鍾会 野心に身を焼かれた知将

鍾会(しょうかい)字は士季(しき)
豫州穎川郡長社県の人(225~264)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の末子。鍾毓(しょういく)の弟。
幼い頃から早熟で賢かった。
蔣済(しょうせい)は著書の中で「瞳を観察すればその人物の価値がわかる」と記した。
229年、当時5歳の鍾会に会うと(瞳を見て)高く評価し「並外れた人物だ」と言った。
(後に玄学の始祖となる)王弼(おうひつ)と若くして並び称された。
成人すると才略・技能を持ち、博学で論理に通じ、徹夜で学問に励み名声を勝ち取った。
正始年間(240~249)、秘書郎となり尚書中書侍郎に昇進した。
254年、曹髦が帝位につくと関内侯に封じられた。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱では密謀を担当し、司馬昭の後続部隊を指揮した。
帰途に司馬師が急逝し、司馬昭が全軍の総帥となると、曹髦は(司馬氏の勢力を削ごうと)司馬昭は都に戻らず駐屯し、兵を帰還させるよう命じたが、鍾会は傅嘏(ふか)と相談し、詔勅を無視した。
司馬昭は司馬師の後継として実権を握り、鍾会は黄門侍郎に上り、東武亭侯に進み、300戸を与えられた。(『鍾会伝』)
傅嘏は常に才能と性格が一致しないことを論じており、鍾会はそれをまとめて論述した。
司馬昭の後継に貢献した後、鍾会が増長すると傅嘏は「君は野心が器量より大きく、功業を成し難い。慎み深くしなければいけないぞ」と忠告した。(『傅嘏伝』)
257年、諸葛誕が司空に任じられた時、鍾会は母の喪に服していたが、諸葛誕の謀叛を察知し司馬昭のもとに赴きやめるよう進言した。司馬昭は手続きが済んでいるため却下し、諸葛誕ははたして反乱した。鍾会も討伐軍に随行した。
呉が諸葛誕に援軍を送ったが、鍾会は呉から亡命してきた全輝(ぜんき)・全儀(ぜんぎ)に呉軍にいる叔父の全懌(ぜんえき)へ「国に残った一族が処刑されかかったから亡命してきた」と伝えさせた。
全懌ら全氏の部隊はこぞって魏へ降伏して厚遇され、諸葛誕・呉軍は動揺し平定された。
司馬昭は平定にあたって鍾会の功績が大きかったため日に日に親愛の情を増し、人々は張良のようだと称えた。
帰還すると太僕・陳侯に上ったがどちらも固辞し、中郎として司馬昭の腹心を務めた。
後に司隷校尉となったが、都の政治や司法を取り仕切り、嵆康(けいこう)の処刑も鍾会の画策によるものだった。
司馬昭は蜀の国力が衰退し討伐できると考え、鍾会も同意したため二人で計画を練った。
262年、鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事となった。司馬昭は各州に軍船の建造を命じ、呉の討伐をすると見せかけた。
263年秋、蜀討伐が開始し、鄧艾・諸葛緒(しょかつしょ)がそれぞれ3万の兵で姜維に対処し、鍾会は10万の兵を率い成都へ向かった。(『鍾会伝』)
姜維も討伐を察知し張翼(ちょうよく)・廖化(りょうか)に備えさせるよう上奏したが、実権を握る宦官の黄皓(こうこう)は巫女の「侵攻されない」という予言を信じて握り潰した。(『姜維伝』)
許儀(きょぎ)を先行させて道を整備させたが、橋に穴が空き馬が足を取られたため、許儀を処刑した。功臣(許褚)の子を容赦せず殺したことに将兵は戦慄した。
蜀は楽城を王含(おうがん)、漢城を蔣斌(しょうひん)がそれぞれ5千の兵で守っていた。
鍾会は李輔(りほ)に楽城を、荀愷(じゅんがい)に漢城を1万の兵で包囲させ、西方へ進み諸葛亮の墓に詣でた。(『鍾会伝』)
鍾会は墓の周囲で草や薪を採らないよう命じた。(『諸葛亮伝』)
鍾会は蔣斌へ手紙を送り「あなたと諸葛瞻(しょかつせん)は私と同じ中原の出身です。父君の蔣琬(しょうえん)の墓に詣で敬意を表したいので墓所を教えて下さい」と請うた。
