蔣琬 諸葛亮の後継者

蔣琬(しょうえん)字は公琰(こうえん)
荊州零陵郡湘郷県の人(??~246)
蜀の臣。
20歳の時、従弟の劉敏(りゅうびん)とともに名を知られた。
州の書佐として劉備に従い、広都県長に任じられた。
ある時、劉備がたまたま広都県を訪れると、蔣琬は仕事をほとんど放置していた挙げ句に泥酔しており、激怒した劉備は処刑しようとした。
諸葛亮が「蔣琬は国家を背負う大器で、県を治めるような小人物ではありません。民の安定を根本とし、外見を気にしないのです。それをご推察ください」と懇願したため、罷免に留められた。
その後、蔣琬は門前に転がった牛の首が血を流す夢を見た。夢占いに長けた趙直(ちょうちょく)に尋ねると「宰相の資質あり公の位に上る大吉です」と占われた。ほどなく什邡県令となった。
219年、劉備が漢中王に即位すると、尚書郎となった。
223年、諸葛亮は丞相府を開くと東曹掾に招聘した。
茂才に推挙されたが、廖化(りょうか)らに譲って辞退した。諸葛亮に「期待を裏切り推挙を無視し、民を破滅に導いたら誰の同情も受けられないし、辞退した理由もわからなくなる。君は過去の実績をふまえて推挙されたことを示し、妥当かつ重要な選抜だと明らかにすべきだ」と諭され、受け入れた。参軍に上った。(『蔣琬伝』)
廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、丞相掾の李邵(りしょう)と蔣琬に意見を述べ、劉備や関羽すらこき下ろした。
李邵・蔣琬はすぐに諸葛亮に伝え、廖立は免職のうえ庶民に落とされた。(『廖立伝』)
225年、魏から降伏した李鴻(りこう)は、魏へ寝返った孟達(もうたつ)がいまだ諸葛亮を慕っていると話した。諸葛亮は同席した蔣琬・費詩(ひし)に「孟達に連絡を取ろう」と言ったが、費詩は反対した。
結局、孟達と連絡し寝返りを誘ったが、決起前に司馬懿に殺された。(『費詩伝』)
227年、諸葛亮が漢中に駐屯すると張裔(ちょうえい)とともに留守を預かり丞相府の事務を取り仕切った。(『蔣琬伝』)
228年、魏から降伏した姜維を諸葛亮は高く評価し、張裔・蔣琬に劉禅へ推挙するよう頼んだ。(『姜維伝』)
頼広(らいこう)が没すると諸葛亮は張裔・蔣琬に「頼広と楊顒(ようぎょう)を失い朝廷の損失は多大だ」と嘆いた。(『楊戯伝』)
「襄陽記」に曰く。
同228年、街亭の戦いで敗北を招いた馬謖(ばしょく)は処刑された。
蔣琬が故事を引き「天下がまだ平定されていないのに智謀の士を殺したのは残念です」と言うと、諸葛亮も故事を引き「戦がまさに始まろうとする時に、もし法を無視すればどうして逆賊を討つことができよう」と涙を流しながら返した。(『馬良伝』)
230年、張裔に代わり長史となり、撫軍将軍を加えられた。
諸葛亮の北伐の兵站を担い、「忠義公正を旨とし、私とともに王業を支えるべき人物だ」と常に称えられ、諸葛亮は内密に劉禅へ「私にもしものことがあれば後事は蔣琬に託してください」と伝えていた。(『蔣琬伝』)
同年、馬忠(ばちゅう)は蔣琬の次官となり諸葛亮の留守中の事務を取り仕切った。(『馬忠伝』)
231年、李厳(りげん)は兵糧輸送に失敗した責任を諸葛亮になすりつけようとし、罷免された。
諸葛亮は蔣琬・董允(とういん)へ「陳震(ちんしん)は以前、李厳は腹の中にトゲがあり、郷里の人さえ近づけないと話していると教えてくれた。私はトゲには触れなければいいと思っていたが、まさか蘇秦・張儀(※古代の弁舌家)のような舌先のごまかしが突然行われるとは思わなかった。陳震にも知らせなければ」とぼやいた。(『陳震伝』)
諸葛亮は李厳の子の李豊(りほう)に手紙を送り、「もし李厳が罪を悔いて国のことを思い、君(李豊)が蔣琬と協力し心を尽くし職務に励めば、閉ざされた運を開き、過ぎ去った時を引き戻すこともできるだろう」と励ました。(『李厳伝』)
234年、諸葛亮が没すると尚書令となり、行都護を加えられ、仮節を授かり、益州刺史を兼務した。(『蔣琬伝』)
