鍾繇  剛直なる裁き



鍾繇(しょうよう)字は元常(げんじょう)
豫州穎川郡長社県の人(151~230)

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

魏の臣。
鍾会・鍾毓(しょういく)の父。

族父の鍾瑜(しょうゆ)と洛陽へ向かった時、途中で会った人相見に「この子は出世するが、水難に気をつけなさい」と言われた。
10里も進まないうちに川へ落ちて死にかけ、鍾瑜は占いを信じ学費を出してやった。

孝廉に推挙され、尚書郎・陽陵県令に任命されたが、病で辞めた。
三公の府に召され、廷尉正・黄門侍郎となった。
当時、董卓残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らに長安の都を牛耳られ、関東とは隔絶されていた。曹操は兗州牧になると、初めて都へ使者を送った。李傕・郭汜は「関東では別に天子を立てようとしており、何か裏があるに違いない」と疑い、使者を受け入れなかったが、鍾繇は「各地で群雄が勝手に詔勅を偽造しているのに、曹操はきちんと朝廷に心を寄せています」と取り成してやり、使者の往来を認めさせた。
曹操は荀彧がたびたび鍾繇を称えているのを聞いており、この件でますます気に入った。
鍾繇は韓斌(かんひん)とともに策略をめぐらせ献帝を守り、長安からの脱出に貢献した。
御史中丞に任じられ、侍中・尚書僕射に上り、東武亭侯に取り立てられた。(『鍾繇伝』)

曹操に「君に代わり策謀を立てられる人物は誰か」と尋ねられた荀彧は、荀攸(じゅんゆう)・鍾繇を推薦した。(『荀彧伝』)

曹操は荀攸と話し合うと大満悦で「並々ならぬ人物だ。彼と事を計ることができれば、天下に何を憂えることがあろうか」と荀彧・鍾繇に語った。(『荀攸伝』)

鍾繇・荀彧が杜襲(としゅう)を推挙した。(『杜襲伝』)

袁紹は河北を制圧して強大な勢力を獲得し、一方で曹操は呂布・張繡(ちょうしゅう)に挟まれ、しかも宛城の戦いで張繡に大敗したばかりで、つけあがった袁紹は曹操へ非礼な手紙を送った。
曹操は激怒したが手紙を伏せたため、鍾繇らは曹操の態度が変わったのは宛城の敗戦を引きずっているのだろうと考えたが、荀彧は「公(曹操)は済んだことを後からくよくよしない。何か他に理由があるのだ」と言い、自ら尋ねると、曹操は手紙を見せ「しかし袁紹の勢力には敵わない。どうすればよいか」と方策を聞いた。
荀彧は袁紹と曹操の人物を比較し「4つの点で勝り、しかも天子を推戴し正義があるのだから、袁紹の強大さなど何の役にも立ちません」と答えた。
曹操がさらに「袁紹が関中へ勢力を伸ばし、益州も制圧したら、私は天下の5/6と戦うことになる」と問うと、それにも「関中の勢力は一つにまとまらず、韓遂(かんすい)・馬超は我々が戦っても様子見をします。彼らと同盟を結べば長期間の安定はできなくても、袁紹と戦っている間ぐらいは動かないでしょう。西方は鍾繇に任せれば心配ありません」と献策した。(『荀彧伝』)

曹操は袁紹との戦いを控え、関中で大勢力を持つ馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)らへの対処を鍾繇に任せた。
侍中のまま司隷校尉を兼務し、持節として関中の指揮権を与えられ、法に縛られず裁量できる権利も得た。
利害を説いて説得し、馬騰・韓遂は応じて子らを朝廷に人質として参内させた。
200年、官渡の戦いでは馬2千頭を送った。曹操は「馬が大変役立った。西方を警戒する必要が無くなったのはあなたの勲功で、蕭何(劉邦の名臣)が関中を平定したのに匹敵する」と称えた。

