ肥沃で、高祖(劉邦)が帝業を始めた地です。益州を治める劉璋(りゅうしょう)も暗愚で、智能ある人士は明君を迎えたいと願っています。あなたは皇帝の末裔で信義が天下に聞こえ、英雄(関羽・張飛)を掌握し、賢者を渇望しています。もし荊州・益州を支配し、西と南の異民族をなつけ、孫権と同盟すれば、天下に変事あらば荊州と益州から北上し、万民に歓迎され、覇業を成し漢王朝は復興するでしょう」と答えた。(※隆中対・天下三分の計)
劉備は大いに喜び、諸葛亮と日に日に親密になった。古参の関羽・張飛は不機嫌だったが、劉備に「私に孔明が必要なのは魚に水が必要なのと同じだ。二度と文句を言わないで欲しい」となだめられ、何も言わなくなった。(※水魚の交わり)
劉表は末子の劉琮(りゅうそう)を寵愛し、長子の劉琦(りゅうき)は疎んじられ(危険を感じ)ていた。
劉琦は諸葛亮の才能を極めて高く買っていたため何度も相談しようとしたがいつも断られた。劉琦はそこで宴会にかこつけて高殿に招き、ハシゴを外して降りられないようにし、「ここは天地から離され、あなたの言葉は私の耳に入るだけです」と懇願した。諸葛亮は「あなたは申生が国内に留まったため危険にさらされ、重耳が国外に出て安全だった故事を御存知ではないか」とだけ言った。
劉琦は得心し、戦死した黄祖(こうそ)の後任として江夏太守に赴任し、難を逃れた。(※なぜこの話が後世に伝わったのだろう)
208年、劉表が急逝し、後を継いだ劉琮は曹操に降伏した。劉備は南へ逃げたが曹操に追撃され、徐庶の母が捕虜となった。徐庶は「あなたと覇業を行おうとこの一寸四方の場所(心臓)で思っていましたが、母を失い一寸四方は混乱し、(今の私では)事態に対処できません。ここでお別れです」と言い、曹操に降伏した。(『諸葛亮伝』)
諸葛亮は「今なら劉琮を攻めれば荊州を制圧できる」と勧めたが、劉備は「それは忍びない」と言い、劉琮を呼んだ(弔辞を述べようとした?)が恐れて現れなかった。劉琮の側近や荊州の民の多くが劉備に帰順した。(『先主伝』)
魯粛は劉備に孫権と同盟するよう勧め、諸葛亮に「私は諸葛瑾の友人です」と名乗り親しくなった。(『魯粛伝』)
諸葛亮は孫権との同盟を進言し、自ら説得に赴き「もし曹操に対抗できないとお考えなら、すぐに服従すべきです。服従する素振りをしながら引き伸ばしていたら、災禍が訪れます」と言った。
孫権が「それならなぜ劉備は降伏しないのか」と聞くと、諸葛亮は「劉備は王室の後裔で、英才は世に卓絶し、水が海へ流れるように多くの人々に敬慕されています。事が(漢王朝の復興)成就しなければそれは天命であり、どうして曹操に降伏などできましょう」と答えた。
孫権はむっとし「私は呉の土地と10万の兵を持ち他人に左右されない。しかし敗れたばかりの劉備がまだ戦えるのか」と聞き、諸葛亮は「劉備はいまだ1万の兵を持ち、味方する劉琦も1万の兵を持っています。しかも曹操軍は遠征で疲れ果て、水戦にも不慣れで、荊州の民も服従していません。あなたが劉備と力を合わせれば間違いなく勝てます。そうなれば曹操・孫権・劉備は三者鼎立できます。事の成否が決するのはたった今です」と言った。
孫権は大いに喜び、周瑜らに3万の兵を率いさせ、劉備とともに赤壁で曹操軍を撃破した。
諸葛亮は軍師中郎将に任じられ、零陵・桂陽・長沙の3郡を治めた。(『諸葛亮伝』)
龐統は県令に任じられたが治績が上がらず罷免された。魯粛は劉備に「龐統は県を治めるようなケチな才能ではなく、州郡を治めさせ初めて駿足を伸ばします」と忠告してやり、諸葛亮も取りなした。
劉備は引見すると龐統を大いに評価し、諸葛亮に次ぐ親愛ぶりを示し、ともに軍師中郎将に任じた。益州討伐では諸葛亮が荊州の抑えに残り、龐統が劉備に付き従った。(『龐統伝』)
211年、漢中の張魯(ちょうろ)に対抗するため劉璋は劉備を益州に招いた。
諸葛亮ははじめ関羽とともに荊州に残ったが、劉備が侵攻を開始すると張飛・趙雲とともに長江をさかのぼり各地を攻略し、劉備と成都で合流した。(『諸葛亮伝』)
馬良(ばりょう)は出陣前の諸葛亮に手紙を送り劉備を称賛した。(※その中で諸葛亮を「尊兄」と呼んでおり、裴松之は「馬良と諸葛亮は義兄弟の契りを結んだか、親戚なのだろう」と推測する)(『馬良伝』)
