蔣済 酔いどれ軍師

蔣済(しょうせい)字は子通(しつう)
豫州沛国平阿県の人?(??~249)
魏の臣。
出身地は「楚国平阿県」と記され、徐州・豫州・荊州と諸説ある。
郡の計吏、州の別駕を務めた。
208年、赤壁の戦いに際し孫権は合肥を包囲した。
曹操の本隊は多くの兵が疫病にかかっていたため、張喜(ちょうき)に1千騎だけ預け、途中で汝南郡を通過する際に徴兵させたが、そちらも多数が疫病にかかった。
蔣済は、張喜が4万の兵を率いて現れたとする偽の報告書を作り、使者をわざと孫権に捕まえさせた。孫権はそれを信じ撤退した。
209年、曹操は「官渡の戦いの際に、国境の住民を領内へ移住させたら、彼らは逃亡せず、袁紹も略奪しなかった。それにならい淮南でも同様のことをしたいがどう思う」と尋ねた。
蔣済は「官渡の戦いの際はあなたよりも袁紹が強大で、移住させなければ確実に奪われていました。しかし今やあなたの威勢は天下に轟き、住民は服従しています。民は郷里を懐かしむもので、それを無理に移住させたら落ち着かないのではと心配です」と反対した。
曹操は従わず、10万の民が孫権のもとへ逃げた。後に曹操は蔣済に会うと「そもそも孫権の手から避難させようとしたのに、かえって向こうへ駆り立ててしまった」と大笑いした。(『蔣済伝』)
「傅子」に曰く。
曹操は劉曄(りゅうよう)・蔣済ら揚州の名士5人を招聘し、都への道すがら、宿を取ると彼らとの議論に花を咲かせた。
ところが劉曄だけは車で横になったまま一言も話さず、蔣済らが不審に思うと「明君には精神で応じるもので、精神は学ぶものではない」と答えた。
後に揚州の情勢について議論すると、4人は争って発言したが劉曄はやはり喋らず、4人に嘲笑われた。
しかし議論がやんだ時に劉曄が初めて口を開き、曹操がはっとすることが3度あった。劉曄は深遠な言葉は二人きりで話すべきで、座談の場でするものではないと言っていたのだった。
4人は県令に任命され、劉曄だけが腹心となった。(『劉曄伝』)
丹陽太守となり、温恢(おんかい)が揚州刺史になるとその別駕に任命され、曹操は「君がいれば心配ない」と辞令を下した。
後に蔣済が謀叛を企んでいると誣告されると、曹操はその辞令を于禁(うきん)らに示し「謀叛が事実なら私は人を知らないことになる。これは愚民が騒乱を楽しんでいるだけだ」と言い、すぐに釈放させ、召し寄せて丞相主簿西曹属に取り立てた。(『蔣済伝』)
曹操は温恢を刺史に任命するにあたり「あなたをそばに置いておきたいが、揚州の政治の重大さには比べられない。蔣済を治中にしともに任務に当たってくれ」と命じ、丹陽太守の蔣済を呼び寄せた。(『温恢伝』)
若い頃から胡質(こしつ)・蔣済・朱績(しゅせき)は並び称されていた。(※著名な呉の朱績は二人とは年齢が少々離れており、同姓同名の別人の可能性もある)
蔣済が別駕となり曹操のもとを訪ねた際に、胡敏(こびん)に子はいるかと聞かれ「品行と智謀では及ばないが、父よりも精密忠実に事を処理できる息子の胡質がいます」と紹介し、即座に胡質は頓丘県令に任じられた。(『胡質伝』)
「魏略」に曰く。
寿春の県令に任じられた時苗(じびょう)は、治中の蔣済へ挨拶に訪れた。
ところが酒好きの蔣済は泥酔しており、門前払いした。
腹を立てた時苗は家に帰ると、木の人形を作り「酒徒蔣済(飲んだくれ蔣済)」と記し、朝晩それに矢を射るのを日課にした。
人々は流石に不謹慎だと思ったが、時苗の清廉さも実績も人並み外れていたため口出しできなかった。