匈奴の単于(王)が反乱し、鍾繇が討伐に向かった隙に、袁尚(えんしょう)は郭援(かくえん)に河東郡を占拠させた。
諸将は撤退し郭援に対処するよう言ったが、鍾繇は「関中には袁尚と内通する者がいるが、挙兵しないのは私を恐れているからだ。ここで弱味を見せたら挙兵され、逃げることすらできなくなる。それに郭援(※鍾繇の甥である)は剛情で人を打ち負かすのを好むから、我々を軽く見ている。河を渡る隙に攻撃すれば大勝できる」と言った。
張既(ちょうき)が馬騰を説き伏せ、子の馬超に郭援を攻撃させた。はたして郭援は軽率に河を渡り、鍾繇に襲われ討ち取られた。匈奴の単于も降伏した。
河東郡では衛固(えいこ)らの反乱が続いたが鍾繇に平定された。
旧都の洛陽は空になっていたが、鍾繇は関中から民を移住させ、逃亡者や反乱者も受け入れて数年でだいぶ回復させた。後に曹操が関中を討伐した際に、洛陽を利用できた。前軍師に昇進した。(『鍾繇伝』)

袁氏征伐に功績あった田疇(でんちゅう)は爵位を辞退し、それが不敬であるとして弾劾された。荀彧・鍾繇は田疇の節義を認めてやるべきだと意見した。(『田疇伝』)

211年、漢中の張魯(ちょうろ)の討伐に向かい、夏侯淵が合流した。
馬超・韓遂らは本当は自分達を討伐するつもりだと疑い、挙兵した。(※潼関の戦い)(『武帝紀』)

高柔(こうじゅう)は「馬超らを刺激し挙兵させてしまいます。先に三輔を平定すれば漢中は檄文一つで平定できます」と反対したが、曹操は聞き入れず、はたして馬超らは反乱した。(『高柔伝』)

213年、魏が建国されると大理となった。(『鍾繇伝』)

大理として鍾繇は優れた推察力で法を運用し、王朗(おうろう)は寛容に努め疑義があれば軽い方の刑に処した。ともに裁きの見事さを称えられた。(『王朗伝』)

214年、荀攸が没した。
仲の良い鍾繇は「私は何か行動する時にはいつも繰り返し考慮し、これでもう変更の余地がないと確信してから荀攸に意見を求めると、常に考えの上を行かれた」と語った。
荀攸は12の奇策を立てたが、鍾繇にしか内容を明かしていなかった。荀攸の死後、鍾繇はその著作集を編集したが、仕上がらないうちに鍾繇も没してしまい、奇策の全ては後世に伝わらなかった。
(※裴松之は「鍾繇が没したのは荀攸の死から16年後で、十分に時間はあった。しかも鍾繇は80過ぎになっても編集中だったという。なんと残念なことだ」と惜しむ)(『荀攸伝』)

人相見の朱建平(しゅけんぺい)は「荀攸は年上の鍾繇より先に亡くなり、遺族の面倒を見てもらうだろう」と占った。
鍾繇はそうなったら妾の再婚相手を探してやるとからかったが、予言通りとなり、それを嘆くとともに朱建平の手腕を称えた。(『朱建平伝』)

216年、崔琰(さいえん)が処刑されると毛玠(もうかい)は曹操を恨み、非難の言葉を吐いたと密告され、投獄された。
大理の鍾繇に事細かにねちねちと詰問されたが、毛玠は故事を引き滔々と反論した。(『毛玠伝』)

同216年、相国に上った。(『鍾繇伝』)

厳才(げんさい)が都で反乱を起こした。王脩(おうしゅう)は車馬を用意させたが、待ち切れず徒歩で宮門に駆けつけた。曹操は遠くからそれを見て「あれは王脩に違いない」と言った。
相国の鍾繇は「しきたりでは宮城に変事があれば九卿は役所にいることになっている」と苦言を呈したが、王脩は「しきたりは危難に駆けつける道義に反します」と意に介さなかった。(『王脩伝』)

鍾繇・王粲(おうさん)が「聖人でなれば太平を招けない」と論じると、司馬朗(しばろう)は「伊尹・顔回は聖人ではないが彼らに政治を任せれば太平を招ける」と反論した。(『司馬朗伝』)

