諸葛誕 疑心暗鬼が破滅を招く

諸葛誕(しょかつたん)字は公休(こうきゅう)
徐州琅邪郡陽都県の人(??~258)
魏の臣。
はじめ尚書郎として滎陽県令を務めた。
「魏氏春秋」に曰く。
尚書郎の時、杜畿(とき)とともに船の試運転をしていたところ、突風にあおられ転覆した。救出の船が出されると「先に杜侯を救ってくれ」とそれを拒んだ。岸に流れ着き、気を失っていたが息を吹き返した。(『諸葛誕伝』)
黄初年間(220~226)のことで、杜畿は溺死した。(『杜畿伝』)
都に上り吏部郎となった。昇進の依頼を受けると必ず推薦する理由を言わせてから起用し、後にその人物について判断を下す場面では、推薦した理由を公式に採り上げて議論させたため、官僚らは慎重に推挙するようになった。
次第に昇進し御史中丞・尚書となった。夏侯玄(かこうげん)・鄧颺(とうよう)らと親しく名声を集めたが、虚名をはびこらせていると糾弾する者がおり、曹叡は彼らを嫌い罷免した。
「世語」に曰く。
一派は互いに称号を付け合い、夏侯玄ら4人は「四聡」、諸葛誕ら8人は「八達」、劉煕(りゅうき)ら名家の子3人は「三豫」と呼ばれ15人いた。曹叡は彼らが軽薄な評判をもてはやす風潮を作り出しているとし、全員を罷免した。(『諸葛誕伝』)
董昭(とうしょう)の「教化を損ない、反乱した魏諷(ぎふう)らの罪よりも重い」という進言により罷免された。(『董昭伝』)
「呉書」に曰く。
229年、諸葛瑾(しょかつきん)が大将軍になった時、諸葛恪(しょかつかく)・諸葛融(しょかつゆう)ら二人の子も高位にあり、蜀では諸葛亮が丞相を務め、魏では族弟の諸葛誕も名声を馳せていた。三国で一門が代表的な地位にあることを人々は称えた。(『諸葛瑾伝』)
239年、曹叡が没すると夏侯玄らは要職にあったため、諸葛誕は御史中丞・尚書に返り咲き、揚州刺史となり昭武将軍を加えられた。(『諸葛誕伝』)
呉が揚州を攻める気配を見せると、諸葛誕は王基(おうき)に事態を予測させた。王基は「陸遜は死に、孫権は年老い、後継ぎも策士もいません。孫権が自ら出撃すれば災いを招き、配下に任せようにも古参は亡くなり新参は信頼できず、守りを固めるだけでしょう」と言い、その通りになった。(『王基伝』)
「江表伝」に曰く。
247年、呉は諸葛壱(しょかついつ)に偽装投降させた。諸葛誕は兵1万を率い出迎えに向かったが、罠に気づいて撤退した。(『呉主伝』)
249年、専権を振るう曹爽(そうそう)・鄧颺ら一派が司馬懿に粛清された。(『斉王紀』)
251年、王淩(おうりょう)の謀叛が明らかになると司馬懿は密かに討伐軍を出し、諸葛誕は(功績あり)鎮東将軍・仮節都督揚州諸軍事となり山陽亭侯に封じられた。
252年、東興の戦いで諸軍を指揮し、胡遵(こじゅん)とともに7万の兵で攻めたが諸葛恪に敗れ、鎮南将軍・都督豫州諸軍事に転任させられた。
毌丘倹(かんきゅうけん)が代わって鎮東将軍・都督揚州諸軍事となった。(『諸葛誕伝』・『毌丘倹伝』・『孫亮伝』)
「漢晋春秋」に曰く。
諸葛誕が「呉へ2方面から侵攻して上流を抑え、精鋭で東興を攻めれば救援が来る前に大勝を得られます」と献策した。
敗北すると処罰が建議されたが司馬師は「諸葛誕の言うことを聞き入れなかった私の過ちだ」と却下した。
253年、諸葛恪は勢いに乗って合肥新城を包囲したが敗走した。
「魏略」に曰く、守将の張特(ちょうとく)が守り抜いた。諸葛誕は彼を無能だと思い交代させようとしていたが転任し、後任の毌丘倹はそのまま守備を任せた。
254年、夏侯玄が謀叛に関与し誅殺された。(『斉王紀』)
255年、毌丘倹・文欽(ぶんきん)が寿春で反乱した。諸葛誕は寝返りを誘われたが、その使者を斬り、反乱軍の非道さを訴えた。(『諸葛誕伝』)