出陣前に孫権の使者に人材を尋ねられた諸葛亮は龐統と廖立(りょうりつ)の名を挙げた。(『廖立伝』)
214年、益州を制圧すると軍師将軍・左将軍府(※当時の劉備の官位は左将軍)となり、劉備が遠征する際には兵站を担った。(『諸葛亮伝』)
益州を制圧すると諸葛亮・法正(ほうせい)・関羽・張飛に同等の恩賞が贈られた。(『張飛伝』)
諸葛亮・法正・劉巴(りゅうは)・李厳(りげん)・伊籍(いせき)が「蜀科(法律)」を制定した。(『伊籍伝』)
劉備は戦死した龐統を悼み、その父を栄転させ、諸葛亮が自ら辞令を授けた。(『龐統伝』)
法正は地位を利用して昔のわずかな恩恵に報い、わずかな恨みに報復したためある人が諸葛亮に苦言を呈したが、劉備が法正を信頼していたため「主君(劉備)は曹操・孫権・孫夫人(孫尚香)に怯え進退もままならぬ時に、法正のおかげで空高く舞い上がり制約を免れたのだ。どうして法正に思いのままに振る舞うなと言えようか」と諸葛亮は却下した。
諸葛亮と法正は全く性格が異なったが、互いを認め合い、諸葛亮はその智略を高く買っていた。(『法正伝』)
関羽は諸葛亮に手紙を送り、傘下に入った馬超は誰に匹敵するか尋ねた。諸葛亮は関羽の負けず嫌いな性格を熟知していたため「一代の傑物で張飛と先を争うが、髯殿(関羽)の比類なき傑出ぶりには及ばない」と答えた。関羽は大喜びし、手紙を来客に見せびらかした。
子の関興(かんこう)は幼い頃から評判高く、諸葛亮にも高評価された。(『関羽伝』)
許靖(きょせい)は70歳を越えても後進を導き、議論を好んだため諸葛亮らみなに敬意を表された。(『許靖伝』)
宿老の麋竺(びじく)の地位は安漢将軍に過ぎなかったが、席次は諸葛亮より上だった。(『麋竺伝』)
宿老の簡雍(かんよう)は傲慢・無頓着で、劉備の前でも足を投げ出して脇息にもたれ、だらしなく振る舞った。諸葛亮以下が相手の時には長椅子を占領して寝そべったまま話し、決して意見を曲げなかった。(『簡雍伝』)
馬良は呉と同盟を結ぶ使者の役を務めるにあたり、諸葛亮に紹介してくれるよう頼んだが、諸葛亮は自分で紹介するよう勧めた。孫権は敬意をもって待遇した。(『馬良伝』)
彭羕(ほうよう)は厚遇を鼻にかけて増長した。諸葛亮は表向きはもてなしたが内心では良く思わず、劉備に内密で彭羕は野心高く従属させるのは難しいと述べた。劉備は諸葛亮を信頼しており、自らも行状を観察した結果、彭羕を左遷させた。
彭羕は馬超を訪ね「君は諸葛亮や法正と並んで活躍すべきと考えていたが、小さな郡の太守では希望に外れているだろうな」と聞かれると「あの老いぼれ(劉備)は耄碌して話にならん」と言い、馬超に反乱への加担を持ちかけた。
馬超はそれを上奏し、彭羕は投獄された。
獄中から手紙で諸葛亮に取りなしを頼んだが処刑された。(『彭羕伝』)
蔣琬(しょうえん)は広都県長の時、たまたま劉備が訪れると仕事を放置し泥酔していた。劉備は激怒し処罰しようとしたが、敬愛する軍師将軍の諸葛亮に「蔣琬は国家を背負う大器で、県を治めるような小人物ではありません。民の安定を根本とし、外見を気にしないのです。それをご推察ください」と取りなされ罷免に留めた。(『蔣琬伝』)
楊戯(ようぎ)は若い頃に程祁(ていき)らと並び称され、楊戯はいつも程祁を筆頭と推していたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。(『楊戯伝』)
215年、魏が漢中を制圧すると劉曄(りゅうよう)は勢いに乗って蜀に攻め込むべきだと主張し、理由として「諸葛亮は政治に明るい上に丞相となった」と時間を置けば国を安定させてしまうだろうと危惧した。(『劉曄伝』)
諸葛瑾は使者として蜀に赴いた。弟の諸葛亮と公の席で顔を合わせることはあったが、私的には会わなかった。(『諸葛瑾伝』)
216年、霍峻(かくしゅん)が没すると劉備は大いに哀惜し、遺体を成都に迎え、諸葛亮に詔勅を下し自ら群臣を率いて祭祀を行い、墓の上で宿泊した。人々は名誉と称えた。
子の霍弋(かくよく)も諸葛亮に抜擢され、養子の諸葛喬(しょかつきょう)とともに巡遊したりと信頼された。(『霍峻伝』)
217年、魯粛が没すると諸葛亮も喪に服した。(『魯粛伝』)
