譙周 陳寿の師匠

譙周(しょうしゅう)字は允南(いんなん)
益州巴西郡西充国の人(??~270)
蜀の臣。
幼くして父を失った。長じると歴史を愛好して学問に精を出し、貧しさを顧みず、書物を朗読しては一人でにこにこし、寝食も忘れた。
六経を研究し、書も巧みで天文にも明るかったが、予知はしようとしなかった。諸子百家には関心なく全ては読まなかった。
身長8尺で素朴な風貌で、誠実で飾り気なく、当意即妙の弁論はできなかったが、見識を内に秘めた明敏な頭脳だった。(『譙周伝』)
「春秋然否論」に曰く。
若い頃、秦宓(しんふく)をしばしば訪ね質問した。(『秦宓伝』)
譙周は実際に役立つ才能がないと思われ、尊敬し心を寄せる者も少なかったが、楊戯(ようぎ)だけは彼を重んじ、「我らの子孫は結局このノッポに劣るだろう」と称えた。見識ある人々は楊戯の人物を高く評価した。(『楊戯伝』)
220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に勧学従事として連名した。(『先主伝』)
223年、諸葛亮は益州牧になると譙周を勧学従事に任じた。
「蜀記」に曰く、初めて諸葛亮に会った時、譙周の様子を見て皆が思わず吹き出した。無礼であると処罰が建議されたが、諸葛亮は「私でさえ我慢できなかったのだ。ましてや左右の者はしかたあるまい」とたしなめた。
234年、諸葛亮が没すると譙周はすぐさま家を飛び出し、遺体のもとへ駆けつけた。禁止の詔勅が下ったが、譙周だけがその前にたどり着けた。
蔣琬(しょうえん)が益州刺史を継ぐと典学従事に転じ、益州の学者を取り仕切った。
238年、劉璿(りゅうせん)が太子に立てられると、太子僕となり、太子家令を務めた。
当時、劉禅は頻繁に遊びに出たり、宮中の歌手や楽員を増やしていたため、諫言した。
中散大夫に転じた後も劉璿に近侍した。
姜維がたびたび討伐に出て国力が衰退すると、陳祗(ちんし)とともにその利害を論じ「仇国論」としてまとめた。
光禄大夫に上り九卿に次ぐ地位となるも政治には携わらなかったが、学識と品行によって礼遇され、大きな問題について意見を求められると、経典に基づき回答した。
学問に熱心な後進も疑問があれば譙周に尋ねた。(『譙周伝』)
杜瓊(とけい)は図讖(予言)を極めていたが用いることはなかった。
譙周に理由を聞かれると「この術は非常に困難で、自身で全てを見分けねばならない。朝も晩も働いてようやくわかったら、今度はそれが他人に洩れないか心配になる。それならやらない方がマシなのだ」と言った。
さらに譙周は、同じく図讖に優れた周舒(しゅうじょ)が、かつて予言書の記述を「当塗高とは魏なり」と読み解いたことの解説を求めた。杜瓊は「魏とは宮城の門の名称だ。塗(道)に当たって高くそびえている」と言い、また「漢になって初めて官職を曹と呼ぶようになった。官吏は属曹、下役人は侍曹と呼ぶ。曹氏に属し、侍るという意味だ。漢が魏の曹氏に取って代わられたのは、ほとんど天の意志だ」と話した。
後に譙周は杜瓊の言葉を基として様々な予言を的中させ「これは私が推論したものだが、杜瓊の言葉を基に押し広げただけだ。独自に到達したものなど全く無い」と語った。(『杜瓊伝』)
263年、魏軍が侵攻すると、備えのなかった蜀は混乱し、民衆はこぞって山野へ逃げ、止められなかった。
劉禅が対策を議論させると、ある者は呉へ亡命するよう言い、ある者は南中へ逃げ戦いを続けるよう言った。
譙周だけが「古来より他国に身を寄せて天子のままだった者はおりません。呉へ亡命すれば臣下として服従することになります。呉が魏を征服することは不可能で、いずれは魏に滅ぼされます。同じく臣下となるなら、魏に降るべきです。呉に降れば後に魏にも降ることとなり、屈辱を2度受けます。南中へ逃げようにも事前の準備もなく急に逃げ出せば、どんな変事が起こるかわかりません」と降伏を訴えた。
ある人が「降伏を受け入れられなかったらどうするのか」と問うと、譙周は「まだ呉が服従していないから、受け入れないわけにはいかず、受け入れれば礼遇しないわけにはいきません。もし陛下(劉禅)が諸侯に封じられなければ、私が魏の都へ行き古代からの建前を説きます」と答え、誰も反論できなかった。