曹丕は太子になると鍾繇に釜を贈り、称賛する銘文を彫りつけた。

219年、魏諷(ぎふう)の反乱の責任を問われ罷免された。(『武帝紀』・『鍾繇伝』)

220年、曹丕が王位につくと大理に復帰し、帝位につくと廷尉となり、崇高郷侯に進んだ。
224年、太尉に上り、平陽郷侯に転封された。
当時の三公の華歆(かきん)・王朗・鍾繇は曹操以来の名臣で、曹丕は「この三公こそ一代の傑物だ。後の三公が彼らに並ぶのは難しいだろう」と称えた。(『文帝紀』・『鍾繇伝』)

226年、曹丕が些細な罪で鮑勛(ほうくん)に死罪を命じると、鍾繇・華歆・陳羣(ちんぐん)・高柔ら名だたる重臣が反対し、父の鮑信(ほうしん)の功績に免じるよう訴えたが、曹丕は聞き入れず処刑させた。(『鮑勛伝』)

同226年、曹叡が帝位につくと定陵侯に進み、500戸を加増され1800戸となり、太傅に昇進した。
膝を痛め拝伏や立ち上がりがままならず、華歆も高齢で病を得たため、朝廷には車に乗って参内させ、衛兵が抱えて席につかせるよう取り計らった。以後、三公に病があれば慣例となった。

かつて曹操が刑罰について議論させた時、鍾繇は肉刑(※死刑の代わりに設ける身体への刑罰)の復活を建議した。(『鍾繇伝』)

陳羣が父の陳紀(ちんき)が肉刑を唱えていたため意見を求められ、復活を建議し鍾繇も賛同した。曹操も深く賛同したが王朗ら反対する者も多く、天下もいまだ定まらないと保留された。(『陳羣伝』)

曹丕の代にもまた協議されたが、戦により沙汰止みとなった。
太和年間(227~232)、鍾繇は三度建議し、王朗ら多数が賛成したが、三国統一が先決とまたも沙汰止みとなった。(『鍾繇伝』)

蔣済(しょうせい)は著書の中で「瞳を観察すればその人物の価値がわかる」と記した。
229年、鍾繇は当時5歳の末子の鍾会を会わせると(瞳を見て)高く評価し「並外れた人物だ」と言った。(『鍾会伝』)

230年に没した。
曹叡は喪服を着て弔問し、成侯と諡した。
子の鍾毓が後を継いだ。曹丕の代に領邑を分け弟ら3人も列侯されていた。
鍾毓は頭の回転の速さとにこやかな話術は父の風格あり、「鍾繇伝」に附伝される。(『鍾繇伝』)

243年、建国の功臣の一人として曹操の霊廟の前に祀られた。
(※裴松之は「荀攸を差し置いて鍾繇が祀られたのは理解し難い」と指摘する)(『斉王紀』)

鍾会は263年、蜀を討伐し降伏させたが、翌年に反乱し殺された。
鍾繇の孫らも連座されたが、鍾繇・鍾毓の功績に免じて数名は恩赦された。
鍾毓が生前に司馬昭に鍾会への懸念を話していたため赦された、との説もある。(『鍾会伝』)

隷書に巧みで名だたる書家と並ぶ名声を得た。(※現代にも「鍾繇体」として書体が伝わり、楷書の元祖として今もなお学ばれている)(『管寧伝』)

許靖(きょせい)は張裔(ちょうえい)を「実務の才があり頭の回転が速い。鍾繇の仲間だ」と評した。(『張裔伝』)

陳寿は「道理に通じ司法の才がある」と称え、華歆・王朗とともに列伝し「まことにみな一時代の俊傑だった。魏が帝位についた時、彼らは最初に三公に上り立派なことである」と評した。

「演義」では活躍のほとんどが描かれず、潼関の戦いでも馬超に敗れた。失脚した司馬懿を一族の命を賭けて復帰させたオリジナルエピソードがほぼ唯一の手柄である。