漢中を攻める劉備は、兵を徴発して送るよう諸葛亮に命じた。
相談された楊洪(ようこう)は「漢中は益州の喉元で、もし失えば蜀は存在できません。何をためらうことがありましょう」と言った。
蜀郡太守の法正が従軍していたため、楊洪に代行させ、上手く行ったので本任とした。(『楊洪伝』)
219年、漢中王に即位した劉備は定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取った黄忠を後将軍に起用しようとした。
諸葛亮は「黄忠の名声人望はもともと関羽・馬超に及ばないのに急に同列にしたら、戦功を間近で見た馬超・張飛はまだしも関羽は納得しないでしょう」と諌めたが、劉備は自ら関羽に説明すると言いそれを退けた。(『黄忠伝』)
張裕(ちょうゆう)は予知に優れ、「220年に後漢は滅びる。主君(劉備)は益州を手に入れてから9年後、つまり222~223年の間に亡くなるだろう」と予言し、密かにひとに話していた。これが劉備に密告され、逆鱗に触れ処刑を命じられた。
諸葛亮が助命嘆願したが、劉備は「かぐわしい蘭の花も、門に生えれば刈り取らないわけにはいかない」と言い、処刑させた。(『張裕伝』)
220年、関羽が戦死し、劉封(りゅうほう)がそれを救援しなかったことを劉備が責めると、諸葛亮は剛勇な劉封が後の災いになると考え、死罪にするよう進言し認められた。(『劉封伝』)
即位した曹丕が賈詡に蜀・呉のどちらを先に討伐すべきか諮問すると「両国ともに天険の要害で、劉備は優れた才略を持ち、諸葛亮はよく国を治め、孫権は真偽を見抜く見識を持ち、陸遜が軍事情勢を見守っている」と討伐自体に反対された。曹丕は承知せず呉を攻めたが大敗した。(『賈詡伝』)
221年、魏に対抗し帝位につくよう勧められた劉備ははじめ渋ったが、諸葛亮に「曹氏が帝位を簒奪し、天下に主がいません。あなたは後漢王朝の末裔で帝位につくのは当然です。士大夫があなたに従うのは恩賞が目当て(即位しなければ離反するだけ)です」と説得され即位した。
諸葛亮は丞相に任じられ、事務を司り仮節を授かった。張飛が没すると司隷校尉も兼任した。(『諸葛亮伝』)
同年、使持節・丞相として劉禅を太子に、穆夫人(ぼくふじん)を皇后に立てる印綬を授けた。(『後主伝』・『穆皇后伝』)
董和(とうか)は諸葛亮とともに左将軍(劉備)の幕府で働き、親しくした。
没後、丞相となった諸葛亮は部下へ「職務に携わる者は、人々の意見を求めて参考にせよ。もしわずかな不満で人を遠ざけ、自分と違う意見を退ければ、仕事に欠陥を生じる。異なる意見を検討し、適切な施策を行うべきだが、人間は残念ながらそう全てのことには気を配れない。
徐庶(じょしょ)はこうしたことに迷わず、董和(とうか)は職務にあること7年、常に不充分な点があれば何度も検討し、相談にやってきた。徐庶の十分の一の謙虚さと、董和の繰り返し検討する態度をもって国家に忠誠を尽くせば、私も過失を少なくできただろうに」と語った。
さらに諸葛亮は「初めは崔州平(さいしゅうへい)が欠点を指摘してくれた。次に徐庶に何度も教示を受け、董和はいつも言いたいことを遠慮なしに言ってくれた。胡済(こせい)も諫言し間違いを止めてくれた。私は暗愚で全ての意見を受け入れられなかったが、この四人とは終始気が合った。彼らの直言をためらわない態度を証明するものだ」と述べた。董和への追慕はこれほどに大きかった。(『董和伝』)
222年、夷陵の戦いに敗れた劉備は成都を守る諸葛亮に命じ、天を祀らせた。(『先主伝』)
諸葛亮は敗戦を聞くと「法正が健在なら(※220年没)出征を辞めさせたし、たとえ出征しても危難を避けられただろう」と嘆息した。(『法正伝』)
劉巴は荊州を制圧された際に曹操に降ったことを陳謝したが劉備は咎めず、諸葛亮にもたびたび称賛されたため厚遇した。
222年に劉巴は没し、その後に魏の陳羣(ちんぐん)が消息を尋ねる手紙を諸葛亮に送ると、諸葛亮は返書で「劉君」と呼び敬意を表した。(『劉巴伝』)
223年、劉備は永安で重体に陥ると成都から諸葛亮を呼び寄せ後事を託し「君の才能は曹丕の十倍あり、きっと国家を安んじ大業を成し遂げるだろう。後継ぎに補佐すべき才能があれば補佐し、なければ君が国を奪うとよい」と言った。諸葛亮は涙を流し「私は心から股肱として力を尽くし忠誠を捧げます。最後には命を捨てます」と誓った。