後に蔣済は太尉まで上ったが、時苗の恨みと不敬な行為を憎まなかった。時苗も蔣済が高位に上ったからといって意志を曲げなかった。(まさか日課を続けていたということか?)(『常林伝』)
219年、関羽が于禁を捕虜にし、曹仁を包囲すると、曹操は都が近いため遷都を考えた。
司馬懿と蔣済は「于禁は洪水に遭っただけで敗北したわけではありません。孫権に関羽の背後を襲わせましょう」と進言し、孫権に敗れた関羽は戦死した。
220年、曹丕は王位につくと相国長史に転任させ、帝位につくと東中郎将に任じた。
都に残りたいと願い出たが、曹丕は「良臣に辺境を鎮めさせたいのだ」と詔勅を下し却下した。
蔣済は「万機論」を著して献上し、曹丕は称えた。(『蔣済伝』)
「万機論」の中で蔣済は許劭(きょしょう)の人物評価は不公平で、樊子昭(はんししょう)を不当に持ち上げ、許靖(きょせい)を不当に低くしていると論じた。劉曄が反論したが蔣済は「樊子昭は清廉潔白だが議論する時の彼の顔は見苦しく、許靖の敵ではない」と言った。
また「許靖は国政を担う人材だが、許劭は低く評価した。もし本当に尊ばなかったなら人を見る目がなく、価値を知りながら不当に貶めたなら優れた人物を無視したことになる」と非難した。(『龐統伝』・『許靖伝』)
都に戻り散騎常侍となった。
曹丕は夏侯尚(かこうしょう)へ「君は腹心であり、特別な任務を授けられ、必死の働きに値する恩寵と寵愛を受けている。配下には刑罰を行い恩賞を施し人を殺し人を生かせ」と詔勅を下した。夏侯尚は蔣済にもそれを見せた。
蔣済は都へ赴き、曹丕に天下の様子を尋ねられると「特に良いことはありません。亡国の言葉があるだけです」と言った。
そして顔色を変えた曹丕へ「刑罰を行い恩賞を施すとは尚書(書名)にある天子だけが用いる戒めの言葉です。古人は慎重で戯れに用いませんでした」と諫言した。曹丕は納得し、詔勅を撤回した。
222年、曹仁とともに呉を攻めた。
曹仁が中洲を攻めようとすると、「自ら地獄に入り、滅亡を招きます」と強く反対したが、曹仁は聞き入れず大敗した。
曹仁が没すると東中郎将に復帰し、曹仁の兵を継いだ。
都に戻り尚書となった。
曹丕が自ら呉を討伐しようとすると、水路の困難さを訴え、「三州論」を著し反対した。曹丕は従わず討伐したが、数千の軍船が渋滞して進めなかった。
この機に兵を留め屯田すべきだと建議されたが、蔣済は「東も北も河に近く、増水の時期に攻められやすい」と反対し、曹丕も同意し撤退した。
処置を任された蔣済は水路を増やし、堤を設けて水を堰き止め、連結させた船を一斉に移動させ帰還した。
曹丕は「事を理解していないというのはまずいものだ。私は船の半数を焼き捨てる覚悟だったが、君は全て回収し、しかも後に残ったのに私とほぼ同時に帰還した。君の言葉を聞くたびに心に染み入ってくる。討伐のこともよく意見してくれ」と称えた。
226年、曹叡が帝位につくと関内侯に封じられた。
曹休(そうきゅう)が呉の討伐へ向かうと、その不利さを訴え、すぐ救援を送るべきだと進言した。既に曹休は敗走しており、救援が間に合ったため全滅を免れた。(※石亭の戦い)
中護軍に昇進した。
当時、専権を振るっていた劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)が力を持ちすぎていると諫言し、曹叡は「文武両道にして忠節を尽くし立派である」と(諫言に従わなかったが)称えて護軍将軍に昇進させ、散騎常侍を加えた。(『蔣済伝』)