魏延は撤退命令に従わず楊儀(ようぎ)と争い、揃って互いを告発する文書を成都へ送った。劉禅がどちらが正しいか問うと、董允・蔣琬はともに楊儀の肩を持った。蔣琬は魏延と楊儀の戦いを止めようとしたが、魏延戦死の報が届き引き返した。(『魏延伝』)
楊儀は自分こそ諸葛亮の後継者に相応しいと考えていたが、諸葛亮は狷介・偏狭な楊儀よりも蔣琬にすべきだと話していた。はたして楊儀は中軍師に留められ、職務も与えられなかった。
かつて劉備の尚書を務めていた時、蔣琬は尚書郎で、後にはともに諸葛亮の丞相参軍長史を務めた。楊儀は諸葛亮の遠征に随行し激務を果たしていたから、年齢・官位・才能の全てが蔣琬に勝ると思い込んでいたため、不満を爆発させ「諸葛亮が没した時に魏へ寝返れば良かった」と言い、配流され庶民に落とされた。それでも全く反省せず、ついに自害させられた。(『楊儀伝』)
「益部耆旧雑記」に曰く。
諸葛亮が危篤に陥ると李福(りふく)が派遣され、国家の大計について諮問した。帰り道、李福は後継者を聞き忘れたことを思い出し、はせ戻った。
諸葛亮は李福が言う前に「引き返してきた意図は承知している。もう一度来た時に決断するつもりだった。蔣琬が適任者だ」と言った。さらにその後は誰かと尋ねられると費禕と答え、さらにその次は答えなかった。(『楊戯伝』)
蔣琬は益州刺史を費禕・董允に譲ろうとしたが辞退された。(『董允伝』)
蔣琬が刺史を兼務すると譙周(しょうしゅう)が典学従事となり、州の学者を取り仕切った。
楊戯(ようぎ)も招請されて治中従事史となった。(『譙周伝』・『楊戯伝』)
費詩を諫議大夫に任じたが、就任しないうちに没した。(※孟達の件で諸葛亮と折り合い悪く左遷されていたのだろうか)(『費詩伝』)
235年、大将軍・録尚書事に上り、安陽亭侯に封じられた。
諸葛亮を失った人々は誰もが危惧を抱いたが、後継者の蔣琬が悲しみも喜びも示さずいつもと全く変わらない様子だったため、次第に心服されるようになった。(『後主伝』・『蔣琬伝』)
費禕が尚書令を継いだ。(『費禕伝』)
「江表伝」に曰く。
蔣琬の妹は関羽戦死の際(※219年)に呉へ降った潘濬(はんしゅん)に嫁いでいた。
蔣琬が大将軍になると、衛旌(えいせい)に「潘濬が蔣琬と連絡を取り寝返ろうとしている」と吹き込んだ者がいた。衛旌がそれを報告すると、孫権は「潘濬はそんなことをしない」と言い、報告書を開きもせずに潘濬へ送るとともに衛旌を罷免した。(『潘濬伝』)
238年、遼東郡の公孫淵(こうそんえん)の反乱に乗じて北伐の兵を挙げるよう詔勅が下された。
幕府を開き、翌239年には大司馬を加えられた。(『蔣琬伝』)
王平(おうへい)が蔣琬の幕府の事務を司った。
姜維は司馬に任じられ、たびたび一軍を率いて魏と戦った。
楊戯も召され東曹掾となった。
李福も司馬を兼任したが没した。(『王平伝』・『姜維伝』・『楊戯伝』)
杜瓊(とけい)は蔣琬・費禕に高く評価された。(『杜瓊伝』)
蔣琬は張休(ちょうきゅう)に「君の郡には王謀(おうぼう)がいたが、今は誰が後を継いだのか」と尋ねると、張休は「王謀ほどの人物の後継者は州で探してもいません。私の郡ではとてもとても」と首を振った。(『楊戯伝』)
楊戯は大まかな性格で、議論中でさえ蔣琬に返事をしないことがあった。ある人が彼を陥れようと態度の悪さを訴えると、蔣琬は「人の心は顔と同じようにそれぞれ違う。表では従い、裏で文句を言うのは古人も戒めている。楊戯は私の意見に賛成すれば本心を偽り、反対すれば私の非を明らかにすると考え、黙っているのだ。むしろさわやかな態度である」と弁護した。
また楊敏(ようびん)が「右往左往し前任者(諸葛亮)に全く及ばない」と非難した時も、処罰を建議されると「前任者に及ばないのは事実だ」と取り合わなかった。
なおも「右往左往していると言ったのは問題だ」と採り上げられたが「前任者に及ばなければ事を上手く処理できない。処理できなければ右往左往する。何が問題なのだね」とやめさせた。
後に楊敏が別件で投獄されると、誰もが処刑されると考えたが、蔣琬は私情を挟む人間ではなく、重罪に問われなかった。このように道理をもとにした態度を常に貫いた。(『蔣琬伝』)
241年10月、費禕(ひい)が漢中に向かい蔣琬とともに計策を相談したが、年末になり帰還した。(『後主伝』)
