向秀  竹林の七賢・道家を再興させる



向秀(しょうしゅう)字は子期(しき)
司隸河内郡懐県の人(??~??)

隠者。
いわゆる竹林の七賢の一人。

清悟にして遠識があり、若くして山濤(さんとう)に知られ、老荘を好んだ。
荘子は数十篇を残し、歴代の人士が学んできたが、上手く意味や流れを論じられる者がいなかった。向秀はこれに奥深い注解を付け、文意を明らかにし、道家の気風を奮い起こした。読者は従来より深意を悟り、誰もが満足した。
司馬衷の代に郭象(かくしょう)も注を著し(※向秀の注がまだ広まっていないため盗作したとも疑われる)、これにより儒学は廃れ道家が盛んとなった。
向秀が注を付けようとすると、はじめ嵆康(けいこう)は「荘子は注を付けられるようなものではなく、他人の読書を妨害するだけだ」と反対した。完成すると向秀はそれを読ませ「思っていたより優れていないか」と言った。
嵆康とは養生を論じもし、多くの書簡を交わした。内容は厳しく、嵆康は気高さを刺激されたのだろう。
嵆康は鍛冶を好み、向秀はそれを楽しそうに手伝い、そばに人(※鍾会のことだろう)がいても無視した。呂安(りょあん)とも親しく、協力して庭に川を流した。(『晋書 向秀伝』)

嵆康・向秀はともに自給自足し、鍛冶仕事で生計を立てた。(『晋書 嵆康伝』)

嵆康・呂安が司馬昭の不興を買い誅殺された後、向秀は郡の会計報告のため都に上った。
司馬昭が「君は隠遁を志しているのになぜ来たのか」と問うと、向秀は「(古代の隠者の)巣父や許由は、位を譲ろうとした堯の心を理解せず、思慕するに値しません」と答え、司馬昭を喜ばせた。
一方で「思旧賦」を作り嵆康・呂安を偲んだ。
後に散騎侍郎となり、黄門侍郎・散騎常侍に転じたが、名目だけで職務には携わらなかった。(『晋書 向秀伝』)

賈充(かじゅう)と任愷(じんかい)は激しく敵対し、それぞれ党派を作り争った。向秀は任愷と親しかった。(『晋書 任愷伝』)

在官のまま没した。(『晋書 向秀伝』)

「演義」には登場しない。