中護軍の蔣済は官吏選抜を担当する衛臻(えいしん)に、平民や下僕からも優秀な者は登用すべきだと意見したが、衛臻は「それは乱世の作法であり、治世でそれを行えばかえって争いを起こす」と反対した。(『衛臻伝』)
蔣済は著書の中で「瞳を観察すればその人物の価値がわかる」と記した。
229年、当時5歳の鍾会に会うと(瞳を見て)高く評価し「並外れた人物だ」と言った。(『鍾会伝』)
「戦略」に曰く。
232年、曹叡は田豫(でんよ)・王雄(おうゆう)に遼東郡を攻めさせた。
蔣済は「敵対関係にない国を攻めて勝てなければ敵に回してしまうだけです。一度の戦で容易に勝てると考えた者が具申したのでしょうが、もし勝てたとしても国を豊かにするほどの利益は得られません」と反対したが、却下された。
田豫らは平定できなかった。(『蔣済伝』)
233年、満寵(まんちょう)は合肥の城が呉に攻略されかかっていると考え、合肥新城を築くよう上奏した。
護軍将軍の蔣済は「天下に弱さを示し、攻撃されないうちに陥落するに等しい」と反対したが、満寵は聴許を待たずに重ねて上奏し認められた。(『満寵伝』)
「魏略」に曰く。
233年、并州刺史の畢軌(ひつき)は鮮卑の討伐に失敗し他の州へ異動させられたが、蔣済は「過去の過ちは取り返せないが、畢軌は同じ過ちを繰り返すでしょう。人には向き不向きがあり、彼は文学に優れ意志が強いのだから、都に高位で迎え入れたほうが良い。国家のためにそうしてください」と上奏した。
正始年間(240~249)に畢軌は都に戻された。(『曹真伝』)
景初年間(237~239)、外では討伐に、内では宮殿造営に力を費やしたため国力が衰えた。蔣済は厳しく諫言し、曹叡は「護軍(蔣済)がいなければ、こういう言葉は聞けないだろう」と言った。(が従わなかった)
「漢晋春秋」に曰く。
遼東郡で反乱した公孫淵(こうそんえん)の討伐に(司馬懿が)向かうと、公孫淵は呉に臣従しようとした。
曹叡が「呉は救援するだろうか」と尋ねると、蔣済は「呉は救援は困難で無益だと心得ています。もし孫権の子や弟が窮地にあっても動かないのに、ましてや公孫淵は他人で、過去には裏切られてさえいます。救援すると声を上げているのは我々を動揺させ漁夫の利を狙っているだけです。しかし遼東郡は遠方であり、討伐が長引けば浅慮な孫権は本当に攻めてくるかもしれません」と答えた。
高堂隆(こうどうりゅう)と天を祀る儀礼について意見を戦わせ、高堂隆は魏は舜の子孫であると主張し、蔣済はそれは誤りだと非難した。
(※裴松之は「蔣済も魏の祖先がいずれかわからなかったが、祖先では無いかもしれないものを祀り、逆に間違いなく祖父である曹操を格下げし祀らないのは筋が通らないと主張したものである」と理論を認める)(『蔣済伝』)
かつて太和年間(227~232)に蔣済が封禅の儀を行うよう勧めたが、曹叡はその時は聞き入れず、今になって高堂隆に準備させていたが、その途中で亡くなった。
曹叡は「天は私の事業を成就させたくなかったのだ。高堂隆は私を見捨てて死んだ」と嘆息した。(『高堂隆伝』)
239年、曹芳が帝位につくと領軍将軍に転じ、昌陵亭侯に進んだ。(『蔣済伝』)
「魏略」に曰く。
司馬師は護軍になると、親しくしていた前任の蔣済を、護軍に横行していた賄賂のことでからかった。蔣済は弁解のしようもなく、司馬師は「都での買い物は1銭足りなくても駄目だからな」と言い、大笑いし合った。
司馬師の代で賄賂は無くなった。(『夏侯尚伝』)