劉禅はなおも南中へ逃亡しようと迷ったが、譙周は「諸葛亮の討伐以降、南中は税や労役を課せられ恨んでいます。逃げても魏軍に追撃されます。国の体裁を整えるために南中を消耗させれば必ず反乱されます。残された官民が離反します」と4つの理由を挙げて反対し、「南中へ逃げ、追い詰められた後に降伏しても礼遇されません。災禍は迫り、喜んで降るのではなく、やむをえずそうするのです」と説き、ついに劉禅も同意した。
かくして劉禅は身を保ち、蜀の民も無事だったのは譙周のおかげである。
後世の孫綽は「降伏し恥辱を受けるくらいなら君主と臣下はともに滅びるべきだった」と、孫盛は「国家存亡の危機とまでは言えず、東へ逃げて険阻な地形を盾に戦いを続け、南中と呉からの援軍を待つべきだった。劉禅は暗愚な君主で、譙周は全くどうしようもない臣下だった」と非難し、張播は「劉禅が惰弱で降伏を勧めても危害を加えられないと判断したのだろう。カッとなり無茶をやる君主なら一族皆殺しにされていた」と指摘する。(『譙周伝』)
264年、蜀を制圧した衛瓘(えいかん)は戦利品として2つの印鑑を得て、相国の蔵に収めた。
それを聞いた向充(しょうじゅう)は「譙周はかつて、劉備の「備」は完結という意味があり、劉禅の「禅」は授けるという意味がある。合わせれば「劉氏は完結し、授ける」という意味になる、と話していた。
魏の実権を握るのは相国の司馬炎で、蜀の最後の元号は「炎興」だった。劉氏が帝位を終え、それを授けるという意味を持つ印鑑が、司馬炎の蔵に収められた。これは天の意志である」と語った。(『向寵伝』)
司馬昭は劉禅を守った譙周を称え、陽城亭侯に封じた。都へ招いたが、漢中まで来たところで重病にかかり動けなくなった。
265年、(蜀の旧臣で晋に仕える)文立(ぶんりつ)が訪ねると、譙周は8月に司馬昭が没すると予言し的中させた。
帝位についた司馬炎は詔勅を下し、病身の譙周を世話して都へ送るよう各地へ命じた。
267年、洛陽へ着くといまだ病床にいたため、出向いて騎都尉に任じた。譙周は功績がないことを理由に爵位と封土の返還を申し出たが許されなかった。
269年、休暇を取り家へ帰る陳寿が挨拶に訪れると、譙周は「孔子は72歳、劉向・揚雄は71歳で没した。私も70歳を超え、できれば彼らを慕いたいものだ。おそらく来年を迎えられず、君と再会することはないだろう」と言った。
陳寿は「きっと天文を見て寿命を知り、孔子の話にかこつけ教えてくれたのだろう」と述懐する。(※正史に著者の陳寿本人が顔を出すのは極めて珍しく、譙周への敬意の表れと考えられる)
270年、散騎常侍となったが重病のため拝命せず、冬に没した。
100余篇の著作を遺した。3人の子がおり、末子の譙同(しょうどう)は父に似て忠実・質素で招聘されたが出仕しなかった。
「晋陽秋」に曰く。
司馬炎は衣服を贈ろうとしたが、子の譙煕(しょうき)は「父は病により一度も朝見できなかったから、衣服を賜っても着せてはならないと遺言しました。故郷は遠く道も険しく、帰るのに難儀するためあらかじめ軽い棺を作りました」と言い、司馬炎は衣服を贈るのをやめ、棺の費用を払うよう命じた。
「益部耆旧伝」に曰く。
益州刺史の董栄(とうえい)は州の学校に譙周の肖像画を飾らせ、李通(りつう)に命じて称賛させた。
陳寿は「文章の解釈に広く通じ、当代の大儒であり、董仲舒・揚雄に匹敵する。譙周・郤正(げきせい)は晋にも仕えたが蜀での事績の方が多かった」と評した。
「演義」では登場が早く、益州を攻める劉備への降伏を勧めたり、劉備が帝位につくのに賛成。諸葛亮の北伐に反対し、その死を察知するが、いずれも天文を見て占っていた。蜀滅亡の際には降伏を勧めた。
「吉川三国志」ではわけのわからないことに「周譙」に改名されている。「吉川英治三国志に詳しくない説」の傍証だが、それ以前に編集・校正は何をしていたのだろう。
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