「王沈魏書」に曰く。
文欽は同郷で親密だった曹爽が処刑されると謀叛を考えたが、諸葛誕とは憎み合っていたため相談せず、毌丘倹と共謀した。(『毌丘倹伝』)
司馬師は討伐軍を率い、諸葛誕に豫州の諸軍を指揮させ寿春へ向かわせた。毌丘倹・文欽は敗走し、諸葛誕は真っ先に寿春に着いた。城内にいた10万の民は罪に問われるのを恐れ、城門を壊して外へ逃げ、山野や呉へ逃げ込む者もいた。
諸葛誕は淮南を長年に渡り治めていた経験を買われ、鎮東大将軍・儀同三司・都督揚州諸軍事となった。
呉の孫峻(そんしゅん)・留賛(りゅうさん)らは反乱に乗じて侵攻し、文欽と合流して寿春へ向かったが、諸葛誕が守りを固めていたため撤退した。蔣班(しょうはん)に追撃させ留賛を討ち取り、官印や節を奪った。
その功により高平侯に進み、3500戸を与えられ、征東大将軍に転任した。(『諸葛誕伝』)
孫峻が攻め寄せると諸葛誕は鄧艾に肥陽を占拠するよう命じたが、鄧艾は敵軍と遠く要害でもないと判断し、附亭に駐屯して呉軍を撃退した。(『鄧艾伝』)
諸葛誕はきわめて親密だった夏侯玄・鄧颺が殺され、王淩・毌丘倹らの末路を見て恐怖を感じ疑心暗鬼となった。
倉を傾けて施しをして民の心を引きつけ、配下や揚州の侠客ら数千人を厚遇し、命知らずの腹心とした。
「王沈魏書」に曰く、恩賞は度を超えたもので、死罪を犯した者さえ法を無視して助けてやった。
256年、呉が兵を動かすと諸葛誕は備えを固めるために10万の増兵と、新たに築城を願い出た。
朝廷は手勢で十分に対処できるはずだと計算しており、諸葛誕の疑心に気付いていたが、代々の功臣だったため都へ招聘し処置を考えようとした。
257年、司空に任命された。都に呼び出し処分するつもりだと恐慌をきたし、ついに挙兵した。
揚州刺史の楽綝(がくちん)を殺し、淮南・淮北の諸軍10万と、揚州で奪った4~5万の兵、1年の籠城に堪える兵糧を集めて寿春の守備を固める一方、末子の諸葛靚(しょかつせい)を呉へ人質に出し救援要請した。
呉は大いに喜び、全懌(ぜんえき)・唐咨(とうし)・王祚(おうそ)・文欽らに3万の兵を率いさせ、諸葛誕を左都護・仮節・大司徒・驃騎将軍・青州牧・寿春侯に任じた。
王基が寿春を包囲したが、完成しないうちに唐咨・文欽が援軍を連れて城内に入った。
「裴松之の注」に曰く。(※出典を書き忘れたのか記されていない)
諸葛誕の視察から戻った賈充(かじゅう)は「揚州で威名を轟かせ人望を集めています。招聘しても絶対に来ないでしょうが、それをきっかけに反乱すれば災難は小さくなります。招聘しなければ(ますます力を蓄え)災難は大きくなります」と報告した。
司空の任命を受けた諸葛誕は「私が三公になるのは王昶(おうちょう)の後のはずだ。しかも兵を楽綝に渡せとある。これは楽綝が手を回したに違いない」と言い、数百人の手勢を連れて揚州へ向かった。
門を閉ざされたが「お前は私の部下だっただろ」と城兵を怒鳴りつけて開門させ、楽綝を殺した。
「魏末伝」に曰く。
賈充が司馬氏への帝位の禅譲について意見を求めると、諸葛誕は激怒し挙兵を決意した。都へ向かう前に閲兵式をしたいと騙して楽綝を殺し、「楽綝が諸葛誕は呉と内通していると騙り、詔勅と偽って兵を奪おうとしたから誅殺した」と上奏した。
(※裴松之は「魏末伝の記述はいつも浅薄である。諸葛誕の上奏がこれほどまでに事実を曲げているとは信じられない」と指摘する)(『諸葛誕伝』)
司空に任命された時、鍾会は母の喪に服していたが、諸葛誕の謀叛を察知し司馬昭のもとに赴きやめるよう進言した。司馬昭は手続きが済んでいるため却下し、諸葛誕ははたして反乱した。鍾会も討伐軍に随行した。(『鍾会伝』)