劉備は後継ぎの劉禅に「お前は丞相(諸葛亮)とともに働き、父と思って仕えよ」と言い遺して没した。(『諸葛亮伝』)
劉禅に速やかに葬儀を行い、服喪も最低限で済ませるよう上奏した。(『先主伝』)
劉備の側室の甘夫人(かんふじん)の遺体が蜀へ移葬される前に、劉備は没した。諸葛亮は頼恭(らいきょう)らと相談し、皇后に追尊し劉備と合葬するよう上言し許可された。(『甘皇后伝』)
諸葛亮は武郷侯に封じられ、幕府を開き政務を取り仕切った。後に益州牧も兼務した。
政治は大小を問わず全て決裁し、南中が(劉備の死に乗じ)揃って反乱したが、喪中のため討伐せず、呉と関係修復し同盟を結んだ。(『諸葛亮伝』)
諸葛亮は劉備の死を聞けば孫権が異心を抱くと心配したが、どう対策すべきか悩んでいた。
鄧芝(とうし)が呉との同盟を勧めると、「ずっとそれを考えていたが、使者に適任の者が見つからなかった。だが今日見つかった」と言い、鄧芝を抜擢した。(『鄧芝伝』)
鄧芝に、呉の捕虜になっていた張裔(ちょうえい)の身柄を引き取るよう命じた。(『張裔伝』)
呉の使者の厳畯(げんしゅん)を極めて高く評価した。(『厳畯伝』)
孫権は呉の施策について常に陸遜を通じて諸葛亮に伝えさせ、劉禅・諸葛亮へ手紙を送る際には陸遜に自由に改訂させた。(『陸遜伝』)
蔣琬を推挙したが辞退されると、「期待を裏切り推挙を無視し、民を破滅に導いたら誰の同情も受けられないし、辞退した理由もわからなくなる。君は過去の実績をふまえて推挙されたことを示し、妥当かつ重要な選抜だと明らかにすべきだ」と諭し、受け入れさせた。(『蔣琬伝』)
当時、南中で反乱が起こっていたため諸葛亮は自ら南征に赴こうとしたが、王連(おうれん)は「不毛で風土病の蔓延する危険な土地に、一国を担う方が行くべきではない」と敢然と反対した。
諸葛亮は他に南征を任せられる者がおらず、決心を曲げなかったが、王連が口を開くたびに取りやめるよう懇願したため出征できなかった。
結局、南征に出られたのは王連の死後(※225年)だった。(『王連伝』)
廖立は才能・名声ともに諸葛亮に次ぐと自負していたが、閑職に移され鬱憤を溜めた。そして蔣琬らに劉備・関羽すら罵る暴言を吐き、諸葛亮に弾劾され庶民に落とされた。(『廖立伝』)
224年、諸葛亮は益州牧になると秦宓(しんふく)を抜擢した。
呉の張温(ちょうおん)が使者として訪れると、(弁舌に優れた張温に対抗するため)諸葛亮は遅れていた秦宓に早く来るよう催促し、学者だと紹介した。秦宓は見事に張温を論破し敬服させた。(『秦宓伝』)
孫権は張温の出立前、「本来ならあなたは遠方への使者を務める立場ではない。私は今は魏に服従しているが、山越を除くことができれば、すぐさま敵対しようと考えている。それを諸葛亮にわかってもらえないことを心配し、代わりに説明してもらいたいのだ。外交使節は基本方針の命令は受けるが、実際の交渉の一言一句まで指示を受けるものではない。あなたの判断に任せる」と言った。
張温は謙遜しつつも「諸葛亮は計略に通じていますから、必ずや理解してくれるでしょう」と答えた。
立派に使者の任を勤め上げ、蜀の人々に才能を称えられた。(『張温伝』)
以前から徳望の高い者を属官に抜擢した。杜微(とび)は招きを断り続けたが、諸葛亮は耳の聴こえない彼のためにその場で手紙を書き、筆談で懇々と説得した。(『杜微伝』)
225年春、喪が明けると南中を討伐し、秋にはことごとく平定した。軍需物資を得られるようになり国が豊かになったため、魏への出征の準備を進めた。(『諸葛亮伝』)
向朗(しょうろう)は諸葛亮の南征の際に丞相府の仕事を取り仕切った。(『向朗伝』)
南中で反乱した雍闓(ようがい)は周辺に檄文を飛ばし協力を迫ったが、永昌郡の呂凱(りょがい)は「諸葛丞相は傑出した英才で、兆しが現れる前に物事を深く見抜き、孤児(劉禅)を預かり、漢王朝を守り、人々に対して猜疑心を抱かず、功績を採り上げ過失を気に留めない」と思いとどまるよう返した。
雍闓は諸葛亮の討伐軍が到着する前に討たれた。諸葛亮は呂凱の忠節を上表し「永昌郡がかくも誠実で正直だとは思いもしなかった」と激賞して雲南太守に任じ列侯した。(『呂凱伝』)