蔣斌は「世事を離れた事柄なら(たとえ敵味方でも)申し出を断らないと聞きます。父は涪県で亡くなり、占いでも吉と出ましたのでそこへ葬りました。あなたの手紙を読んで感動し、父への追慕の念がつのっています」と返事した。
鍾会もそれに感動し、涪県で蔣琬の祭祀を行った。(『蔣琬伝』)
胡烈(これつ)に関城を落とさせると、姜維は剣閣に籠城し、鍾会は蜀の将兵・官民に降伏勧告した。
鄧艾・諸葛緒と合流し、鄧艾・田章(でんしょう)が剣閣を迂回して成都へ進み、鍾会は諸葛緒を讒言して兵を奪い、剣閣を攻撃したが勝てなかった。
だが鄧艾が成都に迫り、劉禅を降伏させ、蜀は滅亡した。(『鍾会伝』)
鍾会が剣閣を落とせずにいたため、鄧艾は蜀の桟道を突破する奇策を上奏した。(『鄧艾伝』)
鍾会は姜維に降伏勧告したが黙殺され、兵站も心配になり撤退を考えた。(『姜維伝』)
部下を厳しく取り締まって略奪させず、蜀の官僚も受け入れ、姜維とは極めて親密になった。
詔勅により持節都督諸軍事のまま司徒に任じられ、県侯に進み、1万戸を加増され、2人の子(※生涯独身だったため養子である)が列侯され1千戸ずつ与えられた。
しかし心中では謀叛を企み、まず専権を振るっていた鄧艾を讒言した。司馬昭は鄧艾が逮捕に従わないのを恐れ、衛瓘(えいかん)に命じて鄧艾の配下を説諭させ、武装解除したため鄧艾は獄に下った。(『鍾会伝』)
鄧艾は勝手に人事を壟断したため鍾会・胡烈・師纂(しさん)に弾劾された。(『鄧艾伝』)
鍾会は姜維と同じ車で外出し、同じ敷物に座った。杜預(とよ)に「姜維を中原の名士に例えるなら諸葛誕や夏侯玄(かこうげん)でも敵うまい」と称えた。(『姜維伝』)
鍾会が恐れていたのは鄧艾だけで、討伐軍を独占したことにより反乱を実行しようとした。計画では姜維に蜀の兵を率いさせ、自らは後に続き、長安を落とした後に騎兵と水兵で洛陽へ向かうというものだった。
司馬昭が「鄧艾が抵抗するのが心配だから、賈充(かじゅう)に1万の兵で先行させ、私も10万の兵で長安へ向かう」と伝えると、鍾会は「鄧艾を捕らえるだけなのに大掛かり過ぎる。私の反乱を悟られたのだ。すぐさま挙兵しなければいけないが、成功すれば天下を奪い、失敗しても益州を保持し劉備ぐらいにはなれる。私の計略が失敗したことが一度もないのは誰もが知っており、これだけの(勢力と)功績があればどこも受け入れてはくれまい」と言った。
264年正月15日、前月に崩じた郭太后(かくたいこう)の遺詔と偽り、司馬昭の討伐を宣言して挙兵し、魏軍の地位の高い者と蜀の旧臣を幽閉した。
胡烈の旧臣で鍾会に目を掛けられ随行していた丘建(きゅうけん)が、幽閉された胡烈を哀れみ、獄中に世話係の従卒を一人入れることを許可してもらい、他の将にも同様に許可された。
胡烈は従卒を通じて「丘建が教えてくれたのだが、鍾会は大きな穴を掘って数千の棒を用意しており、魏軍全員を殴り殺して埋めるつもりだ」と子の胡淵(こえん)に嘘を伝えさせ、他の将の従卒もそれにならい、一夜にして全軍に知れ渡った。
鍾会に「幽閉した者を皆殺しにすればいい」と進言する者もいたが決断できずにいるうち、18日に胡淵が軍鼓を鳴らしつつ出撃すると、諸軍の兵もそれに応じ、誰も指揮していないのに一斉に鍾会への攻撃が始まった。
鍾会は仰天して姜維に「どうすればよいか」と聞き、姜維は「戦うだけです」と答えた。幽閉した将を殺そうとしたが、将らは机で門を封鎖して抵抗し、諸軍は城壁を突破し、幽閉された将も脱出してそれに合流した。
姜維は手ずから5~6人を斬ったが討ち取られ、鍾会も兵に殺到されて斬られた。享年40。
蜀の旧臣を含む数百人の将兵が殺された。(『鍾会伝』)
鎮圧の経緯が「晋書」では異なる。
鍾会は鄧艾の逮捕に協力した衛瓘を味方と思い込み善後策を相談した。衛瓘は厠に行くと称して外に出ると、胡烈の昔の配下に事情を話し、成都外の兵に鍾会の反乱を伝えさせた。