龐会(ほうかい)・路蕃(ろばん)は反乱に加担せず逃亡し、列侯された。(『斉王紀』)
同時期に呉から孫壱(そんいつ)が亡命して来たため、ある人が「呉は内乱で揉めて出兵できないでしょう。戦いを急ぐ必要はありません」と言ったが、鍾毓(しょういく)は「孫壱が連れてきたのは兵300程度で呉にとって大した損害ではありません。速やかに諸葛誕を討伐しなければ援軍が現れるかも知れません」と反対し、司馬昭もそれに同意し親征した。
(※裴松之は「そもそも呉が内乱で揉めているというのも根拠がなく、鍾毓の意見もとりわけ称揚する価値はない」と指摘する)(『鍾毓伝』)
王基は詔勅により籠城を命じられたが、反対し進撃を要請した。
呉から朱異(しゅい)が諸葛誕の救援に送られると、北山を占拠せよとの詔勅が下ったが「今は下手に動かず包囲陣を固めるべきだ。移動し籠城すれば人心は動揺する」と上奏し許可された。(『王基伝』)
司馬昭は26万の討伐軍を催し、王基・陳騫(ちんけん)に寿春を二重に包囲させ、非常に高い櫓を築かせた。
石苞(せきほう)・州泰(しゅうたい)に精鋭の遊軍を任せ救援に対処させ、城内の文欽が包囲の突破を図ったり、呉の朱異が大軍で2度攻め寄せたが全て撃退した。
孫綝は腹を立てて朱異を殺し、寿春の食糧も乏しくなり、救援も見込めなくなって士気は落ちた。
蔣班・焦彝(しょうい)は諸葛誕を見捨てて魏へ降伏した。
「漢晋春秋」に曰く。
蔣班・焦彝は「朱異が殺され呉軍の撤退は間近です。呉軍がまだおり城兵の戦意があるうちに決死の覚悟で戦いを挑むべきです。全面的な勝利は得られなくても助かる者があるはずです」と進言した。
だが諸葛誕は「呉軍はたびたび魏軍に勝って勢いに乗り、我々や援軍の家族は呉にいるから、撤退も見捨てられることもない。それに魏では平穏が1年続いたことはなく、包囲戦が始まって1年経つから間もなく異変が起こるはずだ」と聞き入れなかった。
蔣班・焦彝はなおも言い募ると文欽は激怒し、諸葛誕も蔣班を殺そうとしたため、二人は恐怖を感じ、諸葛誕は必ず敗れると考え降伏した。(『諸葛誕伝』)
鍾会は呉から亡命してきた全輝(ぜんき)・全儀(ぜんぎ)に呉軍にいる叔父の全懌へ「国に残った一族が処刑されかかったから亡命してきた」と伝えさせた。全懌ら全氏の部隊はこぞって魏へ降伏して厚遇され、諸葛誕・呉軍は動揺した。(『鍾会伝』)
王基は包囲陣の東と南の二軍を率い、指揮を執る司馬昭は軍吏に、王基の部署ではその指示に従うよう命じた。諸葛誕は兵糧が尽きると何度も出撃したが、そのたびに王基に撃退された。(『王基伝』)
王昶は江陵に圧力を加え、呉の朱績(しゅせき)らが救援に向かうのを阻止した。(『王昶伝』)
陸抗も救援軍に従軍し魏軍を撃破し昇進した。(『陸遜伝』)
姜維も連動して出兵したが、司馬望(しばぼう)・鄧艾は守りを固めて応戦せず、翌年に諸葛誕が敗北すると撤退した。(『姜維伝』)
258年正月、諸葛誕は大量の兵器を造り、5~6日に渡って包囲を破ろうとした。
「漢晋春秋」に曰く、文欽が「蔣班・焦彝が包囲を破れないと話しているだろうし、全懌らも降伏したから、魏軍は警戒を解いている」と進言し、諸葛誕・唐咨も同意し総攻撃を掛けた。
包囲軍は石と火矢で兵器を破壊し、諸葛誕軍にも降り注いだ。死傷者で地面は覆い隠され、塹壕は流血であふれた。城内へ撤退し、兵糧もついに尽き、数万人が城を出て降伏した。
文欽は揚州の兵と呉の援軍だけ残して兵糧を節約しようと言ったが、諸葛誕は承知せず仲間割れした。文欽はかねてから諸葛誕と険悪で、いよいよ互いに疑心暗鬼となり、ついに諸葛誕は文欽を殺してしまった。
文欽の子の文鴦(ぶんおう)・文虎(ぶんこ)は出城におり、仇討ちしようとしたが兵が従わなかったため、二人だけで魏へ亡命した。