242年、馬忠は漢中へ赴き蔣琬に詔勅を伝えた。(『馬忠伝』)
かつて諸葛亮が何度も北伐しながらも、道の険阻さと兵站の困難さから成功しなかったことを考え、水路を使い東へ攻め下る計画を立てた。多くの軍船を造り、魏興郡・上庸郡を襲おうとしたが、持病が悪化し実行できずにいた。
しかも大多数の意見ではもし失敗した場合、川をさかのぼり撤退することができず、良策とは言えないというものだった。
費禕・姜維を通じて取りやめさせるよう詔勅が下されたが、蔣琬は「これは私の使命です。漢中に駐屯して6年、暗愚な上に病にかかって何もできず心を痛めています。魏を滅ぼすことは難しくても、領土の一部を奪うことは可能です。姜維を涼州刺史に任じ羌族と連携して北方へ向かわせ、私が四方に通じた涪に駐屯して動揺に乗じます」と献策した。
243年、認められ、涪に駐屯した。王平が代わって漢中の指揮を執った。
費禕が大将軍・録尚書事を継いだ。蔣琬が固く辞退したため益州刺史も兼務し、費禕の功績・名声は蔣琬に匹敵した。蔣琬・費禕は外地にいても国の恩賞・刑罰の全ては彼らに諮問してから決定された。(『後主伝』・『王平伝』・『蔣琬伝』・『費禕伝』)
244年、歩騭(ほしつ)・朱然(しゅぜん)は「蔣琬は司馬懿が南へ向かっても背後を攻めようとせず、かえって漢中を空にして成都へ帰った」ことなどを証拠に、蜀が魏に寝返ろうとしていると疑ったが、孫権は「司馬懿が南へ行ったのは10日ほどのことで、万里の彼方にある蜀はすぐには動けない」などと一蹴し、寝返りの事実もなかった。(『呉主伝』)
病が悪化し、246年に没した。恭侯と諡された。(『後主伝』・『蔣琬伝』)
「魏略」に曰く、蔣琬が没したため劉禅が自ら国事を見ることとなった。(『後主伝』)
劉備の代には法正(ほうせい)だけが諡号を受けた。
劉禅の代になり多くの者へ贈られ、蔣琬・費禕は国家の重責を担ったため贈られた。(『趙雲伝』)
「華陽国志」に曰く。
当時の人々は諸葛亮・蔣琬・費禕・董允ら4人の宰相を「四相」あるいは「四英」と呼んだ。(『董允伝』)
子の蔣斌(しょうひん)が後を継いだ。
263年、蜀に侵攻した鍾会は蔣斌に手紙を送り「あなたと諸葛瞻(しょかつせん)は私と同じ中原の出身です。父君(蔣琬)の墓に詣で敬意を表したいので墓所を教えて下さい」と請うた。
蔣斌は「世事を離れた事柄なら(たとえ敵味方でも)申し出を断らないと聞きます。父は涪県で亡くなり、占いでも吉と出ましたのでそこへ葬りました。あなたの手紙を読んで感動し、父への追慕の念がつのっています」と返事した。
鍾会もそれに感動し、涪県で蔣琬の祭祀を行った。
劉禅が降伏すると、蔣斌は鍾会のもとへ出頭し、友人として遇された。
弟の蔣顕(しょうけん)も鍾会に評価されたが翌264年、鍾会は反乱し、蔣斌・蔣顕とともに殺された。
従弟の劉敏も活躍し「蔣琬伝」に附伝される。(『蔣琬伝』)
「華陽国志」に曰く。
蜀の旧臣の文立(ぶんりゅう)は晋で高位に上ると、「諸葛亮・蔣琬・費禕の子孫は各地を転々としている」と推挙するよう上奏した。(『譙周伝』)
陳寿は「万事きっちりして威厳があり、費禕とともに諸葛亮の規範を受け継ぎ、その方針に沿って改めなかった。そのため蜀は安定し国家は和合した。
しかし小さな町を治める道をわきまえず(※広都県長の時の失態を指す)費禕・姜維も同様に事を仕損じた。小国でたびたび民の生活を乱すようなことをすべきではなかった」と評した。
裴松之は「蔣琬・費禕は宰相としてよく国民を一つにまとめるよう心掛け、一度も功業を求めた戦をせず、外では侵攻を防ぎ、内では国を安定させた。小さな町の統治が大きな問題だろうか。陳寿はそれらが不十分だと非難し、優れた事績を無視するのは、批判の根拠がなんなのか読者にはわからない」と指摘する。
「演義」では神算鬼謀の諸葛亮と比べると頼りなく、後を継いでからの行動もほとんど描かれなかった。
ちなみにアイコンは筆者の要望により「有能だがいいかげん」な高田純次をモデルにしてもらった。
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