南中から帰還中、魏から降伏した李鴻(りこう)が「孟達(もうたつ)は魏へ寝返った際に殿(諸葛亮)が激怒し妻子を処刑しようとしたが、劉備が取りなしたという話を聞くと、諸葛亮の判断は筋道だっているから絶対に違うと言っていました。彼は今も殿を思慕しています」と伝えた。
諸葛亮が孟達に連絡を取ろうと言うと、費詩(ひし)は「孟達は劉璋・劉備に相次いで反逆し価値はない」と反対した。諸葛亮は黙って返事せず、結局孟達へ「李鴻から話を聞きあなたの気持ちを知りました。そもそも劉封のせいであなたは寝返らざるを得なかったのです」と連絡した。
孟達は蜀へ出戻ろうとしたが、司馬懿に討たれ、諸葛亮も孟達には誠実さが無いと考え援軍を送らなかった。(『費詩伝』)
南中から帰還した時、官僚らが出迎えたが、諸葛亮はその中で年齢・官位で劣る費禕(ひい)を名指しで馬車に同乗させたため、人々は費禕を見直した。
呉への使者に抜擢して孫権に気に入られ、軍中でも重んじられた。(『費禕伝』)
諸葛亮はともに後事を託された李厳を信頼し後方を任せた。
孟達に寝返りの誘いを掛けた際にも李厳・諸葛亮はともに信頼し合っていることを述べた。(『李厳伝』)
夷陵の戦いで孤立し魏へ降伏した黄権(こうけん)を、司馬懿は諸葛亮への手紙で「彼は快男児です。いつもあなたの話をし賛美しています」と述べた。(『黄権伝』)
227年、北伐軍を率い漢中に駐屯し、出陣に当たり上奏した。(※出師表)(『諸葛亮伝』)
諸葛亮は留守の間、劉禅が年若く是非を判断できないことを危ぶみ、公明正大な董允(とういん)に宮中を任せたいと考え、郭攸之(かくゆうし)・費禕・董允に全て相談するよう言い残した。
後に費禕も従軍し、郭攸之は控え目な性格だったため何もせず、董允が全てを担った。(『董允伝』)
諸葛亮は北伐を前に張裔か向朗のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
人々は楊洪は自身が長史になりたいから張裔の足を引っ張ったのではと勘ぐったが、後に張裔が別の者と諍いを起こした。
非は張裔にあり、諸葛亮は彼へ「益州侵攻の際、あなたが張飛に敗れた時に私は心配して食事の味もしなかった。呉に送還された時も眠れなかった。あなたとは金石のような堅い友情を結んだつもりなのに、私が岑述へ期待を掛けただけのことを、なぜ我慢できないのだ」と苦言を呈した。
人々は楊洪に私心は無いと悟った。
楊洪は後に何祇(かし)を推挙し、何祇もまた太守に上ると人々は諸葛亮が人材の能力を十分に引き出したと起用に感服した。(『楊洪伝』)
諸葛亮は北伐に際し、向朗の甥の向寵(しょうちょう)を「軍事のことは全て彼に諮問してください」と劉禅に上表した。(『向朗伝』)
蔣琬・張裔が留守を預かり丞相府の事務を取り仕切った。(『蔣琬伝』)
魏延は督前部に任じられ丞相司馬・涼州刺史を兼務し活躍した。
だが出陣のたびに1万の兵で強襲を仕掛けることを進言しては却下されたのを恨み、諸葛亮を臆病だと思い、才能が発揮できないと嘆いた。(『魏延伝』)
228年、郿を攻めると喧伝して趙雲・鄧芝を囮にし、曹真(そうしん)を引きつけた隙に祁山を攻めた。陣は整然とし、賞罰は厳格で号令は明白だった。
南安・天水・安定の3郡が蜀に寝返り、関中は激震に見舞われた。曹叡が長安まで出向いて張郃を派遣すると、諸葛亮は馬謖(ばしょく)を先鋒として攻撃させたが、指示に背き大敗した。(※街亭の戦い)
諸葛亮は3郡から1千家を蜀へ移住させ、漢中まで撤退し、馬謖を処刑し、自ら降格を願い出た。右将軍へ降格したが元通りの職務を行うよう命じられた。(『諸葛亮伝』)
諸葛亮は馬謖を高く評価していたが、劉備は「馬謖は言葉が実質よりも先行する。重要な仕事をさせてはいけないと覚えておくように」と遺言していた。だが諸葛亮はそれとは反対に側近に取り立て、昼夜に渡り議論を交わした。
街亭の戦いに際しても諸将は経験豊富な魏延・呉懿(ごい)を推薦したが馬謖が抜擢された。処刑した諸葛亮は涙を流した。(※泣いて馬謖を斬る)(『馬良伝』)
(街亭の戦いで敗れると?)馬謖は逃亡し、友人の向朗はそれを黙認したため諸葛亮に恨まれ罷免された。(『向朗伝』)
