鍾離牧 少しばかりの稲のこと

鍾離牧(しょうりぼく)字は子幹(しかん)
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)
呉の臣。
「三国志集解」は鍾離斐(しょうりひ)、黎斐(れいひ)を鍾離牧と同一人物と指摘する。
「会計典録」に曰く。
兄の鍾離駰(しょうりいん)は顧譚(こたん)らと並ぶ名声を得たが、幼い頃の鍾離牧はのろまで口下手だった。兄は「弟は必ずや私よりも立派になる。軽んじてはならない」と常々言っていたが、誰も本気にしなかった。
若い頃に永興県へ移住し、自ら田を耕し稲を育てた。稲が実ると、同県の住民がここは自分の土地だと主張した。鍾離牧は「田が荒れ果てていたから開墾しただけだ」と言い、田畑と土地を住民に譲った。
県長はこれを聞くと住民を投獄し、処刑しようとした。鍾離牧が取りなしてやると、県長は「承宮の故事(※土地の権利を主張する者に譲った)を慕ったのだろうが、法に照らして処罰しなければならない。あなたの要求には従えない」と却下した。
すると鍾離牧は「あなたにご配慮いただき滞在していましたが、少しばかりの稲のことで住民を殺されるのなら、もうここにはいられません」と言い、山陰県へ帰ろうとした。県長はあわてて自ら鍾離牧の家へ出向いて慰留し、住民も釈放した。
反省した住民は稲をついて作った米を鍾離牧へ贈ったが、門を閉ざされ受け取られず、住民もそのまま道端へ米を置いて帰った。これにより鍾離牧の名は広まった。
(※徐衆は「異同評」で「立派な人物(承宮)が示した手本を実行した」と称えつつも「仁にして譲だったとまでは言えない」と例によっていちゃもんを付ける)(『鍾離牧伝』)
「会計典録」に曰く。
216年、賀斉・陸遜が鄱陽郡を討伐した時に2千の兵を預けられた。(『賀斉伝』・『鍾離牧伝』)
「会計典録」に曰く。
231年、潘濬(はんしゅん)が武陵郡を討伐した時に3千の兵を預けられたものの、朝議により前線に置き去りにされたが無事に帰還した。(『呉主伝』・『鍾離牧伝』)
242年、郎中から太子輔義校尉となり、南海太守に上った。
「会計典録」に曰く。
合浦郡高涼県で仍弩(じょうど)が反乱すると、鍾離牧は郡を越えて討伐し10日余りで降伏させた。
南海郡の曾夏(そうか)は数千の配下を持つ頭目で、呉は10年以上に渡り爵位や贈り物で懐柔しようとしていたが成果は得られなかった。だが鍾離牧が説得するとすぐに帰順し、従順な民となった。
始興太守の羊衜(ようどう)は滕胤(とういん)へ手紙を送り「鍾離牧のことはよく知らなかったが、南海太守に赴任し、威厳と恩恵が配下に行き渡り、知略と勇気が示されるのをこの目で見た。しかも行いは全く純粋で、古人の風格を備えている」と絶賛した。
太守を務め4年で、病により官を辞した。
後に都に戻り丞相長史となり、司直に転じ、中書令に昇進した。(『鍾離牧伝』)
257年、建安・鄱陽・新都の三郡で山越が反乱したため、監軍使者として討伐し、平定した。頭目の黄乱(こうらん)・常倶(じょうぐ)らは兵を差し出し、功績により鍾離牧は奉亭侯に封じられ、越騎校尉となった。(『孫亮伝』・『鍾離牧伝』)
同257年、諸葛誕が反乱すると呉は援軍を送り、丁奉・黎斐は5万の兵を率い魏を攻撃した。丁奉は包囲を切り崩し功績を上げたが、朱異(しゅい)が撃破され、激怒した孫綝(そんちん)は朱異を殺して士気を下げ、諸葛誕も敗れたため撤退した。(『丁奉伝』・『孫綝伝』)
263年、蜀が滅亡すると、武陵郡の異民族(武陵蛮)は蜀と国境を接するため反乱するのではと議論された。
そこで鍾離牧が平魏将軍・武陵太守として赴任した。魏は郭純(かくじゅん)を同じく武陵太守に任じ、涪陵郡の住民を率いさせ、武陵蛮に寝返りの誘いを掛けさせた。応じる者も現れ、さらに郭純が攻撃すると武陵郡は恐慌をきたした。
鍾離牧が「蜀は滅び、国境を侵略されている。どう守ればよいか」と問うと配下は「異民族は険阻な土地で籠城しているから、兵を動かし刺激すれば結束させてしまいます。恩賞を約束して慰撫すべきです」と答えた。
鍾離牧は「違う。侵略が郡内に及び、民衆をたぶらかしている時は、その根が深くならないうちに叩き潰し、抜かねばならない。迅速な火消しが必要だ」と言い、兵を編成させた。反対する副官はためらいなく処分した。
撫夷将軍の高尚(こうしょう)が「潘濬が初めて武陵郡を討伐した時は5万の兵を率い、呉と蜀は同盟を結んでおり、ゆえに彼らも進んで教化を受け入れました。現在は蜀は滅び、郭純に先に拠点を確保され、あなたには3千の兵しかなく勝算があるとは思えません」と諌めたが、鍾離牧は「非常事態に旧例にならっていられるか」と言い、すぐさま出撃して昼夜兼行で2千里近くを踏破し、奇襲攻撃で頭目100余人と一味1千人余りを討ち取った。郭純の勢力は四散し、武陵郡は平定された。
この功により公安督・揚武将軍に上り、都郷侯に封じられ、やがて濡須督に移った。
「会計典録」に曰く。
濡須督の時、積極的に攻めれば必ず勝てるという確信を得たが、実行に移さなかった。朱育(しゅいく)と酒を飲んだ時、高ぶる気持ちを抑え切れず嘆息すると、朱育は彼が思い通りの爵位を得られないのを不満に思っていると勘違いし、「朝廷の諸先生らは上手く立ち回り、手柄もないのに出世しています。あなたの友人ですら腹が立つのだから、あなた自身はなおさらでしょう」と言った。
鍾離牧は笑い「私は身に余る恩寵を受け不満など感じていない。だが秘策があるのに、陛下には我が名を十分に知られず、朝臣にも妨害されるだろうと考え、嘆息したのだ」と言った。
朱育はそんなことはないから献策すべきだと勧めたが、鍾離牧は故事を引いて反論し「かつて潘濬に従い出兵した時、援軍が送られず見捨てられたことがあった。もし十分に考慮せず献策し、同じことが起きたら次は助からず敗北するだろう」と言った。
前将軍・仮節となり、武陵太守を兼任した。
在官のまま没した。家に余財はなく、士人や民衆はその徳を偲んだ。
子の鍾離禕(しょうりい)が爵位と兵を継いだ。
「会計典録」に曰く。
次男の鍾離盛(しょうりせい)、その弟の鍾離徇(しょうりしゅん)も優れていた。(『鍾離牧伝』)
陸機(りくき)は「弁亡論」で「丁奉・鍾離斐は果敢な軍事行動で名がある」と記した。(『孫晧伝』)
陳寿は「立派な人物の前例を自らも踏み行った」と評した。
「演義」には登場しない。
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