衛瓘は鎮圧の兵が集まるまで時間を稼ぎ、城外の騒ぎに気づいた鍾会が様子を見に行くよう命じると、自分で行くよう勧めるなど警戒心を解く工作をした。
衛瓘が出掛けると鍾会はようやく不審を抱き、追っ手を差し向けた。衛瓘は仮病を使い、大量に塩を入れた白湯を飲んで吐いたり、側近の医者に重病と診断させたりして信じ込ませ、まんまと城外へ抜け出すと翌朝に兵を招き入れ、鍾会を誅殺した。(『晋書 衛瓘伝』)
鍾会は反乱に際し益州牧を自称した。(『姜維伝』)
劉禅が降伏すると、蔣斌は鍾会のもとへ出頭し、友人として遇された。
弟の蔣顕(しょうけん)も鍾会に評価されたが、反乱による混乱の中で蔣斌・蔣顕も殺された。(『蔣琬伝』)
張翼も戦死した。(『張翼伝』)
鍾会が誅殺された時、鄧艾は囚人護送車に乗せられて送還中で、配下に助けられた。だが衛瓘が(報復を恐れて)兵を送り殺させた。(『鄧艾伝』)
洛陽に送還される予定だった劉禅は反乱による混乱の中で慌ただしく出発したため、随行できた大臣はおらず、郤正(げきせい)と張通(ちょうつう)だけが妻子を捨て単身で付き従った。
また劉禅の子の劉璿(りゅうせん)も殺された。
鍾会の死後に略奪が起こり、混乱により死者を出して数日後に平定された。(『後主伝』・『劉璿伝』・『郤正伝』)
司徒の任命も、前年に没した鍾毓の訃報もまだ届いていなかった。
養育していた甥らも投獄されたが、鍾繇・鍾毓の功績に免じて2人が助けられた。
鍾毓が生前に司馬昭に鍾会への懸念を話していたため赦された、との説もある。
論文を残し、家からも鍾会の筆跡に似た「道論」と名付けられた文章が20篇見つかった。(『鍾会伝』)
反乱に加担せず誅殺に貢献した羊琇(ようしゅう)ら5人が顕彰された。
翌265年にも、反乱を諸陣営に触れ回ったため殺された張脩(ちょうしゅう)の弟が列侯された。(『高貴郷公紀』)
蜀への討伐が始まる前、邵悌(しょうてい)は司馬昭へ「鍾会は独身ですから、人質は効果が薄く、別の者に任命すべきです」と進言したが、司馬昭は笑って「私もそれは承知している。だが皆が反対する中、私と鍾会だけが蜀を討伐できると考えているから、任せたのだ。蜀を滅ぼした後に君が心配する通りのこと(反乱)が起こっても、蜀の旧臣は震え上がっているから従わず、魏の兵も無事に帰りたいから同調せず、必ず失敗する。心配はいらないが、他人には言うなよ」と答えた。
後に鄧艾が告発され、司馬昭が自ら兵を率いて長安へ向かおうとすると、邵悌は「鍾会の兵は鄧艾の5~6倍あり、あなたが自ら向かう必要はない」と反対した。
司馬昭は「今度は反対するのか。私は信義を第一とし、自ら人を疑おうとはしない。賈充にも鍾会を疑わないのかと聞かれたから、君に兵を預け先行させるから君を疑ってよいのかと聞き返した。私が長安に着く頃には自然と片がつくだろう。これも他人には言うなよ」と退けた。はたして到着すると既に鍾会は反乱に失敗し討たれていた。(『鍾会伝』)
267年、段灼(だんしゃく)が「鄧艾に野心はなく、安定させるため人事を独断専行しただけで、鍾会は鄧艾の権威・名声を憎み濡れ衣を着せた」と弁護し、273年に鄧艾の子孫は流刑を解かれた。(『鄧艾伝』)
陳寿は「熟練した策略家」と称えつつも王淩(おうりょう)・毌丘倹・諸葛誕ら各方面の司令官を務めながら反乱した人々とともに列伝し「名声を得て栄誉ある地位を勝ち取ったが、みな大きな野心を抱き、災禍を考えなかった。判断力が狂っていたのではなかろうか」と評した。
「演義」でも同様に反乱したが、「従わない者を皆殺しにして穴に埋める」は胡烈の偽りではなく、本当に実行しようとしていた。
「横山三国志」では姜維の降伏で物語が終わるため反乱は描かれない。
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