本来なら処刑されるところだが、司馬昭は「追い詰められて帰順した者を殺せば、反乱軍の心を結束させてしまう」として赦免し、文鴦・文虎を列侯して将軍に任じ、数百騎で城の周りを駆けめぐらせながら「文欽の子ですら赦されたぞ。他の者は何も心配いらない」と降伏を呼びかけさせた。城兵の士気は地に落ち、飢餓も日に日に酷くなった。
魏軍が総攻撃を仕掛けると抵抗する者もなく、追い詰められた諸葛誕は手勢を率いて突撃し、胡奮(こふん)に討ち取られた。
三族皆殺しとなり、数百人の腹心も最後まで降伏しなかった罪で処刑されたが「諸葛公のために死ぬのだ。心残りはない」と誰も恨まなかった。これほどまでに人心をつかんでいたのである。
唐咨・王祚ら呉軍1万も降伏し、奪った武器・軍需物資は山のように積み重なった。
「晋紀」に曰く。
数百人の腹心は胸の前で手を組まされ、一列に並び一人ずつ斬られた。一人斬るごとに降伏を呼びかけたが、全員が翻意しなかった。人々は数百人が殉死した前漢の田横の最期と比較した。
呉の于詮(うせん)は「大の男が主君の命令を受けながら、救援もできず勝利も得られず降伏するなど、私の取る道ではない」と言い、兜を捨てて魏軍に斬り込み討ち死にした。
寿春を包囲した当初、諸将は早期決着を望んだが、司馬昭は「城は固く兵は多く我々は力及ばない。援軍が現れれば挟み撃ちにされる。3人の反逆者(諸葛誕・文欽・唐咨)が集まっているのは、天が一網打尽にさせようとしているのかもしれない。ありったけの策略で城に釘付けにし、じっとしたまま制圧するのがよかろう」と却下した。
諸葛誕は結局、ひとりでに追い詰められてゆき、攻撃するまでもなく自壊した。
「晋紀」に曰く。
寿春では淮水が毎年あふれていたため、諸葛誕は「攻撃するまでもなく司馬昭は水に呑まれる」と嘲笑った。
しかし日照りが続き、城が陥落したその日に大雨で氾濫し、包囲陣の砦は全て崩壊した。
反乱が鎮圧されると、淮南は毌丘倹・諸葛誕と反乱が続いたことから呉軍とともに全員処刑すべきだと論者らは主張したが、司馬昭は「古代の用兵は敵国の民を傷つけずに屈服させるのを最上とし、指導者のみ処罰する。呉の兵が逃げ帰るなら、魏の広い度量を示す良い機会だ」と却下し、一人も処刑せず都の周辺へ移住させた。
唐咨や副将らも全て赦免され、降伏した呉の兵は感激し服従した。呉もそれに心動かされ、降伏した者の家族を処罰しなかった。
諸葛誕に脅迫され反乱に加担した者は、首謀者だけが殺され、文鴦・文虎は文欽の遺体を葬ることを許された。
「傅子」に曰く。
宋建(そうけん)は牛を生贄にして神に祈ったが、敗れて焼身自殺した。
文欽は毎日天を祀っていたが殺された。
諸葛誕は夫婦で巫女を集め邪神を崇めたが一族皆殺しとなった。
天下の人々が目撃した(神にすがっても無駄だという)良い手本である。(『諸葛誕伝』)
蜀を滅亡させた鍾会は姜維を気に入り、杜預(とよ)に「姜維を中原の名士に例えるなら諸葛誕や夏侯玄でも敵うまい」と称えた。(『姜維伝』)
「晋紀」に曰く。
諸葛靚は呉に仕え、滅亡すると晋に降り故郷へ帰った。
「晋諸公賛」に曰く。
文鴦は晋で名声を博したが、諸葛誕の孫の司馬繇(しばよう)に誣告され三族皆殺しとなった。(『諸葛誕伝』)
陳寿は「剛毅にして威厳ある」と称えつつも王淩・毌丘倹・鍾会ら各方面の司令官を務めながら反乱した人々とともに列伝し「名声を得て栄誉ある地位を勝ち取ったが、みな大きな野心を抱き、災禍を考えなかった。判断力が狂っていたのではなかろうか」と評した。
「演義」では諸葛亮の従弟(実際には族弟)だったため重用されなかったと設定。司馬氏の専横に怒って挙兵したとされ、腹心が揃って殉死した逸話も記される。
|