張裔は(向朗の後任となり)諸葛亮を「恩賞を与える際は遠くの者を忘れず、刑罰を与える際は身分を問わない。だから賢者も愚者も我を忘れて努力するのだ」と称えた。(『張裔伝』)
牽招(けんしょう)はかねてから鮮卑の軻比能(かひのう)が蜀軍と連携しており、それに備えるよう上奏したが、都の人々は信じなかった。
だが諸葛亮は軻比能と同盟して動き出し、朝廷はあわてて牽招に討伐を命じたが、すでに軻比能は撤退していた。(『牽招伝』)
諸葛亮は魏から降伏した姜維を「李邵(りしょう)・馬良(ばりょう)らも及ばない涼州で最高の人物だ」と絶賛し、張裔・蔣琬らに劉禅へ目通りさせるよう頼んだ。(『姜維伝』)
曹真は諸葛亮は失敗に懲りて次は陳倉を通って出撃するに違いないと読み、郝昭(かくしょう)らに城を修理させた。
同年冬(※「曹真伝」によると翌年春)、陳倉を攻めたが曹真に阻まれ、兵糧が尽きて撤退した。追撃してきた王双(おうそう)を討ち取った。(『曹真伝』・『諸葛亮伝』)
229年、陳式(ちんしょく)に武都・隠平郡を攻めさせた。郭淮が迎撃しようとすると、諸葛亮は建威まで出兵して撤退させ、武都・隠平郡の制圧に成功した。
詔勅により丞相に復帰した。冬に陣営を平地へ移し漢・楽の2城を築いた。(『諸葛亮伝』・『後主伝』)
同年、孫権が帝位につくと蜀は陳震(ちんしん)を慶賀の使者として送り、諸葛亮は諸葛瑾への手紙でその人柄を称えた。(『陳震伝』)
孫権は蜀との盟約の中で「諸葛丞相は徳化と威声を遠方まで輝かせ、国にあっては主君を戴き助け、外にあっては軍の指揮に当たり、その信義は陰陽にも感応し誠実さは天地をも感動させる」と称えた。(『呉主伝』)
230年、司馬懿・張郃・曹真が三方から漢中へ侵攻し、諸葛亮が迎撃に出たが、魏軍は大雨により道を遮断されたため撤退した。(『後主伝』)
諸葛亮は李厳を漢中へ向かわせて魏軍に対処し、子の李豊(りほう)に留守中の職務を司らせた。自らは翌年に出陣する準備をし、李厳に漢中の政務を任せた。(『李厳伝』)
楊儀(ようぎ)は事務処理に長けたため諸葛亮に信頼された。しかし魏延とは不仲で、諸葛亮は二人を高く評価していたため残念がり、どちらかを辞めさせることもできなかった。(『楊儀伝』)
費禕はいつも魏延・楊儀を仲裁してやった。諸葛亮が没するまで二人が決裂せず能力を発揮できたのは費禕のおかげである。(『費禕伝』)
馬忠(ばちゅう)を召して蔣琬の次官とし、留守中の事務を取り仕切らせた。
翌231年には従軍し軍中の事務を取りさばいた。(『馬忠伝』)
蔣琬は北伐の兵站を担い、諸葛亮は「忠義公正を旨とし、私とともに王業を支えるべき人物だ」と常に称え、内密に劉禅へ「私にもしものことがあれば後事は蔣琬に託してください」と伝えていた。(『蔣琬伝』)
231年、祁山を攻め、木牛(輸送車)で兵站を強化したが、兵糧が尽きて撤退した。しかし追撃する名将の張郃を破り討ち取った。(『諸葛亮伝』・『後主伝』)
李厳は長雨により兵站が上手く行かなかったため、諸葛亮を撤退させた。だが責任を逃れるため「どうして撤退したのか」と驚いたふりをし、劉禅には「撤退したふりで魏軍をおびき寄せる策略です」と説明した。
諸葛亮は李厳の手紙を整理して矛盾を明らかにし、弾劾して庶民に落とした。(『李厳伝』)
諸葛亮は「陳震は以前、李厳は腹の中にトゲがあり、郷里の人さえ近づけないと話していると教えてくれた。私はトゲには触れなければいいと思っていたが、まさか蘇秦・張儀(※古代の弁舌家)のような舌先のごまかしが突然行われるとは思わなかった。陳震にも知らせなければ」とぼやいた。(『陳震伝』)
馬忠から劉冑(りゅうちゅう)の討伐に張翼(ちょうよく)が貢献したと聞いて感心し、前軍都督に抜擢した。(『張翼伝』)
孫松(そんしょう)が没すると、諸葛亮は諸葛喬から孫松の話をよく聞いており、諸葛瑾に手紙を送り「立派な器量を持っておられたので心を痛めています。かつて私にしてくれた贈り物を見ると涙が止まりません」と死を悼んだ。(『孫松伝』)
232年、兵を休養させて農耕に努め、流馬・木牛を完成させ兵を訓練した。(『後主伝』)