「列異伝」に曰く。
領軍将軍の時、早逝した息子が蔣済の妻の夢に現れ、孫阿(そんあ)という者が泰山(冥府)の令になるから、彼に頼んで自分を楽な役職に転任させて欲しいと言った。息子の言った通りの人物が見つかり、予告した日に孫阿は没した。(『蔣済伝』)
242年、太尉に上った。(『斉王紀』)
当時、曹爽(そうそう)一派が権力を握り、法を無視してしばしば改定した。日食が起こるとそれにかこつけ蔣済は政治を諫言した。(『蔣済伝』)
王粛(おうしゅく)は蔣済・桓範(かんはん)と議論している時、何晏(かあん)ら一派の話になると「こいつらは弘恭・石顕(前漢の佞臣)の仲間です。これ以上の説明がいりますか」と激昂した。
曹爽は何晏らに「慎重にあらねばならない。王粛ら高官は諸君を前代の悪人と並べていたぞ」と戒めた。後に理由をつけて王粛は免職させられた。(『王朗伝』)
「魏略」に曰く。
桓範は行事で蔣済と会った際に、持っていた著書を蔣済なら公平に評価してくれると思い手渡したが、ろくに見ようともしなかったため恨んだ。
後に議論となった時に怒りをぶちまけ、桓範は「私の先祖は名家で貴公らとは違うぞ」と言った。蔣済は剛毅な性格だが、桓範も同様だと知っていたため、無言で睨みつけた。(『曹真伝』)
「高士伝」に曰く。
太尉の蔣済は隠者の胡昭(こしょう)を招聘したが断られた。(『管寧伝』)
「魏氏春秋」に曰く。
太尉の蔣済は王昶(おうちょう)が褒めそやしていたのを聞き、阮籍(げんせき)を招聘した。(『王粲伝』)
249年、司馬懿が曹爽一派を粛清し、蔣済もその軍に随行した。(『蔣済伝』)
司馬懿・蔣済・司馬孚(しばふ)は連名で曹爽兄弟を罷免するよう上奏した。
「干宝晋書」に曰く。
桓範(かんはん)が曹爽についたことを聞くと司馬懿は蔣済へ「知恵袋が行った(がどうなる?)」と言った。蔣済は「桓範は知恵者だが、駑馬は目先の豆に引き寄せられるから、曹爽は用いられないでしょう」と答えた。(『曹真伝』)
都郷侯に進み700戸を与えられ、「私は高位にありながら曹爽の謀叛を止められず、太傅(司馬懿)が計画を立て討伐しました。功績のない私に恩賞を与えるべきではありません」と辞退したが却下された。(※後世の孫盛はその態度を称えた)(『蔣済伝』)
「晋紀」に曰く。
蔣済は曹爽の父の曹真(そうしん)の勲功を思い、断絶させるべきではないと考え、族孫の曹煕(そうき)に後を継がせるよう計らった。(『曹真伝』)
同年に没し、景侯と諡された。
「世語」と「晋紀」に曰く。
蔣済は曹爽に「司馬懿は罷免するだけだと言っている」と伝えたが、誅殺されたのを気に病んで病にかかった。(『蔣済伝』・『曹真伝』)
251年、王淩(おうりょう)は謀叛に加担し一族もろとも殺された。
「魏氏春秋」に曰く、かつて蔣済は司馬懿に王淩の子らの評価を聞かれ、「王淩は文武両道で並ぶ者のない人物ですが、息子らはそれ以上です」と答えた。
蔣済はすぐに「私の言葉は、人の一門を滅ぼすことになる」と悔やんだ。(『王淩伝』)
陳寿は程昱(ていいく)・郭嘉・董昭(とうしょう)・劉曄・蔣済を同伝に収め「才能・知略に優れた世の奇士である。清潔さと徳行では荀攸(じゅんゆう)に及ばないが、はかりごとを立てた点では仲間である」と評した。
非常に面白い人物なのに「演義」どころかほとんどの創作にも登場しない。
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