劉琰(りゅうえん)は劉備が豫州刺史の頃からの古参で、高位にあったが国政には参与せず、諸葛亮のそばで批評や建議をするだけだった。
232年、魏延と不仲になって妄言を吐いたため、諸葛亮に叱責され、成都へ返された。
2年後、妻と劉禅の密通を疑ったため劉禅の怒りを買い処刑された。(『劉琰伝』)
233年、兵糧を斜谷に集めた。(『後主伝』)
同年、劉放(りゅうほう)は孫権の文書を手に入れると、呉が魏に寝返ろうとする内容に改竄し、諸葛亮に見せた。
諸葛亮は歩騭(ほしつ)に問いただし、孫権は自身でねんごろに弁明した。(『劉放伝』)
234年、流馬(輸送車)で兵站を強化し、五丈原に布陣し司馬懿と対峙した。
司馬懿は以前から決戦を挑みたいとたびたび要請してきたが、曹叡は却下し続けていた。
この年にはもう抑え切れないと感じ、辛毗を大将軍軍師・使持節に任じてその指示に従うよう命じ、「ひたすら防御を固めて合戦に応じなければ、兵糧が尽きて撤退する。そこを追撃するのが完全な勝利を得る方法である」と詔勅を下すと、司馬懿もそれに従った。(『明帝紀』・『辛毗伝』・『諸葛亮伝』)
兵站に常々悩んでいた諸葛亮は兵を分けて屯田させた。屯田兵は住民と雑居したが、治安を安定させ乱暴を働かなかった。(『諸葛亮伝』)
郭淮は諸葛亮が北原を狙っていると読み、先に占拠するよう主張したが人々は反対した。しかし司馬懿を説き伏せて駐屯すると、防備が整わないうちに蜀軍が来襲した。
諸葛亮は西へ兵を動かし、諸将はそれに備えるよう言ったが、郭淮だけが陽動と読み的中させた。(『郭淮伝』)
対峙すること100日余り、8月に病に倒れ陣中で没した。享年54。
蜀軍の撤退後、軍営や砦を視察した司馬懿は「天下の奇才である」と称えた。(『諸葛亮伝』)
諸葛亮は臨終の前に楊儀・費禕・姜維らに撤退の指図を与え、魏延に殿軍を任せるがもし従わなかったら置き去りにするよう命じた。
はたして魏延は自分が指揮をとり戦いを続けると言い、指示通りに置き去りにされた。指揮権をめぐって楊儀らと争った末に討たれた。(『魏延伝』)
楊儀は全軍撤退に成功し魏延も誅殺したことから、諸葛亮の後継者になるのが当然だと考えた。しかし諸葛亮は楊儀の狷介・偏狭な性格は不向きだと思い、蔣琬に後事を託した。
楊儀は激怒し「諸葛亮が没した時に魏へ寝返れば良かった」と暴言を吐いたため庶民に落とされ、その後も反省するどころか誹謗を続けたため自害に追いやられた。(『楊儀伝』)
諸葛亮に抜擢された譙周(しょうしゅう)は訃報を聞くとすぐさま家を飛び出し、遺体のもとへ駆けつけた。禁止の詔勅が下ったが、譙周だけがその前にたどり着けた。(『譙周伝』)
遺言により定軍山に葬られた。山を利用して墳墓を作らせ、塚は棺が入るだけの大きさで、着たままの服で収められ、副葬品は無かった。
劉禅は「君は文武の才を兼ね備え、叡智と誠実さを持ち、先帝(劉備)から孤児(劉禅)を預かり助けてくれた。後漢王朝の復興のため毎年出征し、武勲は輝き威光は世界の果てまで浸透した。しかし天に哀れみはなく大業を成す前に病に倒れた。朕は悲しみ心臓が張り裂けそうだ。忠武侯と諡する。もし霊魂があるならばこの恩寵と栄誉を喜んでくれ。ああ哀しいかな、ああ哀しいかな」と詔勅を下した。
諸葛亮は生前、生活に必要な俸禄があり、余財を作り陛下(劉禅)の心に背く真似はしないと言っていたが、その通りだった。
生まれつき創造力に優れ、連弩・木牛・流馬を開発し、兵法を応用し八陣図を作り全てが理にかなっていた。言葉や文書にも見るべきものが多く、文集としてまとめられた。
子の諸葛瞻(しょかつせん)が爵位を継いだ。(『諸葛亮伝』)
呂乂(りょがい)は諸葛亮の北伐の兵站を支えた。
諸葛亮の没後、太守を務める蜀郡には混乱に乗じて多くの逃亡兵が入り込んだが、呂乂の防止策により1万を超える者が徒党を離れて郡から去った。(『呂乂伝』)
廖立は諸葛亮の死を聞くと復帰の望みが絶たれたことを嘆いた。(『廖立伝』)
李厳も希望を失い、悲憤から病を得て没した。(『李厳伝』)
諸葛亮を失った人々は誰もが危惧を抱いたが、後継者の蔣琬が悲しみも喜びも示さずいつもと全く変わらない様子だったため、次第に心服されるようになった。
楊敏(ようびん)が「右往左往し前任者(諸葛亮)に全く及ばない」と非難した時も、処罰を建議されると「前任者に及ばないのは事実だ」と取り合わなかった。
なおも「右往左往していると言ったのは問題だ」と採り上げられたが「前任者に及ばなければ事を上手く処理できない。処理できなければ右往左往する。何が問題なのだね」とやめさせた。
後に楊敏が別件で投獄されると、誰もが処刑されると考えたが、蔣琬は私情を挟む人間ではなく、重罪に問われなかった。このように道理をもとにした態度を常に貫いた。(『蔣琬伝』)
241年、楊戯は「季漢輔臣賛」で「英明高邁であり、(赤壁の戦いで)曹操を撃滅する策を立て呉と蜀を同盟させ、蜀を後漢王朝を継ぐ正統の地位につける算段をした。劉備の遺命を受けて宰相となり、武備・文治を整え徳による教化を徹底したため、賢者も愚者も競い合って滅私奉公した。領内と国境を安定させると征伐に臨み、魏を消耗させたが討ち滅ぼすことなく終わったのが残念である」と評した。(『楊戯伝』)
251年、甥(諸葛瑾の子)の諸葛恪(しょかつかく)は弟への手紙の中で「私は才能が無いから丞相(諸葛亮?)が漢王室のために働いた手柄を辱めてしまうのではないかと心配だ」と(口だけは)殊勝なことを述べた。
252年、諸葛恪は議論をぶってなにがなんでも出兵する姿勢を示し、その中で「叔父上の上表(出師表?)を読むごとに心を動かされ深い嘆息をつかないことはなかった」と述べた。(『諸葛恪伝』)
255年、陳泰(ちんたい)は姜維が四方から兵を集結させる策を立てているのではと危惧したが、司馬昭は「諸葛亮も常々それを考えていたが不可能だった。ましてや姜維に担える仕事ではない」と退けた。(『陳羣伝』)
263年、霊廟が建立された。
同年秋、魏が侵攻し、鍾会は霊廟に詣でると墓の周辺で草や薪を刈るのを禁じた。
274年、陳寿は詔勅により諸葛亮の文書や事績を「諸葛氏集目録」としてまとめた。正史には列伝の体裁に背いて陳寿の上奏文が記されており、諸葛亮への敬意と考えられる。(『諸葛亮伝』)
蜀は史官も記録係も置かなかったため、事実に遺漏が多く災害の記録も残らなかった。諸葛亮は政治に熟達していたが、こうしたことでは周到でないところもあった。(『後主伝』)
陳寿は「民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、(余分な)官職を減らし、時代にあった政策に従い、真心を開き公正な政治を行った。忠義や利益ある者は仇であっても必ず賞し、法を犯し怠慢な者は身内でも必ず罰した。罪に服し反省した者は重罪でも赦し、言い訳やごまかしをする者は軽い罪でも処刑した。善行は小さくても必ず賞し、悪行は些細でも必ず罰した。あらゆる事柄に精通し、物事の根源をただし、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にも掛けなかった。かくして領内の人々はみな彼を尊敬し愛した。刑罰も政治も厳格だったが恨む者がいなかったのは、心配りが公正で、賞罰が明確だったからである。政治のなんたるかを熟知し、管仲・蕭何に並ぶ名宰相である。しかし毎年出兵しながらよく成功を収められなかったのは、臨機応変の軍略は得手としていなかったからだろうか」と評した。
また「諸葛氏集目録」の上奏では「軍隊の統治には長じていたが奇策は劣り、将軍の才略より人民を統治する才幹のほうが優れていた。しかも敵は傑出した人物で、蜀は兵数でも劣った。管仲・蕭何に次ぐ才能があったが、配下に王子城父や韓信がいなかった。それに天命は定まっていて智力で争うことは不可能である」と記した。
蔣琬・費禕の評では「諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、その方針に沿って改めなかった」と諸葛亮の(優れた)やり方を何も変えなかったことを称えた。
なお正史で君主以外で単独で列伝されているのは諸葛亮と陸遜だけである。
「演義」では神算鬼謀の名軍師としてほとんど神がかりの大活躍をする。おそらく日本で(中国でも?)最も人気のある三国志の登場人物だろう。
SLGなどではたいてい知力はMAXで、作品によっては「諸葛亮の発言は必ず的中する」、「策略が必ず成功する」公式チートになっていることすらある。
|